三章 二話 予想外の確執

 太陽チャスムが恵みよりも試練を下界に投げかけるこの季節、王都シャグナでは夜明け前に仕事を始めてこの時間には休息を取る者がほとんどだ。朝の内にいた水が獰猛どうもう火神ルドラの舌にめ取られるような時間に活動していると、下手をすれば熱にあてられて思わぬ病を起こすことも有る。

 だがミーシャーナがこの歳で馬に乗れないという事を秘密にしておきたいというリレイナの要望から、軍の早朝鍛錬が一段落したこの時間帯を見計らっての練習開始と相成った。

 灼熱の季節が過ぎ去ればまた時間と場所の確保に憂慮ゆうりょすることになりそうだが、ひとまずミーシャーナは何年ぶりかで挑む馬とそれを引いてきた教師に対してやや行き過ぎなほどに勢い込んで挨拶する。

「ロシナンテシャイーフロミオ―サが一子、ミーシャーナです!此度こたびは急な要請の受諾じゅだく、有難く思っています!」

「!…はい!尊い血筋シャイーフのお役に立てるとのことでわたくしめも大変光栄に思っております、今回ミーシャーナ姫様の教師の任をたまりました、リュースラマファフィシのリンドと申します」

(やれやれ、互いに緊張しすぎだな…)

 力みかえって教師に挨拶する銀髪の少女を見て微笑ましく思っているリレイナだが、彼女自身も正式な馬術を教わったことは無い。自分も何か得る所が無いかと期待して初歩の教導を真剣に少し離れた場所から聴講する。

「ミーシャーナ様は馬に触れるのは初めてとお聞きいたしましたが、間違いありませんか?」

「いえ、少々誤解があります。幼い頃に体が弱かったために屋外での練習が難しかっただけで、全くの初心者という訳ではありません」

「おお、左様でしたか。これは失礼をば…ふむ、ならば…」

 ミーシャーナの馬術に対する練度を改めて確認した後、しばらく黙考したリンドはまず何を伝えるべきか考え始めた。


(ふむ、これは難航しそうだな)

 リンドはまず用意された白鹿毛の馬ロニュクにミーシャーナを騎手として信頼させる所から始めた。馬にとって人を乗せるというのはそれなりに負担の伴う労働だ。気性が荒い馬の場合、気に食わない人間は平気で振り落とそうという事も珍しくはない。

 ロニュクはそういった事をしないようにという基準で選別されたので心配は無いだろうが、だからといって馬が騎手に不満を抱いていてはこれから長く続くミーシャーナとロニュクの関係には良くない。

 だが人の側があまり甘やかすのも良くはない。馬が騎手を侮っているとその指示に従わないかもしれないからだ。ただ馬に乗るだけならば補助に入る人間‐この場合はリンド‐がしつけるという方法も有るだろうが、ミーシャーナは自分で馬を操るのを望んでいるのだから、ロニュクに彼女自身を主人と認めさせなければならない。

(…のだが…ミーシャーナは思った以上に大きな馬の体におびえてしまっているようだな。まあ無理もない話ではある。わらわとていきなり今の成長したレーンドに幼い時に引き合わされたら腰が引けただろうしな)

 本来ならば馬に乗る訓練というのは幼い時に自分専用の子馬を選んでまずは日々の世話を通じて互いに信頼関係を築くところから始めるものだ。今回ミーシャーナの外聞をはばかって性格の穏やかな成熟した馬をあてがったが、やはり一足飛びというのは無理が有ったのかもしれない。

 リンドもおそらくその辺りを軽く考えていたために現状を打破する方法が用意できていないようだ。さらに問題なのが教師も生徒もそばで王太子を待たせているという点を意識して、気もそぞろになってしまっている事。騎馬の側も上の空になっている人間を騎手として忠を尽くそうなどと考えるはずも無い。本来ならばそこを指摘して矯正きょうせいするのが教師の役割なのだが。

「いったい何をにらめっこしているのです、あの娘は?」

「む?キシューカではないか、どうしてこんな所に?」

「ご挨拶ですわね姉上。先程きちんとどこで練習するのかお尋ねしましたわ」

「ああ、あの質問はそういう…なんだ、ミーシャーナがそんなに気になっていたのか?」

 悪循環に陥っている二人と一頭の様子を少しハラハラしながら見守っていたリレイナを驚かせたのは先程別れたはずの妹姫だった。突然の奇妙な言動の理由には得心したが、姉に対する愛情が時に奇妙な方向にじれる妹が、親友の練習の邪魔にならないかを危惧きぐして牽制けんせいしておく。

「キシューカ、そなた自分の馬はどうした?」

「姉上も例の白馬をお連れになってはいらっしゃらないご様子ですが?」

「ミーシャーナは練習を始めて最初の日だからな。悪戦苦闘している横で自分だけ楽しむのも具合が悪いと思ってな。それで馬に乗らないつもりなら何故そなたはここに?」

「妾《わらわ》はあくまであの娘が姉上のおそばにあるのが相応しいか見定めに来たのです。別に馬を乗り回しに来たわけではございませんわ」

「余計なお世話だな、誰がわらわの友となるかなど自分で決める」

「その言い様がもういつもの姉上らしくございません。先程も姉上の助け舟が無ければわらわに一方的に問い詰められて泣き出しそうな様子だったではありませんか。そのような軟弱物を王者の後継者たる姉上が何故大事になさるのです⁉」

