三
さて、自暴自棄なところはお見せしたが、私は本来真面目な女である。
決まった仕事はしっかりとこなす。
書評に対しても、同じだった。
引き受けてしまったからには誠心誠意、顔も知らない作者に喜ばれるようなものを、しかし公正に真っ直ぐ魅力を伝えられるものを書きたい。
書評の締め切りは、一色の厚意なのか、苦痛だとわかっているからこその謝意なのか、随分と長めに用意してくれていた。
しかし部屋にこもって書いていると、やはり自己嫌悪で卑屈な文章になってしまう。新人作家の、青い叫びの小説を勧める文章として、どう考えても不適切だろう。
いっそフランス文学の書評なら今はいくらでも良いものが書けそうだと思ってしまうくらい、そんな調子で私は鬱々としていた。
「……よし、外で作業しよう」
思い立って、勢いよく立ち上がる。
どこかのカフェで仕事、なんてオシャレで気分も上がるというものじゃないか。
そんな発想に、自分というのはどこまでいってもテンプレートな人間なのだなと苦笑を浮かべる。
でもまぁ、それで良いのだ。
凡庸さにも良さはある。
誰もが特別じゃないし、特別じゃなくても幸せはある。
そう、特別になる必要なんてないのだ。
そしてこれもテンプレートな行動の結果で、同じ立場になったらみんながみんな同じことをするのかもしれないが、私はあの打ち合わせのカフェに行くこととした。
嫌悪するあの男にまた会ってしまう可能性は頭にあったが、会えたら書く内容の相談ができるし、かといって会いたくはないので、いないならばいないでラッキーくらいの軽い気持ちだと、自分では認識していた。
もしかしたら、会って直接もう一度問い詰めたいくらいの気持ちは、無自覚のうちにあったのかもしれないが。
あのカフェまでは電車でほんの数駅だ。通うにちょうど良い。
アンティークなドアを押し開ければ、また軽やかなドアベルの音がして、例の少女が姿を見せた。
あの最後の微笑を思い出して、少しどきりとする。
彼女も一瞬驚いたような顔をして、首を横に振る。
おそらく、一色はいないと伝えたいのだろう。
「あぁ、こんにちは。今日は一色さんと待ち合わせじゃないのよ」
私は聞かれてもいないのに、弁明のようにペラペラと喋った。
「お仕事が行き詰まっちゃってね、素敵なお店だったから気分転換にと思って」
彼女は曖昧な表情で頷いて、それから奥の、長居しやすそうな席を指し示してくれた。
「ありがとう、助かるわ」
彼女は無表情のままメニュー表を差し出してくる。
「そうねぇ……この前普通のブレンドコーヒーを飲んだから……」
少し迷って、それからふと少女に笑いかけてみる。
「今日は軽食も食べようと思うんだけれど、飲み物とご飯物ひとつずつ、あなたのおすすめとかってあるかな?」
少女は戸惑ったように眉を寄せて、パッとキッチンの奥へ走り込んで行ってしまった。
やってしまった、と反省をする。
先日の彼女の笑顔が妙に気掛かりで、思わず話し過ぎてしまった。
ただの微笑なのに、どうしても頭から離れない、あの……。
やはり立ち去ろうかと、申し訳なく席を立とうとした時、奥から料理人、カフェだからマスターと呼ぶべきなのだろうが、そんな雰囲気の男性が慌てた様子で席に走ってきた。
恰幅は良いが健康そう、いかにも食に関心がありそうな、額に汗を浮かべた中年男性だ。
「いやぁ、すみません! あの子、声が出なくって」
「あ……こちらの方がごめんなさい。声のこと、存じていたんですが、指差しとかでコミュニケーションが取れたら嬉しいと思ってしまって……」
「あっ。いや、それはありがたいことで……」
マスターが困ったように、キッチンからこちらを伺っている少女と、私との間でキョロキョロと目線を揺らす。
