一章 一話 王位継承者の憂鬱

 夏至前のひと月強を麦酒エールと羊肉と色鮮やかな薔薇ばらに埋もれて過ごす四旬節の馬鹿騒ぎに貴重な青春を付き合わせるのに嫌気がさして、リレイナが愛馬にまたがって宮殿を飛び出したのが一時間ほど前。

 ところが気晴らしの筈が市街地を抜け出していざ全力疾走と勢い込んだところで、今一番顔を見たくない男に呼び止められて同道する事になってしまった。

 (今日はまさに遠乗り日和。たった一度の18歳の四旬節を飾るのに相応しいな)

 男勝りの姫君は現実逃避のために、遥かにかすむティムロビトン山脈から頭上まで広がる所々に綿雲が散った青空と、肌を心地良くでる湿気をかすかに含んだ風へ意識を持って行った。

 夏至を過ぎて本格的な夏ともなれば、苛烈そのものの太陽に焼かれてまるで灼熱地獄のような王都シャグナだが、短い雨期でもある晩春の内は砂漠を通り抜けた乾いた風に程よく湿り気が混じる。今日のように天候にも恵まれているとなれば、次々と移り変わる馬上の景色の中の緑もまだ穏やかな陽光を照り返して青々と輝き、千年王国アル・アルフィーヤの王都は極楽さながらの姿を見せる。

「王太子殿下、今日は心地良い日差しでございますな」

「その通りだな。はしたないとは思うが王宮を飛び出して正解だった」

 女が自分を遠ざけがっているとは夢にも思っていないだろう若武者、ラーシュの胴間声に表面上は愉快気に応えにリレイナは、馬の歩調に合わせて揺れる浅黒い肌の巨漢を心中で溜息をつきながら見直した。

 1スタディオン約1.8mを軽々と超える長身を一見ではずんぐりむっくりに思わせる程の筋骨隆々の体躯《たいく》。短く刈り込まれたやや薄い色の金髪。ギョロリとした印象すら覚える鋭い目つき。大ぶりだが整った造形の鼻と口。シャグナート国の女性なら誰もが見惚みほれる美丈夫といって差し支えない。

 またその見る目にも美しい肉体は飾りとは程遠い。剣聖の誉れ高き王宮衛兵隊長イストリス直々に手解きを受け、齢30に満たない身ですでに大国シャグナートの正規軍騎士隊長の座が確実視されている卓越した剣客でもあるのだ。

(客観的に言ったなら確かに私の婚約者として申し分が無いのだが…)

「しばらくはこの馬上からの景色を楽しみたい。貴公もそうするか、わらわの代わりに前の方をよく見ていてくれ」

「了解しました、殿下」

 なるべく嫌味には聞こえないように今は孤独にさせてくれ、と告げて会話をシャットアウトしてから手綱をチラリと見るミレイナ。明るい日差しを照り返して目にまばゆい、乗り慣れた白馬レーンドの一房だけ茶褐色に染まったたてがみが目に入り、シャグナ郊外の絶景から5年前の出来事へと意識が移る。

 それはレーンドを買い付けてきた馬商いが、次期女王に捧げるはずの乗馬に完璧な白馬を用意できず申し訳ない、と恐縮しながらいてきた時の事だった。


 これはこれで味が有って面白いと率直な感想を呟くと、毛色みてくれではなく走力せいのうを確かめるべくひらりと馬上に身を移したリレイナはしかし、自分にも商人としての意地が有る、おざなりな慰めで誤魔化すのはやめて欲しい、という大げさな男泣きに足止めされた。

 そんなつもりは無かった、純白であるかどうかなど傍目はためには判る筈もないのだから気にするな、というリレイナの言葉に馬商人のプライドに根差した抗議はヒートアップするばかり。騒ぎを何事かと思った役人たちが野次馬の輪を広げていき、最後には母であり王宮の主でもあるサレナイア3世まで出てくる事態となってしまった。

 女王は双方の言い分を聞いて事の成り行きを知ると即座に、馬商人には今回の未熟の代償に今後1年は国家との取引を与えないと決め、人集ひとだかりを散らすと自室に娘を連れて戻った。

「まだ幼いとはいえそなたももう充分に分別の付く年頃。なぜ無用無意味な表面的な慈悲を振り撒《ま》いて殊更に問題を起こしたのじゃ」

「お言葉ですが母上、馬の善し悪しなど毛並みでなく速さで決めるべきだと思ったのです。たかが一箇所白くない部分があるなどというだけの事で責め立てるなど、それこそ人の上に立つ者の振る舞いとは思えません」

「それが考え違いじゃと言うておる。このシャグナートの王族たるもの、常に最上の物を手にする事も民に威光を示すための務め。無論純白の馬が毎年都合よく手に入る筈も無い。しかしそれを一々口にして民を甘やかしてはならぬのじゃ」

