精霊の御子

神泉朱之助

第1話

 濃密な緑の樹木が生い茂る森の上を、ゆったりと影が横切っていく。


 それは上空をよぎる雲が落とす影か、あるいは、今しも通り過ぎていく、上空の小さな浮遊島が落とす影かもしれない。


 そこは浮遊大陸 藍絽野眞アイロノマ


 この世界に浮遊する九つの大きな大陸のうちの一つである。


 藍絽野眞アイロノマ は、比較的森の多い大陸として知られている。


 鬱蒼たる密林の合間を、鳥たちが行き交い、小さな獣たちが通り過ぎる。


 すなわち、それは 藍絽野眞アイロノマ が他の浮遊大陸に比べて、やや豊かな大陸であることを示している。


 藍絽野眞アイロノマ の王宮は、大陸のほぼ中央にある。


 巨大な樹木の上に回廊を渡し、木々の幹を柱にして梁を築いて建造された殿堂。


 古く長い歴史を刻まれた、気品に満ちた美しい宮殿だ。


 緑に埋もれた、その色とりどりの伽藍が青く晴れ渡った空の光に映える。


 その宮殿で今、一つの儀式が行われようとしていた。





「止めて! お願い……止めさせてください!」


 悲痛な、若い女の叫びが王家の間に響き渡った。


 叫んでいる女は背後から両手首を衛兵たちに押さえられ、それでも必死に身をよじらせてその束縛から逃れようとしている。


 豊かに波打つ黒神の娘、みずみずしい若さと美しさを備えたその娘は、藍絽野眞アイロノマ の王、競絽帆セロホ 三世の側妃の一人、李絽妻良イロメラ だ。


 競絽帆セロホ 王は、顔を強張らせて 李絽妻良イロメラ の方を見ている。


 側妃の訴えに痛ましげな眼差しを向けて。


 王の前には 藍絽野眞アイロノマ の群臣たち、宰相を始めとする側近たち、それに白い僧衣を着た僧侶たちが居並んでいる。


 また、泣き叫ぶ 李絽妻良イロメラ の背後には、着飾った王家の後宮の美しい女たちの姿もある。


 王家の間の玉座の前には、真っ赤に熱せられた大釜が据えられていた。


 大釜の中には油がその縁までなみなみと湛えられ、煮えたぎってぐらぐらと音を立てている。


 赤い炎が、油の表面からうっすらと立ち上っていた。


 人を魅了するようにゆらゆらと揺れ動く炎。


 熱気が広間の中にこもり、居並ぶ群臣たちの額にも汗を宿していた。


 いや、彼らが額に汗しているのは、その熱さのばかりでもないかもしれないが。


 王の前には、金色の僧衣を着た白髯の老僧が立っていた。


 その腕には、一人の幼な子。


 赤子が抱かれていた。


 赤い髪の子供。


 炎のような赤い髪。


 大きな黒い瞳に、ピンクのつややかで健康そうな肌をした、可愛らしい子供だ。


 生まれて、一年くらいの子供だろう。


 子供はその大きな瞳をぱちくりと恐れげなく、不思議そうに見開いている。


「……止めて……子供を返して……」


 王の側妃は、さらに叫んだ。


 その声は掠れ、涙に曇っている。


 競絽帆セロホ 王の顔にも、苦い表情がある。


 彼は赤い髪のその子供の父親であり、その子は長く男児を設けられなかった 競絽帆セロホ 王にとって待望の世継ぎの王子だったのだから。


 だが、赤子を腕に抱く僧侶は非情に王に告げた。


「王よ。

 これは王家に生まれた赤い髪の子供に与えられた試練です。

 あなたにはおわかりのはず」


 王は、あえて自らの感情を振り切ろうとするかのように、無表情に頷いた。


 そして、言った。


「始めろ」


「止めて!」


 美しい側妃の叫びが、王の命令の声にかぶさる。


「よして!

 殺さないで!

 妾の子だわっ!」


 僧侶は王の命を受けて、恭しく礼をした。


 金色の僧侶は油の煮えたぎる大釜の方に向き直り、周囲の者たちに合図した。


 油釜の脇に台が置かれた。


 そこに乗ると、舞い上がる炎の上、煮えたぎる油の表面に向かって手を差し伸べられるようになる。


 その台に上っていく間、僧侶は傍らの白衣の僧に赤子を渡した。


 すると、その僧は赤子を包んでいた 藍絽野眞アイロノマ 王家の紋章入りの産着を脱がせ、赤子を裸にした。


 台の上に乗った僧侶が両手を伸ばすと、そこには裸にされた子供が渡された。


 子供は、裸にされても上機嫌なままで、むずかりもしない。


 むしろ興味深げにその黒い瞳は周囲を見回している。


 僧侶は、王家の子供を炎の上に突き出した。


 すると、子供は今しも自分が落とされようとしているその大釜を覗こうとでもするように首を伸ばし、手で炎に触れようとする。


「王よ、ご命じ下さい」


 僧侶が、王を促した。


 王はひととき唇をかみ締め、命じた。


「やれ!」


 競絽帆セロホ 王の言葉とともに、僧侶の手から子供の小さな身体が炎の中へと転げ落ちた。


李玲峰イレイネー!」


 李絽妻良イロメラ は、子供の名を呼んだ。


 どよめきが、王家の間に起きる。


 ほとんどの者が、思わず目を背けた。


 王はうつむき、子を奪われた母親は言葉を失って、釜口から空中へと大きく吹き上がった赤い炎を見つめた。


 だが、同時に!


