第4話 地下への降下
桃ナギは、クル・ルタルの旋律によって捻じ曲げられた道を辿り、またしても地下へと潜り込んだ。そこはさっき通った階段の延長ではなく、まるで別の夢へと滑り込むような不安定な空間だった。光源らしきものはないのに、視界は薄く明るい。壁は苔むしており、水滴が一定のリズムで床へと滴る音が、静かな子守歌のように空間を満たしている。
足元には、光沢のある小さなタイルが敷き詰められ、ところどころ割れている。割れ目からは柔らかな光が漏れ、蜘蛛の糸のような繊細な輝きで周囲を照らしていた。その不思議な光が桃ナギの影を揺らし、まるで彼女自身が細い糸に吊るされた人形のような、不確かな存在に思える。
「ここは、いったい……」桃ナギが呟くと、闇の中から微かに物音がした。
「誰か、いるのですか?」彼女は声を張り上げる。返事はない。けれど、その沈黙がただの無音ではなく、何かを孕んでいる気配がする。
進むうちに、奇妙なからくりめいた扉が現れた。金属製の歯車、大小の管、奇妙な紋様が絡まり合った、機械とも生物とも判じがたい扉だ。彼女が手を伸ばすと、かすかに扉が震え、勝手に開いた。その先は、小さな部屋。中央に円形の台があり、その周囲には奇妙な器具が並んでいる。ガラス球、らせん状の鉄パイプ、回転する水晶――どれも何の役割を持つのか見当もつかない。
ふと奥から声が聞こえた。「マニロース管が……マニロース管がまだ不安定だ……」
その声は前に会ったヴィスカコッポ博士に似ている。
「博士?」桃ナギが呼びかけると、暗がりから瘦せた老人が姿を現した。先ほど港近くの地下室で会った時と同じ、しかし微妙に服装が異なる。こちらの博士は、白いゴーグルをかけ、奇妙な紋様をあしらった上着を着ている。
「おや、君か。前にも会ったかな? 記憶が定かではない。」博士は無表情に首を傾げる。「ここはマニロース管の試験場だが、まったく安定しないんだ。ゲトロジウムが足りない……ゲトロジウムがね、あれば巨人ヨルダマリの姿を映し出せるかもしれないというのに。」
マニロース管、ゲトロジウム、巨人ヨルダマリ——相変わらず不明瞭な専門用語ばかりだ。桃ナギは質問を試みる。「博士、巨人は本当にいるの? 私は公女に『巨人を討伐せよ』と言われて……でも、まるで実体がない話ばかり。」
「実体か? 実体なんてものが必要かな?」博士はくぐもった笑いを漏らす。「夢の中で実体とは何だろう? 巨人ヨルダマリは時間や記憶が溜まった瘤のような存在だ、と言う人もいる。君がその瘤に触れることで、何かが解けるかもしれん。まあ、私は装置をいじるしか能がないからね。」
桃ナギは台座の上にあるガラス球を見つめる。中に薄緑色の液体が揺れ、その中で小さな粒子が舞っている。
「ゲトロジウムって何?」
「さあね、私も知らんのだ。ただ、そう呼ぶことにしている。」博士はひらりと手を振る。「言葉は名前を与える道具だ。意味は後からついてくる。君は哲学の犬が『問いは尻尾に絡まる』と言ってたのを聞いたかい? あれと同じだ。」
彼女は微かな苛立ちを覚えたが、同時にこの混沌は詩的であるとも感じる。答えを求めても、明確なものは出てこない。
「博士、私は巨人を探し、何かをしなければならないらしい。でも、どうしてこの島はこんなにも脈絡がないの?」
「脈絡? 脈絡は夢から逃げるための梯子かもしれない。梯子がなくても、君は歩けるだろう?」博士はそう言うと、また器具をいじり始める。「階段を戻れば、森に戻る道がある。そこには粘菌使いがいるらしい。粘菌使いが森の構造を知っているとかいないとか……私には関係ないがね。」
粘菌使い、クル・ルタル、哲学の犬、エフェメリカ公女……この島の住人たちは皆、隠された謎の片鱗を握っている。桃ナギはため息をつき、小さく頷く。
「わかったわ。また動いてみるしかないわね。ありがとう、博士……なのかな?」
博士は気にも留めず、金属片を弄り続ける。「グオングオン、マニロース管が鳴ってる……ああ、意味のない響きがいい……」
部屋を出ると、先ほどの扉はいつの間にか別の細い通路に繋がっていた。通路を抜けると淡い光が射し込み、階段が上へと続いている。桃ナギは階段を昇りながら、ふと、自分はこの島でいったい何を探しているのか、もう一度考える。巨人を探せと言われ、不可解な博士に会い、奇妙な音楽を聴き、地下を彷徨う。だが、確かな進展は見えない。
階段を抜けると、そこには再び森の気配があった。南国性の葉が揺れ、湿り気を帯びた空気が頬を撫でる。遠くで鳥が鳴き、不意に笑い声のような風が吹く。彼女は地上に戻ったのだろうか? いや、もはや上下の区別すら曖昧だ。
「君はまだ答えを求めているのかい?」不意に低い声が響く。振り向くと、哲学の犬がいつの間にか足元に座っていた。
「ええ、でも答えなんてないのかもしれない。」
「答えがないことは、答えの一形態かもしれないよ。」犬はあくびをし、森の向こうを見つめる。「そこに粘菌使いがいる。行ってみるといいさ。森は光と影が入り混じり、形が溶け合い、巨人の気配もそこで呼吸しているとか。」
桃ナギは犬に礼を言い、森の奥へ踏み込む。
後ろを振り返ると、既に博士の地下室への入り口は見当たらない。あのマニロース管やゲトロジウムは何のためだったのか、あれは現実か幻だったのかさえわからない。それでも、彼女は進む。詩のような島の輪郭に触れ、ほころびを覗き込むことで、やがて巨人に辿りつくかもしれない。
森の木立が濃くなるにつれ、彼女の心には奇妙な落ち着きが芽生えていた。問いかけは解けず、意味は曖昧なまま。それでも足を前へ運ぶことで、何かを得ている気がする。巨人を探す任務は遠く、輪郭も不明瞭だが、旅自体が詩的な問いへの応答なのかもしれない。
南国の森へ足を踏み入れる桃ナギの背中越しに、哲学の犬は静かに尻尾を揺らす。島はほころび続け、地下の記憶は上昇し、光は柔らかくねじれながら彼女を導いているようだった。
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