深恋
@kuromoru320
第1話 浅い傷
思っていたより、そう深くはない。
失恋してできた傷なんて、少し時間が経てば新しい細胞が埋めていく。寂しいという気持ちが勘違いさせた、誰かに愛されたいと思う夜は、明日の朝になれば、もう何も信じなくてもいいという憎しみに変わる。
何度も拭った明け方の涙は、温かいタオルを目の上に乗せても、腫れぼったい瞼の奥に塊になって残っていた。洗面台の鏡に映る哀れな自分は、それでも仕事を休む理由が、なかなか思いつかない。
眼鏡を手に取った
付き合って3年とは、私にしてはけっこう長かった。
入社して1年が過ぎた頃、2つ上の先輩から告白され、昨日まで半分同棲の様な生活をしていた。
学生の時だって、2回ほど付き合っていた事はあったけど、2人の男性からは、いずれも半年を少し過ぎると、突然別れようと言われた。
どうせ誰かと付き合ったって、長続きしないこの性格なら、もう寂しさの埋め合わせなんかしてはいけないんだ。
休憩も取らず、ガチャガチャと計算機を惰性で叩いてると、上司から肩を叩かれた。
「お昼は?」
「これをやってからにしようと思ってました。」
本当は食べるつもりなんてないのに、余計な詮索をされないよう、結衣は差し障りのない嘘をついた。
「渋谷、昼一で総務課長に呼ばれてるから、鐘がなったら2階に行くよ。」
課長の河田がそう言った。
市役所の福祉課から税務課に異動して1年になる。3年間必死で覚えてきた福祉の仕事は、異動先の税務課ではそれほど役には立たなかった。
狭いコミュニティの中の常識とされるルールは、課長の考え方ひとつで、対応がガラリと変わる。異動したばかりの自分は、なかなか馴染まない空気の漂う環境で、なるべくミスしない様にハラハラとしながら仕事をしている。毎日はただのストレスでしかないけれど、仕事ってこんなもんなのかもしれないと、前に進む事をとっくに諦めていた。
河田が席に戻ったあと、わからないようにため息をついた結衣は、重たい瞼に手をやった。
この顔、やっぱり気に障ったのかな。
昨日、半年振りに結衣のアパートにやってきた
笹本は今年から保健の係に異動になり、そこにいる今年入った管理栄養士と、仲がいいと噂があった。
自分と笹本との関係は、誰にもわからない様にしてたので、上司も同僚もその事はほとんど知らない。
そんな中、ご丁寧に笹本の噂話しを結衣の所へとってくる同期の
「笹本さんってかっこいいけど、所詮、1階の中の異動で終わるタイプよね。新人の子に手を出して結婚なんかしたら、近場で済ませたのかって、男としての価値が下がるわ。」
真由の綺麗に整えられた爪が、結衣は手に刺さりそうでいつも怖かった。そんな爪で窓口に出たら怒られるだろうし、電卓だって叩けないと思うけど、真由の課の上司は、そんな身なりでも何も言わないんだ。
それにしても、他にいい人ができたなら、そう言って別れればいいものの、1人になるのを怖がっている私を嘲笑うように、嫌いになった理由をひとつひとつ丁寧に並べて、自分はこんなにも我慢していたアピールが醜いよ。こんなふざけた恋の終わり方は、悲しみよりも情けなくて涙が溢れそうになる。どうにか自分を捨てたあいつも、何も知らないで幸せに浸っているあの子も、真っ暗な闇の不幸に落ちてくれないか、そんな嫌な事ばかりを考えてしまう。私のこの性格なら、恋愛なんて無理なんだよ。誰かを好きになるなんて、もうゴリゴリだとつくづく思った。
昼休みの終了を告げる鐘がなった。
「渋谷、行くぞ。」
結衣は課長の後をついて総務課へむかった。
総務課に行くと、
「河田くん、こっち。」
総務課長の石山は、相談室とは名ばかりの倉庫に結衣と河田を案内した。
石山は席に着くなり、
「渋谷さん、忙しいところごめんね。実は支所に欠員が出てね。知っての通り、支所と言っても飛び地合併した町だから、ここから2時間は掛かるんだけど、来月から、そこの戸籍係りに行って欲しいんだ。」
石山はそう言うと、河田の顔を見た。
「渋谷さん、せっかく税務の仕事にも慣れたのに、こんな事になって残念だけど、うちにはベテランの影山くんがいるからね、渋谷さんがいなくなってもなんとか回るよ。」
