第22話 後悔だけを忘れるべきだ


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 その小さなお社は、藤花大学──いや、学園都市と言えるほどの敷地に付属している高校や中学校も含めた藤花学園の端の方にある。

 人々から忘れ去られてもおかしく無さそうな辺鄙な場所で、寄り添うように映えている一本の見事な桜が唯一の目印だ。もっとも桜はすでに青々とした若葉に変わっているが。


 お賽銭箱には申し訳程度の小銭がいくつか。それを最後に回収したのはいつなのか。

 そんなお社の前で待っていると、その男性は現れた。


「……やあ、良く会うね蓮雀君。君とはやはり、縁があるようだ」

「こんにちは蔦葉先生。実は待っていたんですよ」

「待っていた?」


 男性──蔦葉教授は社に手を合わせながら、不思議そうに尋ねた。


「実は、俺はここの神様とちょっとした知り合いでして、先生を呼んでもらったんです」

「それは不思議な。だが確かに、ふとお参りしようと予定もないのに寄ったのは僕か」


 蔦葉教授は、ふむぅ、と頭を悩ませつつ少しだけ納得した様子だった。


「それで、蓮雀君は僕にどんな用事が?」

「単刀直入に言いますが。蔦葉先生は大切なことを忘れています」

「……忘れて」


 はて、とでも言いたげに蔦葉教授は首をかしげる。

 彼にはその自覚はないし、俺たちがしようとしているのは余計なお世話かもしれない。

 それでも、もだまは、そして俺も今からすることが正しいことだと思った。


「もしかしたら、先生は忘れたままの方が幸せなのかもしれません。ですが、神様はそれを思い出して欲しいそうです」

「思い、出す」


 それから、俺はもだまから預かっていた写真を取り出した。

 それを蔦葉教授に手渡すが、それだけでは『あるべき場所』に戻したことにはならないようだった。


「この写真は?」

「それはもともと、先生のものだったんですよ」

「僕の? しかし心当たりがないな。この女性と、子供には……」


 本人が受け取る気がないのだ。だからあるべき場所に戻らない。

 教授はまだ、忘れたままでいることを望んでいる。

 それを望んでいないのは、神様だけ。


「先生。藤花大学にはこの先ずっと居るおつもりで?」

「いや。それはどうだろうね。もちろんすぐに出て行くつもりはないが、一生ここで働けるかどうかは分からない」

「だったらなおさら、その写真を捨ててはいけない。神様は地域限定で、藤花大学でしかその力を使えないんです」

「……すまないが、君が言っていることがやっぱり良く分からないよ」


 良く分からない、と蔦葉教授は口にする。

 だけど、不思議なのだ。

 そう言いながら、彼は手にした写真からずっと目を離さない。


 二度と離してなるものか、と彼の心の深い所が叫んでいるようだ。

 忘れたかった教授が神に願ったとしても、忘れたくなかった教授も確かに心の中にいる。


 神様は、まだ見習いだから、全てを解決することはできない。

 全てを無かった事には、できないのだ。


「藤花大学の外のことは、そのまま残ってました。五年前の六月です。当時三十二歳だった蔦葉海蘭さんと、その息子さんの翔くんは、交通事故で亡くなりました。信号無視のトラックに刎ねられて、即死だったそうです」

「………………それで」

「蔦葉教授の、奥さんと、息子さんです。その、写真に映っています」

「………………ああ。そうか」


 調べるのは、簡単だった。

 蔦葉教授は、藤花大学で長かった。

 彼の家族の情報は、藤花大学の中では無かったことになっていたが、大学の外ではその限りではない。

 名字と事故で検索すれば、答えは分かった。


 ありふれた、悲劇だ。

 俺なんかが首を突っ込んで良いようなことじゃない、悲劇だ。

 忘れていた方が良いのかもしれないと、最後まで俺ともだまを悩ませたことだ。


「そうだ。そうなんだ……僕は、忘れたかったんだ。こんなに苦しいのなら、忘れてしまえればと思ったんだ。どれだけ酒に溺れたところで、記憶は消えない。哀しみも消えない。あの日、二人は僕を迎えに来たんだ。この大学に、僕の誕生日だからと、お祝いにレストランを予約していた。僕なんかのために、それで、二人は」


 ぽたりぽたりと、蔦葉教授の瞳から涙が零れていた。

 涙が写真に落ちる。落ちた涙が、写真の中の二人を歪ませて行く。


「忘れたかったんですね。自分のせいとしか思えなかったから」

「そうさ。そうだろう。君だって同じ立場なら思うだろう。僕の誕生日を祝う為に、どうして愛する二人が亡くならねばならない」


 あなたのせいじゃない、とか、あなたは悪くない、とか。

 そんな言葉は言えない。きっと聞き飽きている。


 それでも割り切れないから、蔦葉教授は酒に溺れ、神に願った。

 だけど、神への願いを、間違えたんだ。


「先生。この写真は、あなたのものです。あなたはそれを、手放すべきじゃない」

「君は、残酷だな。君は一生、この後悔の記憶を忘れなければいいと言うんだね」

「いいえ違うんです。先生。あなたは忘れるべきだ。ただしそれは記憶じゃなく、後悔だけを忘れるべきだ」

「……どういう?」


 頃合いだと思った。

 びゅうっと強い風が吹き、桜の若葉を揺らす。

 かたかたと社が揺れ、蔦葉教授の持っていた写真を巻き上げた。


「ああっ!」


 そして、その写真に向かって教授は手を伸ばした。

 自分から捨て去ったそれを、捨てたくないと言うように。


 ぴたりと写真が止まる。そしてそのまま、写真は先生の手の中へと戻って行く。


「……ああ。駄目だ。やはりこれは、失くしてはいけないものだ。どれだけ忘れたくても、忘れてはいけないものだったんだ。すまない、すまない海蘭、翔」


 今度こそ写真を離すまいと、蔦葉教授は強く強く写真を掴む。

 俺は、そんな彼を泣きそうな目で見ているだろう、どこかの神様に言った。


「神様、今度は、間違えないでくれ。後悔の記憶じゃない。後悔だけを、貰ってあげてくれ。もう充分先生は悔いた。だから、前に進ませてあげてくれ」


 俺の言葉を聞き、蔦葉教授もまた願うように手を合わせる。


 救って欲しいと。


 助けて欲しいと。


 その彼に応えるように、どこからか声がした。



『あってある世界よ、天尊神地尊神よ、もだまの名の下に、あるようにあれ』


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