「母上!」

「くどい、そなたにはしばらく謹慎を命じる。頭を冷やして王位継承権としてのより良き立ち居振る舞いについて考えよ」

「母上、お願いですからお聞きください、わらわは…」

「くどいと言っておる、もう下がれ」

 そう言って母王は面倒くさげに手を振って退出を命じつつ控えていた侍女に合図する。これ以上抗弁しても謹慎期間が際限なく延長されるだけだろう。最初取るに足らないと思った事柄で重い処分を下されるのも馬鹿々々しい。そう考えた今の自分の口元ほどしか背丈の無かった幼いリレイナは、結局血のつながった母にすら判断が妥当だったか見定められる以前に、伝える事すらできずに引き下がった。


 思い返せば万事がその調子だった。いつも常識とリレイナの識見は食い違っていた。リレイナにとって幸運だったのは王族である彼女をはばかってか、周囲が暗黙の内に些細ささいなことだからといたずらに否定されなかったことだろうか。リレイナは幼い時分から無暗むやみに自分の感性を押し潰されるという経験で柔らかな心を傷付けられることなく成長することができた。

 それでも少女期も後半になれば周囲が気遣っていることも察するようになる。リレイナは我儘わがまま王太子などと呼ばれる不名誉を甘受するつもりなど毛頭なく、自分の感性にも一分の理が有ることを順序だてて説明するように努力するようになり、結果として理非を落ち着いて判断できる聡明な子供になっていった。

 しかし結局のところ常識はずれな感性であること自体は変化することなく、時に突飛な発想を口にすると役人や侍女、大貴族の娘たちが戦々恐々せんせんきょうきょうとしているのは18歳になった今も変わらなかった。


 ラーシュを女として受け容れることができないのもその一つ。彼が一般的に言う魅力的な男性であることは理解している。だがリレイナはどうもこの出世街道を驀進ばくしんする自分の一回り程年長の男が気に食わなかった。理由は自分でもはっきりしない。

 ただそのどこまでもクッキリとした目鼻立ちに爽やかそうな笑顔を向けられても、同世代の少女たちのように陶然とする事ができない。抱きしめられたらさぞ力強さと安心感のありそうな良く日に焼けた筋骨隆々の肉体が衣裳ゴミスの裾からチラチラと顔を出すのが不満だ。

 勿論王族の結婚とは政治の一環だ。男が性に合わないと言って拒む権利など自分には無いだろう。別に心底から愛する必要がある訳でもない。リメイラの後を継ぐ子をはらんだら、武勇に優れているのだからと近年何かと蛮族がちょっかいをかけてくる辺境へと遠ざけてしまえばそれで済む。

 だがそれはそれとして今この男との偶然の逢瀬おうせを歓迎しているふりをしなければいけないのは苦痛だ。

「殿下、ご存知でしょうか。この道をしばらく行ったところにアレカヤシという少し変わった木が群生しているのです。そこでしばらく馬を休めませんか」

「王宮育ちに地理を期待されても困るぞ。しかしそれは良い提案だ。さわやかな気候とはいえ馬も走り通しでは気が滅入るだろう」

「ではいてきてくだされ」

 嘘だ。時々今日のように何もかも投げ出したくなって遠駆けをするリレイナは王都郊外をしばらく走った地点に存在する小さなオアシスに、遥か遠くのミスラの地からの友好のしるしとして贈られた少し珍しいヤシの木がまばらな林を作っているのをよく知っていた。

 しかし普段兵舎に詰め通しで女の扱いを心得ているとは言い難い男の精一杯のリードを無下にするのも、婚約者候補としては褒められた振る舞いでは無いだろう。加えて確かに馬を留めるのには都合の良い場所でもある。

 そこに辿り着いた後はまたしばらくラーシュの不器用なアピールを喜ぶふりをしなくてはならないだろうと未来を嘆きつつ、リレイナはレーンドの首筋を軽く叩いて労ってから青年の走らせる黒馬に続いた。


「そう言えばラーシュ殿はイストリス殿とはどんな形で縁をつないだのだ?」

「おや、殿下はかの剣聖に興味がお有りで?」

「うむ。まつりごとを為すに剣術など不要と母上には叱られるがな。体を動かすのは嫌いではない。とはいえ所詮しょせんは姫の遊びのうちだからな。現役の将軍格に手ほどきを受ける訳にもいくまい」

 予定通りアレカヤシの林で馬を降りた二人はしばらく心地良い火照りを五月メイヨーの風で冷ましていたが、リレイナが予見した通りラーシュの話題選びは不器用そのものだった。仕方なくリレイナは少しでも興味のある方向へと自分から話を促していく。

「そうですか…自分が殿下のお相手を務める事が出来たら良かったのですが…」

「それこそ無理だろう。それよりもイストリス殿との出会いについて聞かせてくれ」

「そうですな…あれはもう5、6年は前になりますか。当時自分は…」

 危うく次のデートの約束を取り付けられそうになりながらも、一手指南を受ける機会をうかがっていた宿将についての情報を仕入れる事に少女は成功した。あまり期待もしていなかった男との時間の充実に満足を覚えつつ、リレイナは太陽チャムスようやく西の方へと歩を進める頃合いに王都への帰路に就いた。

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