そのままぐるっと店を見渡して、忙しない様子のマスターはふぅと溜め息をついてから、私の方へと向き直った。
「お飲み物と軽食、タダでお出ししますから、ちょっとお話し聞いてもらっても良いですか?」
「え?」
それは意外な申し出であった。
客のほとんどいない店とはいえ、まだたった二回しか来ていない私に何を話すことがあるというのだろうか。
「あ、その、もちろんお伺いしますよ。私も彼女を困らせてしまいましたし……。あ、ですが食事代はもちろんお支払いします」
ここからはお金についての大人の押し問答で、結局は私が「じゃあ常連になります」と宣言し、折れることとなった。
マスターが少女に声をかける。
「有紗、お店クローズにして、二階上がってて」
有紗と呼ばれた少女は、何か考えるように私の顔を数秒じっと見て、それから言われた通りにカフェを閉めると階段を上がっていった。
「有紗さん……マスターの娘さんなんですか?」
マスターは「ええ」と、困ったように笑った。
「名乗りもせずにすみません。僕は尾倉裕平と言って、さっきのが娘の有紗です。お飲み物とお食事、何お出ししましょうか?」
「あ、清水唯と申します。メニューどれも美味しそうで、さっき、有紗さんにおすすめをお聞きしたんですが……」
「お、そういうことでしたら、すぐにお持ちしますよ」
娘が心配で仕方ないのだろう、尾倉は不自然な明るさでキッチンに戻ると、十数分もしない内にサンドイッチとコーヒーカップを二セット持って戻ってきた。
「こちら七月用のブレンドコーヒーと、『おぐらトースト』です」
出されたお皿を見て、私はきょとんとする。
コーヒーカップと並べられた分厚いトーストは、ベーコンとチーズがサンドされ、さらに上に目玉焼きが乗せられており、つまるところ所謂クロックマダムだった。
「小倉トースト?」
その反応を楽しみにしていたのだろう、尾倉はガハハというような、豪快な笑い方をした。
「ちょっとしたギャグなんですよ、『おぐらトースト』って言ったら、みんな名古屋の餡子のやつ、思い浮かべるでしょう? でもほら、私の名前が尾倉ですからね、平仮名のおぐらトーストは『シェフの気まぐれトースト』って。あ、普通の小倉もありますよ!」
「あぁ、なるほど」
ふふっと思わず吹き出してしまう。
私が笑ったのを見て安心したのか、尾倉はまたふぅと息を吐いた。
「メニュー、工夫されてるんですね」
「ははは、本当は味で勝負しなきゃなんでしょうけどね!」
「コーヒーのブレンドも、毎月違うんですか?」
「はい! 妻のこだわりでして」
「あぁ、奥様の」
この続きがわかるような気がして、私は少し居住まいを正した。
「まぁ、二年前に死んじまったんですが……」
「それは……御愁傷さまです」
予想通りの言葉に、しかしやはり顔を顰めてしまう。
尾倉はまたわざとらしくガハハと笑って、「でもこれがありますから」とコーヒーを呷った。
「毎月のブレンドのレシピ、生真面目なやつでね、全部きっちり残しといてくれたんですよ! 娘も店も、全部あいつのくれたものだらけですからね、僕ぁ大雑把な人間だから、ちゃんと守っていかなくちゃって」
「……ブレンド、とっても美味しいですよ」
コーヒーを一口啜って、微笑んで見せる。
「……人は忘れる生き物ですけれど、匂いの記憶は最後まで残るそうです。コーヒーの匂いは印象的で特別ですし……マドレーヌと紅茶で昔を思い出す小説なんかもありますから。このカフェとコーヒーでいつでも、あなたも他のみんなも、奥様の思い出にお会いできる。素敵なご夫婦で、素敵なカフェですね」
なんだか雑学めいて気取った、嫌な物言いだったかもしれないと言ってから恥ずかしくなり思わず目を伏せる。
そこから少しの沈黙。
気まずくなって目線を上げれば、尾倉は何かにひどく驚かされたようにぽかんと口を開けて、まん丸の目でこちらを見ていた。
