ふたりのユートピア

某キタムラ

一話 憧れられない兄ちゃん

 僕たち以外誰もいない家の中に、ただ水道の水が流れる音が響く。姉ちゃんが苛立つように言った。 


「まじで駿太どこにいんの。夏休み入ってから一回も手伝ってくれないじゃん」


僕たちの両親は、農家を営んでいる。庭先には、ビニールハウスが三つ並んでいて、その中ではイチゴが育てられている。もちろん、ビニールハウスだから温度管理も忙しいのだが、僕たちは離島に住んでいるから、ただ作物を栽培すればいいだけでなく、作物の運搬、販売、ホームページの管理に至るまでこなさなければ離島の農家としてやっていけない。

 そんなわけで、夏休み中は、忙しい両親を手助けするために家事全般を手伝うことをきょうだい全員で宣言したのだが、兄ちゃんは夏休み初日から宣言を放棄し、どこかへ遊びに出かけている。


「駿太にはないの?長男としての示しってやつ。」

「でも、兄ちゃんが手伝うと何かやらかすからこのままでいいんじゃない?」

「ダメだよ。手伝わないのが一番最悪」


はっきり言って兄ちゃんは頼りにならない。洗剤と柔軟剤を間違えるし、たぶん月に一回は皿を落として割っている。

 こんなんじゃ一人暮らしなんて到底できないし、たぶんしないだろう。

 兄ちゃんは一応きょうだいの中では一番年上で中学三年生の受験生なのだが、いつからか、中学一年生の姉ちゃんから、「お兄ちゃん」ではなく、「駿太」と、名前で呼ばれるようになっていた。


「駿太が帰ったらきつく言ってやるんだから。昂希からも注意しといて」


 その後も続く姉ちゃんの愚痴を聞き流しながら、家族五人分の食器洗いをぱっと済ませて、次の仕事に取り掛かった。





 時計はもう七時を示している。食卓の準備ができたというのに、まだ兄ちゃんは帰ってこない。

 行く場所も帰る時間も何も告げずに、いつの間にか家族全員の目をかいくぐって遊びに行き、大体五時ごろにはいつもお腹を空かせて帰ってくるのだが、今日はなかなか帰って来ないから流石に心配している。

 ご飯が冷めてしまうといけないから先にいただきますをした。

 しばらく夕飯を食べていると、ガチャンと音がした。玄関に行くと、ニコニコと笑いながら、泥だらけで立っている兄ちゃんの姿があった。

 一体どんな遊び方をしたらそんな格好になるのか。よくよく見てみると、ズボンの膝の部分は破れて、覗き込む膝からは血が出ている。

 手はいたるところにまめができていて、破れているものもあり、これもまた痛々しい。

 小学生の自分だって全力ではしゃいで遊んでもこんなことにはならないのに、お兄ちゃんは中学三年生にもなってボロボロ。今までは頼りない程度のお兄ちゃんだったが、こんな兄が情けないという気持ちすらも出てきた。

 お兄ちゃんが何かを言いかけたその時、両親と姉ちゃんが出てきて、兄ちゃんを怒り始めた。「こんな遅くまで何してたの」とか「手伝い明日は絶対してね」とかいろいろ言われていたけど、そんなのお構いなしに兄ちゃんは僕の方を見ていて、僕も後ろの方から兄ちゃんをじっと見ていた。





 次の日の朝、一面の空は突き抜けるような青色に染まっていた。朝の食卓は、昨日の晩のようなぎすぎすとした雰囲気とは打って変わり、いつもの和やかな空間であった。

 このごろ兄ちゃんは、朝食をかきこむようにあっという間に完食し、自分の部屋に戻る。そして、僕たちが朝食を食べ終えるころにはいつのまにかいなくなっているのだ。

 朝食を食べ終え、いつものように食器を洗う。やはりあれだけ注意してもダメだったかと落胆するような表情の姉ちゃんを横目に淡々と仕事をこなし、部屋に戻る。扉を開くと、聞きなれた快活な声が聞こえてきた。