わらわの気の強さを包む穏やかさが性に合うと思っておるのだ。貴族シャイーフの女には珍しい気質だとは思うが、その気性の美点が判らぬキシューカではなかろう」

「姉上はあの娘にたぶらかされているのです!」

 リレイナはミーシャーナの美徳を論理的にいているつもりだったが、親友を否定されてついなじる風になっていたのかもしれない。議論はたくさんだとばかりにキシューカは姉の言葉をさえぎると、ドシドシと足音が聞こえそうな勢いでロニュクの前で立往生しているミーシャーナに向かって歩いていく。

(まずいな、あんな調子では馬がおびえてしまう)

 自分の態度がかえって練習を邪魔する要因を作り出したと理解したリレイナが後を追うより早く、キシューカはミーシャーナを叱咤しったする。

「そなた!さっきから何を愚図愚図しているのだ!さっさとまたがってしまえ!」

「え?キ、キシューカ殿下?」

「あ、あの…え…?」

わらわの事などどうでも良い!貴重な姉上の時間を無駄にせずさっさと練習とやらを始めんか!」

 リレイナは可能な限り素早く判断してすぐにキシューカに追いついたのだが時既に遅し。姉よりわずかに背の低い妹は、突然の難詰なんきつに驚くばかりの銀髪の娘と状況を全く飲み込めない教師が満足に説明もできない勢いで怒鳴る。

「待てキシューカ、馬の様子を見るがいい」

「姉上?馬が…あ」

 かんの強いキシューカも敬愛する姉姫にさとされて気付いたようだ。先程までゆっくりと振られていたロニュクの尻尾は恐怖を感じた犬がするように丸まって股の間に潜り込んでいる。

 馬は元来臆病な動物だ。怒号飛び交う戦場でも平常心を保てるようにと厳しく鍛えられた軍馬でもないのに、すぐそばでこんな大声を出されて平気でいられるはずも無い。

「すまないな、ミーシャーナ、そして教師リンド。今日はもうめておくと良い」

「リレ…殿下…でも…」

「いえ、ミーシャーナ姫様。リレイナ殿下のおっしゃる通りです。ロニュクが気分をそこねてしまったので今日はもうこれまでに」

「…すまぬ。わらわの責任だ」

「あのぅ、貴女様は?」

「リンド先生、このお方はサレナイア3世陛下の次女、キシューカ殿下でいらっしゃいます。見学に来てくださったのですね?」

 ミーシャーナの紹介に応えることもできずしょげかえるキシューカをなぐさめるつもりで、リレイナは妹の細い肩に柔らかく手を添える。だが普段気丈に振舞っている分、一度落ち込むと立ち直るにはやや時間がかかりそうだ。

 これはしばらく放置するしかないと思ったリレイナはリンドに頷きかけ、後片付けを始めるように無言でうながす。

「では今日の練習はここまでに。リレイナ殿下、キシューカ殿下、ミーシャーナ様、ロニュクはわたくしめが厩舎きゅうしゃに戻しておきますので、お三人様はこのままお帰りください」

「いえ先生。折角の機会ですから私がロニュクのはみを取って歩く事はできませんか。少しでも触れ合っておきたくて」

 ミーシャーナの言葉にリレイナの女にしては少し分厚いてのひらの下でキシューカの方がピクリと動く。もっともらしい理屈を付けてはいるが気落ちしたキシューカをリレイナになぐさめさせようというミーシャーナの意図は明らかだ。

 ミーシャーナ同い年の少女の気遣いが裏目に出た形だが、姉姫の狼狽ろうばいをよそに骨のずいまで強情な妹はかえって奮起した。

そっとリレイナが添えた手を払いのけると昂然こうぜんと顔を上げて柘榴石ラァルの瞳をにらんで告げた。

めるでない。わらわが姉上に寄りかからねば何もできない幼子にでも見えておるのか…とはいえ今日の事はわらわの未熟が招いたこと。誠に済まなかったと言っておく」

「いえ、お気になさることのないように、殿下。はいつでもお時間を空けてくださいますから」

(?キシューカがわらわの友人に突っかかるのはいつもの事だが、ミーシャーナの側にもけんが有るようにみえるな?)

「あの…両殿下…」

「ああ、すまない教師どの。また次の練習の日取りは追って連絡する。そなたは気にせず後片付けを頼む」

「承ってございます」

 リレイナがうながすとほっとした様子で男は白鹿毛を引いていく。それを見届けたリレイナはパンパンと手を叩いてどこか緊迫した様子の少女たちの注意をこちらに向ける。

「リンドは馬を戻した後ここの細々した作業が有るだろう。邪魔せぬように今日はお開きとしようではないか」

「はい、姉上。今日は大変失礼いたしました。それではごきげんよう」

 すっかりいつもの調子を取り戻した様子の、姉と同じが傾く直前の

夏の空の色の瞳の少女は、編み上げた長い金髪を軽く下げて挨拶すると絹服ハリール颯爽さっそうひるがえして去って行った。

 それを見送った柘榴石ラァルの瞳の少女は深く溜息ためいきをつく。

「あ~うむ…今日は残念だったな、ミーシャーナ」

「はい、あ、いえ…その、わたしいけませんね。リレイナ様の妹君なのだからもっと仲良くしなければと思っていたのに」

「最初の出会いが良くなかったからな。わらわとキシューカは似ているようでも気性が違う。少し馬が合わないという事かもしれんな」

「いえ、そうではなく…いいえ、きっとこれからはもっと…はい!」

 何か納得しているらしい親友を奇妙に思ったが、今回の失敗は忘れてまた改めて馬術に挑んで欲しいとリレイナは考えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る