第2話

一日の内、もっとも早く過ぎ去るの早朝だと僕は思う。

瞬き一つの内に外の明るさは急激に増していく。朝と言うのは全てが早い。

その速度に置いていかれるのが嫌いだ。世界から除け者にされている、と卑屈になってしまうから。


僕は布団にうずくまったまま時間を過ごした。朝になっていることに気が付いたのは、一階の喧騒が耳に届いてきた時だった。

依然として軽い違和感のある右ほおに触れながら、一階へと降りた。

弟妹が登校の準備をしているのが目に入る。もうそんな時間か、と時計を見ると午前七時。

母さんに遅刻して高校へ行く旨を伝えて、冷めかけた朝食を口に運んだ。


「行ってくるね~」


朗らかな声とともに妹が家を出る。弟たちもじゃれあいながら準備をしている。母さんは僕にコーヒーを出して、優しく体調を聞いてきた。

問題ないよ、と答える。テレビの天気予報を確認しながら朝食を食べる。

パンの上にハムと目玉焼きを乗せただけの質素な朝食だ。けれどこういうのが結局一番美味しい。

家族だけには恵まれていると思う。僕の現状を受け入れてくれて、否定するわけでもやみくも肯定するわけではないから。


朝食を食べて、少しすると弟たちが学校へ行き、しばらくすると母も出かける。

時計は午前九時三十分を指していた。もうそろそろ行かなければと思い、支度をする。

支度はすぐに終わり、廊下を背に玄関に立つ。


「ふぅ……」


深呼吸する。念のためもう一度天気の確認をする。

曇りのち雨。降水確率は六十パーセント。間違ってない。そして問題もない。

ドアを押していく。開いていくドアから差し込む光はか弱く、鈍重だ。意を決して一気に開ける。


「よし……」


空を埋め尽くす灰いろのヴェールに安堵する。

太陽は見えない。朝方だというのに薄暗く、普通の人なら憂鬱な気分になるような天気。

僕は傘を持ち、バス停へと歩く。


空気はじっとり湿っていて、わずかに冷える。それがとても心地いい。空の状態からして午後には雨が降るだろう。

そうすれば太陽を見ることはない。太陽に見られることもない。

空を見る。仄暗い空は太陽を隠している。あの焼き尽くすような血のように照った太陽は見えない。雲のおかげで、体の表面だけではなく臓物まで刺すようなあの陽光から僕は逃れられているのだ。


五分ほどでバスが来てそれに乗る。人はまばらで後ろのほうの席に座った。

バスに揺られながら、昨日のことを思い出す。正確に言うならば昨日の夜のことを。

脳があれを現実だと思えていない。よく考えなくとも昨夜は変だった。

僕はあの廃墟に二年ほど通っている。通っているという表現が果たして正しいのかはおいておいて、つまりは二年ほどあの廃墟とは多くの時間をともにしている。けれどあそこであの女性、どころか人に出会ったのはあれが初めてだ。

ありえない。彼女の口ぶりからしてずいぶん前からこあそこに居たことになる。

夜の廃墟の静けさというのは尋常ではない。旧校舎の教室や枯葉の埋め尽くす寂れた公園なんかとは訳が違う。

あの廃墟は静寂を湛えている。

そんな場所で自分以外に誰かがいればすぐにわかる。どれだけ気付かないふりをしていても分かってしまう。そこに人がいると。


となると、あれは幻覚だったのだろうか。僕以外に夜更けの廃墟に、しかも肝試しでもなく夜空を見るために行くなんていう奇行に走る人間はいないはずだ。

僕は自然と自身の右ほおに手を伸ばす。かすかに残る違和感は、一粒の砂のようにほとんど無いけれど、確かにここに在る。

吐息で吹き飛んでしまう砂粒は、あれが幻覚でないことの何よりの証左だった。

僕は確かに昨夜、彼女に触れられた。


いつの間にかもう学校の最寄り駅までついており、思案を一度中断して学校へと向かい、教室へと歩き出した。

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