「よっ!」


 そこには、あぐらをかきながら前後に揺れている兄ちゃんがいた。半ズボンを履き、昨日のけがをしたところにはしっかりと絆創膏が張り付けられている。


「いくら弟の部屋でも勝手に入んなよ。こっちにもプライバシーがあんの!プライバシー!」


 兄ちゃんは、また昨日帰ってきたときのようにニヤニヤとしながら言葉を返す。


「ん?なんか見られちゃいけないものがあるとか?あっ!エロ本の類とか!どれどれ、お兄ちゃんはそういうのには割と理解があ…」

「ちげーから!まじで兄ちゃんはすぐにそういうのに結び付けたがる。この変態!まじで死ね!」


兄ちゃんは、僕の愛書がぎっしりと詰め込まれた本棚をぐちゃぐちゃにして、ないものを探そうとしていた。兄ちゃんはたぶんそういうことに興味があるのだ。兄ちゃんが学校から友達と帰るときには、いつものように下ネタでバカ騒ぎしている。子供も子供。絶対にこんな中学生にはなりたくないものだ。


「まあ、ここに来た目的は弟の領土とプライバシーを踏み荒らして下ネタパーティーをすることじゃないからな」

「じゃあなんで来たん?することないならさっさと出て行って。兄ちゃんがいるだけで部屋が汚れる」

「確かにここでは昂希とすることねーわ。部屋出ます」

 ほっとした。小学生だって忙しいのだ。原稿用紙二枚半以上書かなきゃいけない読書感想文に、やる意味を全く感じられない漢字ドリルと計算ドリル各四十ページ、学校で家庭科の授業で取り組んでいたポーチの制作を夏休み中に終わらせるというものもあった。

 兄ちゃんはどうなのか。今年は立派な受験生なのに、勉強に没頭しているところを見たことがない。たぶん、島にある唯一の高校が定員割れしているから受験をなめているんだ。

 ともかく、こんなに宿題が出ているのに兄ちゃんのくだらない行動で邪魔をされたらたまったものじゃない。せっかくいつもの平穏な空間を取り戻したのだから、さっさとドリルの残りを終わらせるか。と、思った束の間、腕を引っ張られた。しっかりとつかまれ、離すことはできない。


「俺とすることはないんじゃなかったのかよ。噓つき」

「もちろん、昂希とすることはないよ」

「それって…どういう意味?」

「いいから、何も言わずについてこい。見せたいもんがあるんだよ」


 僕は、何も言わずに突っ立ったままでいた。


「そこまで行きたくない?じゃあ、じゃんけんで決めよう。昂希が勝ったら俺は手伝いをする。俺が勝ったらついてきてな」


 僕は、少しかがんで拳を握った。変な交渉にかかってしまったと後悔しても、もう後戻りはできない。


「最初はグー!」


 同時に、一瞬の力強い掛け声。


「じゃんけん…ポイッ!」


 負けた。兄ちゃんの後出しで。でも、兄ちゃんが年下の弟に大人げのない後出しをしてでも僕に見せたいものが気になってきた。


「俺の勝ち。なんで負けたか、明日までに考えとい…」

「あー!ついて行くから!そーゆーのいい」


 もうまるで大きい弟にかまっているようだ。疲れる。


「じゃあ昂希、レッツラゴー!」

 兄ちゃんが向かったのは庭だった。兄ちゃんの言う見せたいものとは庭で育てている何かかと思ったら、兄ちゃんは庭に置いてあるスリッパを履いて慣れたそぶりでフェンスをよじ登り始め、敷地の外へ出てしまった。

「玄関から出ると絶対に誰かにつかまって手伝いさせられるから」


 兄ちゃんがそう言うと、余計にだめなことをしているような気が増してきた。

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