第44話

朝方から降り始めた雨は止む気配がなく昼下がりでもアスファルトを黒く染め続けていた。

 一番大きな傘を家から持ち出した私はもう片方の手に紙袋を持ちながら先輩の家へと向かう。

 

 修学旅行のお土産それは私にとって先輩と会う数少ない口実だ。

 だから休日に約束を取付けておいた。

 修学旅行の肉体疲労からスピードはあまり出なかった、しかしそれとは裏腹に心がはやる。

 先輩の家までは徒歩30分。

 約束の時間まで10分ほどの余裕は持たせてある。

 距離的に自転車の方がいいのが、物語の中では贈り物を亡くしたりする展開はありがちでこうして握りしめていないと不安になる。


「……先輩喜んでくれるかな?」


 暗い空に向かって1人ぼやく。

 口にした瞬間急に不安になって私は紙袋の中を覗き込む。

 中に入っているのは夏希ちゃんといっしょに選んだ京織物のブックカバー。

 先輩はどんなものでも喜んでくれる、それは分かっている。

 しかし、その不安は影のように私について周る。

 それを振り切ろうと私は足を速める。

 先輩の顔を見てこんな不安から速く解放されたかった。

 誰かの私有地なのかずっと舗装されない道路には水溜りが出来ている。

 水を引っ掛ける車が通ることは稀なので避けてしまえばいいだけだ。

 田植えを終えた田んぼ、掠れた横断歩道、そんないつも通りの景色がゆっくりと流れていく。


(私はこの町から出られない)


 そんな考えが最初に浮かんだのはまだ小学生の頃だ。

 その頃は漠然としていたが最近は徐々に確信めいて来ていた。

 人は少なくなるばかりでそれに反比例して廃墟が増えていく。

 そして、町を覆い尽くす排他的雰囲気の中直ぐに広がる噂話。

 しかし、私はこんな町を嫌いになりきれない。

 そして、そんな私を私は嫌いだ。

 だから町から出られるであろう人を羨ましく思う。

 2人の先輩はその最たる例だ。

 2人を見た時最初に頭に浮かんだのは2匹の飛ぶ鳥だった。

 先輩を始めて認識したのは2年前のちょうどこの季節だ。

 誰も来ないであろう部活に真面目に出席し持って棚に置いていた文庫本を手に取る。

 パイプ椅子に座り読み進めるものの直ぐに集中が切れる。

 理由は単純に部屋が暑かったからだ。

 少しましになればいいと私は窓際に移動し入部以来触ってもないカーテンと窓を全開にする。

 運動部の喧騒が直接耳に届く。

 そのことに煩わしさを覚えつつも、窓際にパイプ椅子を寄せる。

 2階であるこの部室からはグラウンドが見渡せるようだった。

 ふとある人物が目に止まった。

 綾園先輩、交友関係が少ない私でも顔と名前は知っているほどの有名人だ。

 こうして遠くから見ているだけでも美人なのが分かる。

 有名人なのも納得だ。

 どうやら彼女は陸上部のようでちょうど走り出すところだった。

 

 綾園先輩の他のレーンに人はいるがほとんど目に入らない。

 それほどまでに綾園先輩の存在感は圧倒的だった。

 ピストルがなり、綾園先輩はクラウチングからの秀でた加速を見せそのスピードを物語るように長い髪が風になびく。

 その姿はあまりにも綺麗で彼女がトラックを1周したのにしばらく気づけなかったほどだった。

 彼女の後を3人がゴールする。

 新記録でも出たのだろうか、しばらくして彼女は同じ部員と笑顔でハイタッチしていく。

 その余りの眩しさに目を逸らす。

 すると明るい髪色が目に入った。

 どうして気がつかなかったか分からないぐらい金髪の彼女はゴールの近く膝に手をついて下を向いていた。

 金髪に対して私は他の人のような忌避感はない。

 むしろ、自分自身を貫いていてかっこいいと思う。

 同じ学年に金髪の人はいなかったからたぶん先輩だろう。

 そこまで考えて私は再び文庫本に目を落とした。

 次の日、暑さあまり部活早々に切り上げを、靴を履き替えているとグラウンドをのぞき込むようにしてちょっとした人だかりが出来ているのを見つけた。

 私も何となくそこで立ち止る。

 おそらく同じ1年生だと思われる集団が見ていたのはやはり綾園先輩だ。

 