 ……子供の笑い声がした。


 炎の中から。


 群臣たちのどよめきは一瞬の静寂に変わった。


 ひどく楽しげな、子供の笑い声。


 きゃっきゃ、とまるで一番のお気に入りのおもちゃで遊び、はしゃいでいるような子供の声は、静寂が支配した王家の広間に異様に響き渡った。


 王は顔を上げた。


 その場にいた誰もが、息を飲んだ。


 顔を引きつらせ、呆けた、ほとんど茫然自失と言った表情をした側妃は、次の瞬間に狂ったように叫んだ。


「放して! お願い! 放して!」


 側妃の叫びに応じて、王は衛兵たちに向かって解放するよう、合図した。


 李絽妻良イロメラ はふらふらと前に出ると、まろぶように油釜へと歩み寄る。


 しゃむに台へと突進すると、そこから子供を落とした年老いた僧侶を押しのけ、自ら台の上に登っていった。


李玲峰イレイネ……」


 煮えたぎる油へと投げ込まれた我が子を求める。


 炎の中に。


李玲峰イレイネっ!」


 子供が、見えた。


 まるで水を泳ぐように赤い髪の子供は炎を泳ぎ、煮えたぎる油の中で水遊びをするように遊んでいる。


 母親は、もう一度、狂おしく呼んだ。


李玲峰イレイネっ!」


 油釜の炎の中で遊んでいた子供は、母親の呼ぶ声の激しさに気がついたようだ。


 幼い顔を上げて、子供はにこっ、と炎の中でえくぼを浮かべて微笑った。


 愛らしく。


 それから、炎を泳いで母親の方へ戻ってきた。


 炎の中から、子供の手が伸びる。


 突き出されたその手には、火傷の痕ひとつ無い。


 その肌はとっくに焼けただれているはずなのに炎の気配さえまるで残さず、それどころかほんのりと白さを増したかのようにつややかだ。


 腕をつかみ取ると、ひんやりとしていた。


 抱きあげた母親の方は立ちのぼる炎のせいで火傷したというのに。


 しかし、若い母親はそんなことはまるで意に介さなかった。母親は、両腕に包み込むように、子供を抱いた。


 子供は赤毛の頭を母親の豊かな胸元にもたれさせ、きゅっとその腕を掴んだ。


 母の胸に頭をもたれさせた赤い髪の子供は、うっとりと、どこか陶酔したような表情を浮かべている。


李玲峰イレイネ、良かった」


 涙声でつぶやき、震えて、若い側妃は子供の小さな体をますます強く抱きしめた。


 女官たちが慌てて前に出て、側妃の腕に抱かれた裸の王子に産着を着せかけようとする。


 ざわざわと、王家の間の群臣たちはざわめいた。


「やった…… 精霊の御子 だぞ!」


「精霊の御子 が生まれたぞ!

 剣の英雄が現れる!」


競絽帆セロホ 王、万歳!」


藍絽野眞アイロノマ 、万歳!

 九大陸連合に栄えあれ!」


 どよめきは、さらに歓呼の声へと変わっていった。





 遠い昔……


 すべての大陸が定着する大地を持っていた時代がある、と伝えられている。


 その頃には、今のように大気の中を根無し草のように漂う浮遊大陸はひとつとして存在しなかった。


 さらに、すべての大地はふんだんに四大精霊たちの恵みを受け、人間はその恵みを疑うことなく、万物の上にまるで神のように振る舞っていたという。


 しかし、人が精霊たちに見捨てられ、その加護を失って久しい。


 だが、人が失った精霊たちの恵みは、三振りの剣に封印され、いずこかに隠されているという。


 精霊の力を宿す、三振りの剣。


 宝剣。


 それらの剣が隠されている場所を見つけ出し、精霊たちの力を人の元に取り戻すことが出来るのは、精霊たちに愛された子供。


 精霊の御子 たちだけだという。


 浮遊大陸に生きる黒髪の住人たちの中に髪の色の違う子供が稀に生まれる。


 精霊の御子 は、そうした毛色の変わった子供たちの間に現れる。


 彼らはその異なる色の髪に精霊たちの守りを宿して生まれてくる、と信じられていたし、そうした子供たちの多くは精霊の加護を示すなんらかの特殊な力を身に備えていた。


 その日、 藍絽野眞アイロノマ の王宮で、炎の髪、一年前に炎の精霊の守りを示す赤い髪を持って生まれてきた王子は、炎の試練を受けた。


 精霊の御子 たちのうち、炎の精霊の力を宿した 炎の宝剣 をみいだすことが出来る 炎の御子 は、浮遊大陸を治める王家にしか生まれない。


 もし、王家に赤い髪の子供が生まれたら、その子は炎の子かもしれない。


 それゆえに、九大陸の王家では、赤い髪の子供が生まれると、その子に必ず炎の試練を与える習慣があった。


 その試練を生き延びたことで、幼い王子は自らが 精霊の御子 、炎の御子 であることを明かした。


 そして、その日から、彼は 精霊の御子 としての期待をにない、宿命を負うことになった。


 炎の宿命を。

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