四章 四話 たとえ神が罰を下そうとも

 見慣れた廊下をまるで永遠に続く迷宮のように感じながらも、リレイナの体に幼少の頃から刻まれた記憶は忘我の王女を自室へと導いた。

「お帰りなさいませ殿下。先ほどミーシャーナ様も帰っていらっしゃっいましたよ。今日はお部屋の担当ではありませんが折角ですからとお引き留めしております…殿下?」

「うむ、キシューカと上手くやれたようであったか?」

 部屋と廊下を区切るカーテンスィターラの前で部屋の主人を待っていたのは最古参にして侍女頭でもあるセーランだった。今日は部屋勤めでないミーシャーナをわざわざリレイナが来るまで待たせるというのはセーランならではの機知であろう。

 しかし今のリレイナにとってはその気遣いは断頭台設置の告知と同義だった。余人ならば完全に内心の葛藤かっとうを読み取れない王女の微笑だったが、襁褓むつきの交換すらも任された事のある老女には通用しなかった。

「殿下?何か陛下との間でございましたか」

「いや、なんでもない。むしろ今日は良き日であったぞ、ひさしぶりにネレーシアとも会えたしな」

「殿下」

 セーランに心中で吹き荒れる嵐を読み取られたのをリレイナは察したが、それでも強がろうとなおも楽しげな表情を作る。他の侍女であれば追及を諦めただろう。それが使用人としての分をわきまえるという事なのだから。

 しかしセーランは身分の差など関係ないと言いたげに踏み込んでくる。王太子としては出過ぎた行動に対して嘘でも怒りを示して突き放すのが正しい行動だったろう。だが物心付いた時から時に母カレナジテよりも身近でリレイナを見守ってきた侍女頭の愛情に王女の強がりは膝を屈した。

「ミーシャーナに話さなければならないことが有るが…冷静でいられるか自信がない。同席してくれるか」

「喜んで。ではどうぞ、殿下」

 老侍女がすっと脇へとけてくれたカーテンスィターラくぐると銀髪の妖精ジンニーヤが周囲をパッと華やがせる笑顔で出迎える。

 そのまぶしさを今からくもらせなければならない事に苦痛を覚えながら、リレイナは片手を上げてミーシャーナに歩み寄る。

「ミーシャーナ、キシューカの読書会は如何様いかようであった?」

「リレイナ様がキシューカ殿下は詩歌をお好みになるとおっしゃていた通りでした。いいえ、殿下に限らず読書家の方ばかりで、正直に申し上げますと私は勉強不足で会に参加された皆様の議論に付いていけず、何度も顔から火が出るような思いをいたしました。でもたかが豪族の娘に過ぎない私に誰もが温かく…リレイナ様?」

 王宮に来てからは経験できなかった年の近い少女たちとの交流に興奮していたのだろう、ミーシャーナは嬉しそうに今日の思い出を語り始めたがすぐにリレイナの様子がおかしい事に気付いた。

「ああ…実はわらわの方にも話さなくてはならない事ができ…うっ、くっ…」

「リ、リレイナ様⁉」

「…うっ…そ、その…」

 冷静に事実だけを話そう、そう思っていたリレイナ自身を裏切って涙腺が決壊した。一粒零こぼれてしまえばもう自分の意思で止める事などできはしない。普段の精悍せいかんで気丈な王太子の顔はどこへやら、とうとうリレイナは自分の頭一つ分ほども小さな少女のそこだけは大きな胸元に顔をうずめて泣きじゃくっていた。

 突然の事態に動揺して一旦顔を上げさせようとしたミーシャーナ未熟な少女セーラン経験豊富な老婆が制止し、もはや何にも邪魔されることなくリレイナは子どものように声を上げて泣きじゃくった。


 小一時間はそうしていただろうか、ミーシャーナの若草色の綿コトンの服にたっぷりと涙を吸わせたリレイナはようやく顔を上げる事が出来た。まだその陽《ひ》の傾きかけた夏の空の瞳は涙でうるんでいるが、もう残酷な真実を恋人と共有する覚悟は決まっている。

「…殿下、何が有ったのか、お尋ねしてもよろしゅうございますか」

「…あぁ、手間取らせてしまったな、ミーシャーナ、セーラン」

「いいえ、リレイナ様が苦しんでいる時、いつだって私はあなたのおそばに」

「では話そう…今日陛下から御内示をいただいた。約ひと月後のわらわの誕生日を機に婚約発表が行われるそうだ」

「え?」

「まぁ」

 元より長引かせるつもりは無い。しかもその前に散々泣きわめいて二人を困らせた直後だ。リレイナはズバリと本題へと切り込んだ。

 しかしあまりの唐突な宣言に聞く立場の二人はともに困惑を隠せない。更に詳しい事情を問いただすのはどちらであるべきか、顔を見合わせて無言で互いを促している。

 その様子を見たリレイナはあまりに結論を急ぎ過ぎたかと反省し、悲哀から立ち直った反動の憤怒ふんぬに身を震わせつつ母と側近候補が進めていた陰謀について説明した。


「そんな…」

「なるほど、姫様ももうそんなお歳になりましたか」

 詳しい事情を聞いた二人の反応はほぼ正反対。この場合侍女頭のそれの方が一般的であることは間違いない。とはいえ彼女も動揺しているのは事実のようでリレイナに対する呼称が幼い時のそれに戻っている。

「セーラン、そんな冷淡な反応を…!」

「姫様…失礼いたしました、殿下のお相手が決まったというのです。これが慶事でなくて何というのです、ミーシャーナ様」

「それは…」

(セーランの言う事が正しい。不甲斐なくも愛していない男と結ばれることをあれほど嘆いた後で不条理極まりないが、ミーシャーナをいさめるべきだろうな)