「……あ、不躾な物言いでしたでしょうか……」
「あ! いえ、全然、そんなことはなくって!」
おずおずと尋ねれば、尾倉はぶんぶんと大きく身体全体を使って否定を示す。
「その、一色さんと同じことを言うもんですから……」
今度はこちらが驚く番だった。
胸の底がざわりとする。
「一色さんと?」
「ええ、あの人も、マドレーヌと紅茶の本の話をしてて……。あぁ、やっぱりあなた方は似てらっしゃるんだ……」
何かに安堵したように、尾倉は言葉を吐き出す。
「実は有紗の、娘のことでご相談があるんです」
「……ええ、なんでしょう?」
そう来るとは思っていたが、流石に他人である。
何か確信し切ったような尾倉の態度とは反対に、むしろ身構えて私は次の言葉を待った。
「妻が死んでから、有紗は声が出せなくなってしまったんです。あいつはまだ十七で……当時なんて十五だから……。ストレスだろう、自然回復とリハビリしかないって医者は言うんですが、改善するかもわからなくて、学校も行かなくなっちまって……」
「……そうだったんですね。やはり先ほど、急に声をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
「ああ、いや、違うんです。むしろ僕は、そうして欲しくって……」
言いながら辛くなってきたのだろう、尾倉はもうほとんど泣き出しそうだった。
「せめてもで店を手伝ってもらって、社会と断たれないようにって思ってるんですが……だからあなたに、店に来てくださった時は、娘に声をかけてやって欲しいなって……」
「なるほど……」
「あいつはあんな態度ですから、嫌な思いもされると思います。ですがこの店に、失礼かもしれませんが、あなたくらいの年齢のお客様が来てくれるのは珍しくって……」
あぁ、と得心する
母親のような、人生の先輩となって娘を愛してくれる女性の役割を、私は求められているのか。
なんだか妙な気分であった。
子育てどころか結婚も恋愛もこれまで一切縁がなかったような私が、母親という概念を求められている。
できるわけない、というのが脳の理性的な判断だった。
断って、二度と来ない方が良い。
最後までしっかりと背負い切れないものに手を出すのは、何もしないことよりも残酷だ。
「私、結婚もしていませんし、子供と接するのも慣れていませんから……」
私が断りの文句を口にしようとするのを遮って、「そんなのは構いません」と尾倉は言う。
「妻が死んでから、有紗が心を開いているのは一色さんだけなんです。祖母や親戚も駄目でした。でも一色さんのお知り合いなら、清水さんならもしかしてって、さっきの言葉を聞いて尚更……」
一色と私は全く別世界の人間で、単なる仕事相手なのだと否定するのも今は間違っているような気がして、私は何も言えなかった。
父親として、藁にも縋りたい思いなのだろう。
一色と似ているとされるのも奇妙な気持ちだ。
私はあんな異常者ではない。
だがもう既に、私はその手を取っている。
歯車が回り出したのでは、という希望的な錯覚がする。
迷う気持ちに視線を揺らせば、ふっと二階に上がったはずの有紗が、階段の影からこちらを盗み見ているのが見えた。
ハッとして、目を逸らす。
見詰めてしまったら父親にもバレてしまうだろう。
視界の隅で、彼女が階段裏に身を隠した。
不意に、くしゃくしゃの折り紙を見せてきた少女とその母親の姿が思い浮かんだ。
私はふぅと溜め息をついた。
「わかりました、できる限りでですが」
これもまた養分。
そして私だって、肥料になることで得られないものの擬似体験をできるのだ。
書評を書いて全国に自分の文章を発刊できるように。
母親代わりをすることで、得られなかった娘と作り上げるような関係性を味わえるように。
