五話 最後の

  最近の暑さのせいで、今年は例年よりも桜が早く咲き始めている。学ランを着た兄ちゃんが、卒業証書を片手にこっちへ歩いてきた。たった今中学校を卒業してしまったというのに、涙一つ浮かばせず、笑顔である。母は、そんな兄ちゃんを見て頬を赤くしながら涙ぐんでいる。


「母ちゃん、中学校まで育ててくれてありがとう。この学校とも、この島とも、もうすぐお別れだけど頑張ってくるわ」


 兄ちゃんは、下宿先での準備とかもあって、卒業式の次の日の朝にはこの島を出ることになっている。「お別れ」はすぐそこだ。このことは兄ちゃんが一番分かっているはずなのに、その事実を表に出すような態度があまりにも出ないから、やっぱりそんな実感が湧いてこない。


「昂希、あんだけ一人でできんだからもう俺がいなくたって何でもできんだろ」


 ぼーっとしていた時に言われた。でも、その瞬間だけ周りのがやがやがなくなって、桜吹雪が舞い、兄ちゃんの声だけが聞こえたから、はっきりと聞き取ることができた。周りの音が再び聞こえるようになったその時、僕の頬を濡らすものがあることに気が付いた。


「おい、なんだよ。お前が泣く?」


 しばらく涙は収まらなかった。





  明日の朝は早いから、早く寝なさいと言われた。当然兄ちゃんを見送るために早寝をするのだが、兄ちゃんは同級生の子たちと打ち上げをしていたから帰るのが遅かった。兄ちゃんが帰ってきてからも少しの言葉しか交わすことができないまま、兄は、いつものように眠りについた。明日特別なことがあるから特段眠れないこともなかったようだ。

 一方の僕は、最初のうちは全く眠れなかった。 

 なんで兄ちゃんは僕たちを行ってしまうんだろう?やっぱり、兄ちゃんの船出は素直に喜べないよ。そんなことばっかり考えていたけれど、いつの間にか寝てしまっていた。

 気持ちよく寝ていると、体を誰かに揺らされていることに気が付いた。


「昂希、おは」


 兄ちゃんだった。寝ぼけているのか。


「どうしたの、兄ちゃん早起きしすぎだよ」


 時計は朝の四時半を指していた。


「早起きしたんじゃないよ。究極の遅寝だよ。まだ寝ない。」


 冗談が兄ちゃんらしい冗談だったから、すぐに兄ちゃんは寝ぼけているわけではないと分かった。


「昂希、日が昇るまでさ、秘密基地で話そうぜ」


 前言撤回。たぶん寝ぼけている。


「俺、割と本気で言ってるよ。行こうぜ」


 とりあえず今の兄ちゃんと最後に話せる時間。無駄にはしたくなかったから、兄ちゃんの言う通り秘密基地に行くことにした。





 三月といってもまだ冬だから周りは真っ暗で、僕たち二人の自転車のライトだけが道を照らしていた。向かう先は僕たちだけの世界。これまで何気なく通ってきた神社の門も、裏道も、今回ばかりは初めて来たときみたいな感じがした。

 乾いた土の上を並んで歩く僕らの間に、ひんやりとした風が吹いてきた。大きくなった秘密基地に到着すると、僕たちは踏み位置が暗闇でよく見えない梯子を上っていく。二人とも上りきると、兄ちゃんがよっこらせとあぐらをかいて座り始めたから、僕もそうした。


「昂希、話すこと思いつかない。もう、お別れなのに」

「僕も、何を言えばいいのか…」

「じゃあ、昂希、俺になんか質問とかある?」


 少し間をおいて言った。


「僕は…自立、してるかな?ほら、一人で秘密基地も作ったし」


 兄ちゃんは少し間を置いてから言った。


「質問を返しちゃうけどさ、なんでそこまで自立することに重きを置いてるの?」

「実は僕、一回兄ちゃんの勉強道具を盗んじゃった。兄ちゃんに島を出てほしくないから。それで、僕が兄ちゃんに依存してて自立できてないことに気づいたから、必死になってる。そんな感じ」


 僕はあくまでも淡々と話した。兄ちゃんは返す。


「昂希はさ、秘密基地を俺と作る前からいろんなことできてるし、俺とは大違いで人の助けなしに全部こなしちゃうから、ある意味は自立してると思う」


 この言葉を聞いて安心したし、嬉しかった。卒業式の時の言葉通りだった。ただ、兄ちゃんは続ける。


「でもさ、昂希はまだ自分の気持ちを他人の行動に委ねてしまうことがあるんだと思う」


 兄ちゃんはしっかりと僕の目を見て、言葉を選ばない様子できっぱりそう言った。


「他の人が思い通りのことをしてくれるならそっちのほうがいいんだろうけど、やっぱりそんなことないじゃん。他人がどうなろうと全く感情が動かないのも考え物だけど、自分がしてほしいこと、望んでいることをしてもらえなかったときに悲しみや怒りをそのままぶつけて、無理やり相手を自分の望むようにしたり、それでもっとひん曲がった感情を持ってしまうのはよろしくないよ」