 ミーシャーナの怒りはただ自分の恋人が権力によって略奪されるというだけではなく、先程までの自分の態度に純粋に共感してくれたからこその義憤だと理解しているが、王族の結婚について感情だけで論じるのは正しくはない。

 そう思ったリレイナは断腸の思いでミーシャーナを制止しようとしたが、その言葉はセーランの意外なひと言で泡のように消え去った。

「意地悪を申しあげました。この冷血者をなじるのであれば如何様いかようにも…しかし陛下の御高慮は常にこのシャグナートの繫栄を願ってのこと。それがお二人の幸せを引き裂くとしても、どうかご理解くださいませ」

「な、なに?二人、とは…何の話だ⁉」

「殿下、このばばがいつから何年姫様を見守ってきたとお思いで?」

「そ、それは…つま、り…そなた、知っておったのか」

「え⁉」

 年少者たちがさっきまでとは全く違う理由で動揺を始めるのを、老婆はまさしく古木が強風にあおられたとしてもびくともしない、そんな表情でうなずいてみせた。

わたくしだけではございません。おそらく殿下付の侍女の多くが察しておりましょう」

「そ、それほどあからさまだったであろうか」

「お若い二人に隠し通せと言うのも無理な話でございます」

 侍女頭の訳知り顔の言葉に良く日に焼けた浅黒い肌も抜けるような白い肌も赤く染まる。

「しかしそれなら何故妾わらわとがめなかったのだ。これは明確にティアマト神の教えに背く禁忌だというのに」

「左様でございますね…最初は若い娘が時折起こす麻疹はしかのようなものと軽くとらえていたのでございます。しばらく見守る内にお二人ともより真剣な気持ちなのだろうと理解して…それ故に何も申せなくなりました」

「セーランはそういう時毅然きぜんと正論を口にする人柄だと思っていましたけど…」

「姫様とミーシャーナ様の組み合わせでなければあるいは。ミーシャーナ様、姫様は長い間その心中で苦しんでいらっしゃいました。誰もが思い描く理想の王族という物を体現なさりながら、その胸の内に誰もが理解できないような奔放ほんぽう野放図のほうずな激情を抱えていらっしゃる事を」

「リレイナ様が…?」

 セーランの言葉の真実を計るようなミーシャーナの眼差し。そのまるで助けを求める小動物のような瞳をしっかりと受け止めてリレイナはうなずいてみせる。お前の味方は確かに今ここに居るのだと知らしめるように。

「ミーシャーナ、いつかそなたは申していたな。自分は生まれつきの体の弱さゆえに厄介者扱いされることが有ると。わらわも同じなのだ。人と同じように考える事がどうしてもできない事が幾度も有った。それを理由に母から叱られることも、他人からうとまれることも」

「では私を愛してくださったのも…」

「いいや、それは違う」

 震える声で確認しようとしたミーシャーナの声を力強くリレイナがさえぎる。それだけは違うのだとどうしても伝えなくてはいけない。

「周囲の誰もが勘違いすることだろう。わらわの特殊な感性故に誰もが夫にと望むようなラーシュを拒絶して女のそなたを選んだのだろうと」

 その言葉をかたわらのセーランは意外そうな表情で聞いている。彼女もまた余人にはリレイナはその生来の性格ゆえに禁忌と知りつつも男ではなく女を選び、その熱情がたまたまミーシャーナという美しい少女に結実したのだと考えていたのだろう。

「だが違うのだ。ラーシュを好ましいと思えなかったのはわらわいびつな心のありようが原因かも知れぬ。半年前出会ってすぐのそなたに心許したのも。だが他人が見れば短いと思うかもしれないがわらわとそなたが積み重ねてきた時間はそうではない」

 他の誰でもなくミーシャーナにだけは届いてくれと、もはや天にも地にも求める資格を失った王女は、ただひたすらに恋しい少女の心が受け止めてくれることを願って言葉を継いでいく。

 それは慟哭どうこくであり懇願こんがんであり挑戦であり宣誓であった。リレイナは神の定めた摂理せつりすらも超えてみせるのだと、狂おしいほどに密やかに何よりも激しく告白した。

「ミーシャーナ、今後そなたが迷うたびに何度でも繰り返すぞ。わらわは心の底からそなたを愛している。たとえ国家が二人を引き裂こうとも、永遠にだ」

 少女の真摯しんしな訴えを聞き届けた老女は足音を殺しながら後退あとずさって部屋からそっと出て行った。しかしその心遣いは無用のものだったかもしれない。

 なぜならリレイナもミーシャーナも、もはや互いの事しか見えてはおらず、互いの言葉のみを聞こうとしていたのだから。

 誰にも祝福されない愛と誓約の文言を聞き終えたミーシャーナのほほを涙がつっと流れ落ちた。ミーシャーナは自分が泣いている理由をリレイナが誤解するなどとは毛ほども思い浮かべなかった。ただ愛する少女の誓言にして聖言にこたえることだけを念じて返答した。

「たとえ神が、運命が立ちはだかろうともリレイナ様にこの操を捧げる事を約束します。そして貴女が永遠に私だけの乙女であることを信じます。私も貴女を心から愛しております、リレイナ様」

 ここに誓いは結ばれた。

 どちらからともなく二人はお互いの手を取り合い、そして彼女たちの秘密を守るためにとその身を隠した太陽チャスムの優しさに感謝しながら、星々のさやけき輝きにきらめくデァハフェッダの髪が静かにり合わされていった。

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