河田はそう言うと、なぜか少しホッとした表情を見せた。
課長、断る理由なんて見つかりませんよ。結衣は心の中でそう言った。
「わかりました。」
結衣が静かに答えると、
「渋谷さんでも、ダメだったかぁ。ほら、どちらかというと君は男らしいところがあったからね。」
石山が結衣にポツリと言った。
席に戻ると、
「結衣ちゃん、なんかミスでもしたの?」
影山はそう言って、結衣の肩に手を掛けた。
「いえ、そうじゃなくて。」
「だって異動になるんしょう。あ~あ、ここはまた欠員かぁ。」
影山は嬉しそうだった。
河田と影山はとても仲がいい。隣りの席の
税務課の女は、長く続かないというジンクスがある。新人もベテランも、女であるというだけで、影山には気に入られないようだ。給湯室での叱咤、無視、大切な書類を隠すなどの執拗な意地悪と、それでも辞めないで1年を過ごすと、だいたいは影山の方から上司に悪い噂を流して異動させてほしいと懇願する。
係員は人事に口出す事はできないと言われているが、影山が持つ女の武器を最大に使いさえすれば、なんでも上手くいくんだよ。
「渋谷、お別れ会やってやるよ。今日は残業なんかするなよ。」
山岡が言った。
「引き継ぎ書を作らないといけないから今日は無理です。」
結衣は山岡の誘いを断った。
「それなら大丈夫だ。前にいた林さんが残してったのがあるから、それをそのまま出せよ。どうせ、引き継ぎなんて形式だけだろう。渋谷の仕事は俺がそのままもらう事になるんだし。」
「山岡さんの仕事がこれ以上増えたら、家に帰れなくなりますよ。」
「こんなのたいした事ね~よ。忙しい時期ってのは一時だからな。それより支所へ異動とは、お前、ずいぶんここで嫌われたんだな。」
山岡はニヤニヤしながら結衣の顔を見た。
「なんでですかね。」
結衣はため息をつきながら眼鏡を拭いた。
「ひでぇ~な、その目。失恋でもして泣いたのかよ。」
山岡の言葉に、やっぱり私、ひどい顔なんだ、と結衣は思った。
「どういたしまして。」
何も知らない山岡の言葉は、結衣の心をまた暗くさせた。誰からも必要とされない自分は、生きている事さえ、否定された気分になる。
「渋谷の送別会は、川井がちゃんと考えてるから。」
山岡が言った。
「お断りします。私そういうの、苦手ですから。」
「何言ってんだ。職場の付き合いは仕事のひとつだろう。ちゃんと来いよ。それに、こんなに残念がってくれるやつがいるなんて、ここで仕事できて良かったな、渋谷。」
「みんな、お酒を飲む理由を探しているだけじゃないですか。私は遠慮します。それに今日も残業しますから。」
結衣はそう言って、印刷室へむかった。
「渋谷さん、支所に異動なんだってね。」
印刷室で、先に製本機を使っていた福祉課の松木が話しかけてきた。彼女とは1年間だけ一緒に働いた。誰にも話してないはずなのに、もう知っているということは、影山が言い回っているのだろう。
「あの、それもう、終わりますか?」
結衣は製本機を指差した。
「あっ、終わりました。どうぞ。」
松木はそう言って印刷室から出ていった。
調子の悪い製本機を何度か直しながら印刷していると、笹本が入ってきた。
結衣は目をそらして、製本機を覗き込んだ。
「異動なんだってな。」
「うん。」
「良かったな、お互い顔を合わせずらかったし。」
結衣は黙って印刷を続けた。
「そんな仕事、会計年度のやつにやらせればいいだろう。どうせ、役所のコネで入ってきたやつらなんだからさ。」
タイミングが悪く、製本機がまた止まった。結衣は紙が詰まっている箇所の探すと、中でグチャグチャになっている紙を取り除いた。
松木さん、これで印刷できてたのかな。
結衣はインクで黒ずんだ手を洗おうと印刷室のドアにむかった。
「お前、よく普通にしてられるな。」
笹本が言った。
「何?」
「信じられない神経してるわ。」
笹本はそう言って先に印刷室を出ていった。
別れようって言ったのはあんただろう…。
私が泣いてすがってくるとでも思った?
昨日は精一杯気持ちを押し殺して、無表情で返事をしたつもりなんだけどな。
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