 僕はあぐらを組みなおした後、背筋を伸ばして続きを聴いた。


「今の昂希はそこまでじゃないけれど、秘密基地を一人で増築したのだって、たぶん俺に認めてもらうためなんじゃない?俺のために作ってくれたのはもちろんうれしいけれど、もし俺が昂希の作った秘密基地を認めてなかったら?」


 図星だ。すべてに心当たりがある。僕は何も言えなかった。


「他人の行動だとか、気持ちとか、自分がどう努力しても変わらないものを考え過ぎて、依存して、勝手に嫌になってしまうのはあんまり自立してるとはいえないよ」

「じゃあ、気持ちで自立するにはどうしたらいいの?」

「わかんねえ。でも、こうやってぶつかっていくなかで自分の軸を見つけて相手を尊重できるようになった時に、大人になったって言えるんじゃない?」

「じゃあ僕は、まだまだ子供なんだ…」

「まあ、そんなに落ち込むなよ。俺だって自立できてないよ。昂希と逆の意味で自立できてない。気持ちは自立してるかもだけど、自分の周りのことは何もできない。足りないところがあるのはお互い様だな。でも、足りないところの埋め合わせももうできなくなっちまうな」


 急に兄ちゃんがネガティブになってしまった。兄ちゃんの気持ちを明るくしようと、志の話に移した。


「話は変わるけれど、なんで高専で建築を学ぼうと思ったの?」

「この自然を守るためかな」

「どういうこと?」

「最近さ、観光客とかがいろいろ増えて、いろんなところがリゾート化してんじゃん。この島だって、この前ホテルができてたくさん観光客が来たわけで。ただ、島がにぎわうのは嬉しいけど、リゾートを作るときに自然をないがしろにするのは許せない。俺はこの島の自然が大好きなのに、それが一瞬のうちに重機で失われてくのは見るに耐えられなかったよ。こういうことが世界中で起こってるから、自然とうまいこと共生できる建築を将来したいって思って高専に行こうと思ったって感じかな」

 兄ちゃんの顔は引き締まっていた。

「この秘密基地も、もともと自然と共生した建築のコンセプトとして作ってたからな。みんなに見せびらかそうとも思ってたわ」

「でも、兄ちゃんは僕以外にはこの秘密基地見せてないじゃん」

「俺がこれを最初に見せて、昂希は勝手に秘密基地って解釈して必死に自分たちだけの世界を作ろうとしてたからね」


 僕は何とも言えない気持ちになった。僕の勘違いで兄ちゃんのプランは破綻していた。


「でもさ、昂希が勘違いしてくれたおかげで俺も昂希の気持ちにこたえようと精が出たし、秘密基地にすることでより価値が出てきたから、見せびらかす必要はないかなって、自分たちだけがわかってればいいかなって思っちゃった。そうなると昂希と秘密基地作ってる時間自体も価値を感じるようになってきた。ありがと、昂希」


 僕と過ごした時間に価値がある。と。


「昂希、また泣いちゃったの?」


 兄ちゃんの卒業式の時とは違って、大きな声で号泣してしまった。


「おいおい、大丈夫かよ?」


 兄ちゃんは僕の手を握った。


「あっ、俺の手と同じところにタコできてんじゃん。一緒に秘密基地作るのに汗水たらした証ってやつか?俺らにとっての入れ墨みたいな」


 兄ちゃんの例えが下手だった気がしたから、涙が少し引っ込んできた。


「涙は落ち着いてきた?」

「まあね」

「よかった。ごめんな。もうすぐお別れなのに説教めいた話ししちゃって」

「大丈夫だよ。いろいろ考えられるところもあったし」


気づくと、向こうに空を照らすものがあることに気が付いた。


「兄ちゃん、来たよ、朝」


 一日の始まりを表す日の出。いつもよりやけに輝いて見えた。だけれど僕たちにとっては、一旦の二人のお別れを運んでくるものだった。


「来ちゃったか」


 その時、兄ちゃんは頬を真っ赤にしながら、これまでに一回も僕の前で直接見せたことのない涙を流した。


「まじで…ごめん。今まで頼りないお兄ちゃんで。受験期に弱いところも少し見せちゃったな」

「いつでも兄ちゃんでいてくれたのなら、頼りないとか関係ないよ。むしろ、弱いところだって見せてもらっていいよ」


 だって、兄ちゃんはいつだって僕の憧れだから。


「そろそろ帰るか」


兄ちゃんは涙ぐんだ声でそう言った。

ここまでここで兄ちゃんと過ごした時間はあっけないくらい早い時間だった。秘密基地作りなんていうまったくありふれてないことで時間を過ごした。でも、それが良くて、大切で。本気でそう思っちゃってて恥ずかしいけれど、兄ちゃんもそう思ってくれてたらいいな。そう思いながら僕たちは家に帰った。

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