「本当ですか! ありがとうございます!」
立ち上がらんばかりの勢いで喜ぶ尾倉に笑顔を返しつつ、階段裏から顔を出している有紗に小さく頷いて見せる。
彼女はまた何を思っているのかわからないような真顔で、そっと二階へと上がっていった。
「あ、それじゃあ、あんま長く仕事の邪魔しちゃいけませんよね!」
尾倉はかき込むように残りのトーストとコーヒーを食べると、バッと立ち上がって、急いで店の表示をクローズからオープンへと変える。
まるで私が考え直すのを恐れ、その暇を与えないようにするかのようだった。
「また何かあったら、いつでもお声掛けください、それじゃあ!」
勢いよく言い切って、尾倉はキッチンへと引っ込む。
早まったかなと考えもしたが、まぁ決めたことは決めたことだ。
一応努力はするが、どうなるかなど有紗次第でしかないし、このことは気楽に考えようと、私はPCへと向き直った。
そのままうんうんと声にならない唸りをあげつつ、一時間ほど粘る。
書評が全く書き進められないので、妙に飲み食いだけが早く終わってしまって、どことなく気まずかった。
書いては消して、書いては消して。
あぁ、こんなに悩むなら青春小説をたくさん読んで、いや、自分自身で青春に積極的になっておくべきだった。
若い女の子の恋心なんて、私に巧く評せるわけがないのだ。
もう今日は諦めようかと席を立ちかけた時、ふっと視界に影が落ちた。
なんだと顔を上げれば、そこには有紗が立っていた。
細い白い手に、ノートとペンと、それからポチ袋を持っている。
「あら、有紗ちゃん?」
驚いてパタンとPCを閉じ、それから努めてゆっくり話すように口を開いた。
「どうしたの、おばさんに何かご用かな?」
有紗がポチ袋をテーブルに置き、ノートを見せてくる。
『これ、前回のお釣りです』
「……あぁ!」
前回、店を飛び出したことを思い出して、顔を赤くする。
「いやぁ、良いのに、ごめんなさいね。ご丁寧にありがとう」
それだけかと思っていたら、彼女はそのまましばらくじっと私の顔を見つめている。
それがなんだか気まずくて、私はそっと手のひらを握り込んだ。
数拍ののち、有紗はノートにサラサラと何かを書き始める。
その文字を読んで、私はギョッとしたように顔を顰めた。
『あなた、千里さんの何?』
「……何って?」
意味がわからなかったわけではなく、戸惑ったままの視線を有紗に向ける。
この子はなぜそんなことを私に聞くのだろう。
いや、その意味が読み取れないほど私も未熟ではない。
『恋人?』
「まさか!」
思わず大袈裟な声をあげる。
「ただの仕事相手よ」
有紗が、これまで無表情だった顔をぐっと顰める。
『じゃああなた小説家?』
なんだか訳がわからなくて、私は必死に否定した。
「いいえ、ただの書店員よ。本の売り方の相談してたの」
『そっか』
ふっと何かが緩んだように、有紗はまたいつも通りの無表情に戻った。
そのまま立ち去ろうとする彼女の手首を掴んで、思わず問いかける。
「有紗ちゃん、一色さんと仲良いの?」
それは何の意味も持たない問いかけのはずだった。
しかし有紗はこくりと頷いて、以前のあの、戸口で私に見せた微笑みを浮かべた。
私はパッと手を離した。
『うん、特別なの』
少女らしい言葉選びの見せる妙な雰囲気に、私はそれ以上何も言えず、ただ立ち去る彼女に深い溜め息を吐くことしかできなかった。
一色千里。
尾倉有紗。
己の軽率さをただただ後悔する。
気を抜けば何かに引き摺り込まれそうな、もうすでにそのラインを踏み割ってしまったような、そんな途方もない嫌な予感が背中からじわじわと広がっていくようであった。
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