第10話 記憶の裂け目
桃ナギは足を踏み出した。大気は粘性を帯び、毎歩ごとに世界がゆるく歪む。巨人ヨルダマリの気配は、もはや遠くの幻でなく、足元から立ち上る霧のように、彼女の感覚を包み込む。それは生温かく、押し返せない圧をもった存在感だ。見上げれば、空の端でかすかに巨大な影が揺れている。それを視界の隅で捉えるたび、心臓が僅かに軋んだ。
路地には誰もいない。哲学の犬も、クル・ルタルも、公女も、粘菌使いも、カフェマスターも、この瞬間、姿を消したかのようだ。彼女は一人で、薄茶色く色あせた壁面や、ひび割れた舗石を通り過ぎ、どこへ続くとも知れぬ道を行く。まるで全員が舞台裏へ引き下がり、スポットライトのもとに桃ナギと巨人だけが残されたかのよう。
やがて、足元がかすかに軋む。小さな水溜まりが光をゆらめかせ、そこに映る自分の姿はやはり歪んでいる。桃ナギはしゃがみ込むと、水面に指先を触れた。その瞬間、水面が螺旋を描き、淡い光が昇る。
「――記憶の裂け目だよ。」
不意に聞き覚えのある声が背後で響く。振り返ると、ヴィスカコッポ博士が立っていた。いつの間にか現れた博士はゴーグルをずらし、何本もの管の先端が絡まった器具を手にしている。
「ゲトロジウムが足りないと思っていたが、君がここに来たことで、その代わりになるかもしれない。マニロース管、今ここで試すとしよう。」
博士は唐突に器具を水溜まりへ差し込み、奇妙な音を立てた。すると、水溜まりを中心に地面がゆらりと揺れ、世界が裂け目を生じ始める。
「ちょ、ちょっと……何をしているの?」桃ナギは動揺する。
「記憶の裂け目を広げるんだよ。君は巨人に触れたいんだろう? それには過去の深い層へと降りなければならない。君自身の内面に堆積した忘却の層を突き抜けるんだ。」
博士はにやりと笑い、器具を回転させると、銀色の液体が水溜まりの中を踊る。路地は淡い光に満たされ、建物は影絵のように揺らめく。
桃ナギは目を閉じ、胸の奥が痛むのを感じる。忘却の層……自分は何を忘れている? なぜこの島を彷徨っている?
その問いは水溜まりに溶け、螺旋を刻みながら宙へと舞い上がる。視界がぶれる中、彼女はかすかな声を聞く。幼い頃の笑い声なのか、あるいは誰かを失った泣き声なのか。断片が耳元でさざ波を立てる。
「博士、私は何を……」
「私にも分からんよ。」博士は肩をすくめる。「だが、君が巨人を求める行為そのものが、君の裂け目を開いている。詩人が白紙に言葉を刻むように、君は自分に刻まれた傷口をなぞっているんだろう。何かを思い出すかい?」
桃ナギは顔を上げる。周囲の街並みは溶け始め、柔らかな光の粒子へと変わりつつあった。気がつくと、床はもう路地ではなく、巨大な空洞の上に浮かぶ足場のようだ。薄青い光が下から立ち上り、過去とも未来とも知れぬ幻景を映す。
彼女は遠くで笑う声を聞く。誰かを呼ぶ声、名前を呼ぶ声、自分が誰かを愛した記憶……曖昧だが、確かに温かい何かがあった。失ったもの、それを思い出せずに流れ着いたこの島。巨人ヨルダマリは、その失われた何かを閉じ込めた塊なのかもしれない。
「巨人に触れれば、君はその裂け目をさらに広げることになる。」博士が言う。「もう戻れないかもしれないよ?」
「戻れる場所があったのか、私には分からないわ。」桃ナギは微笑む。奇妙な安堵を感じる。「でも、確かめたい。自分が何を求め、何を失ったのか。」
その時、クル・ルタルの旋律が遥か上空で震え、哲学の犬の笑い声がほんの一瞬だけ鳴ったような気がした。公女の耳飾りが光り、粘菌使いの胞子が空気中を漂う映像がちらつく。すべてが揺らぎ、再配置され、桃ナギは裂け目の先へと進む。
足元の足場は次第に透明になり、重力が弱まる感じがする。彼女は微かに宙へと浮いているのかもしれない。視界の端に、巨大な眼がゆっくり開くイメージが流れた。ヨルダマリ……巨人の瞳が、こちらを覗き込んでいる気がする。
「博士、ありがとう。」桃ナギはそう告げる。
博士はまた謎めいた笑みを浮かべ、「ゲトロジウムの代わりに君の決意を使わせてもらったよ」とつぶやく。すると、博士の姿は溶けて霧散し、彼女は光の中に一人浮かんだ。
裂け目は瞼の裏側で脈打ち、そこから映し出される風景は、まだ輪郭を持たない。だが、桃ナギはもう怖くない。次に踏み出す一歩は、巨人との対面へと直結するだろう。記憶の裂け目が開いた今、彼女は過去の欠片に触れる準備ができている。
静寂が広がる中、光の粒子が揺れ、世界がゆっくりと呼吸するように動いた。巨人の存在はより明確になり、桃ナギの心は柔らかくも張り詰めた期待で満たされる。記憶の裂け目――そこを超えれば、きっと何かを掴めるだろう。
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