「綾園先輩がんばれー」


「ありすー、負けるなー」


 そんな黄色い声が集団だけでなく陸上部員からも飛ぶ。

 その声援に応えるように綾園先輩は美しく走っていた。

 しかし私が気になったのはその隣のレーンを走る金髪の先輩だった。

 2人がゴールしたのは同時、少なくとも私にはそう見えた。

 しかし結果は、2位だったようだ。

 綾園先輩が部員に迎えられる中、彼女は1人汗を拭う。

 初めて見たその顔は完全に無だった。

 悔しさを滲またり、やりきった表情でもない。

 ただ無感動に何処かを見つめる。

 熱中症なのではないかと心配になったが、足取りもしっかりしているし他の部員が気にする様子もない。

 陸上が嫌いなのだろうか、しかしそれなら嫌いなりにもう少し反応があってもいいはずだ。

 でも少なくとも好きではなさそうだ。

 彼女が陸上部を辞めて文芸部に来るそんな可能性もあるのだろうか。

 ふとそんな考えが頭をよぎりその余りのロジックの無さに頭を振る。

 どうしてあの人が文芸部に入るという思考になるのか

 どうやら本格的に頭が茹だっているらしかった。

 ハンディー扇風機の持ち込みによって文芸部の暑さ問題はある程度解決された。

 とは言ってもそれでも熱いので、カーテンも窓も開けられたままだ。

 だから陸上部の練習風景は嫌でも目に飛び込んでくるようになった。

 あとがきを読み終え本を閉じる。

 図書館で何の気なしに借りたものだったがなかなか面白く一気に読み終えてしまった。

 時間を見るともう7時が近い。

 外を見てみると暗がりのなかひとつ結びにした金髪が靡いているのが見えた。


(がんばるなぁ)


 綾園先輩みたいに誰かから声援を受けることなく1人黙々と走り続ける。

 『誰も応援してあげないのかな』そう思って少しだけ大きく息を吸い込む。

 しかし吐き出した空気は声帯を震わせることはなく窓枠に落ちていった。

 そのまま、日が沈んで彼女が徐々に髪色が分からなっていく。

 何度目かの走り込みが終わった後彼女に駆け寄る部員の姿が見えた。

 シルエットしか分からないがその所作から綾園先輩だと確信する。

 綾園先輩が彼女に何か話した後、直ぐに離れていく。

 綾園先輩が立ち去った方向を見ながら彼女がその場に立ち尽くす。

 きっとその表情は先日の無感動ではなく何かしらが浮かんでいるのだろう。

 その瞬間、頭に『2匹の飛ぶ鳥の情景』が浮かび上がった。

 一羽は翼を怪我していてそれを励ますようにもう一羽が飛んでいるそんな情景。

 そして2人はこの町を飛び出していく。

 羨ましいなと思う。

 それと同時に私の綴る物語の一端が見つかった気がした。

  


「ちょっと君」


 声が耳に届く。

 しかしその声が自分に向けられたものだとはゆめゆめ思わなかった。

 

「ちょいちょい君に話しかけてるんだって」

 

 肩に手を置かれてようやく自分が声をかけられていたと気づく。

 振り返ると綾園先輩その人が困ったような笑顔を浮かべ立っていた。

 テスト期間のため一斉に下校する生徒たちの流れの中私たちは立ち止まる。

 周りの人たちが奇怪なものを見る目で私を見つめているのが分かった。

 

(どういう状況なんだこれ)


 理解が追いつかず完全にフリーズした私に対し彼女が「おーい」と目の前で手を振るの画面越しのような感覚で見つめる。

 相変わらず綺麗な声だ。

 綾園先輩が私に話かけてくるなんてあり得ない。

 白昼夢でも見ているのだろう。

 そう思い目を閉じる。

 ところが再び目を開けたも目の前の彼女が消えることは無かった。

 

「……何か用ですか」


 会話をしないと本能的にそんな使命感を感じ言葉を絞り出す。

 

「あーえーと」


 綾園先輩は目を泳がせる。

 それは、私の無愛想な言葉に気を悪くしたのとかでなく、ここまで来て話すべきか迷っている顔だった。


(帰っていいかな)


 そんな選択肢が脳裏にちらつき始めた頃、彼女が口を開く。


「……よく見てるよね。文芸部の部室から波瑠のこと」


 その言葉にポカンとする。


「波瑠って言うのは背が高くて金髪の娘ね」


 慌てた様子でされたその補足説明によりようやく思い当たる節が出来た。

 毎日の様に最後まで走り続けている彼女が頭に浮かぶ。


「……どうして」


「私って目がいいから」


 私から出た疑問の声に彼女が自分の目を指しながら可愛く答える。

 それが私が知りたかったことじゃないことだけが分かる。

 

「それじゃ波瑠のことよろしくね」


 私が明確な疑問を形にする前にそれだけ言い残し彼女はさっていく。


「綾園さん何話してたの?」


「うーん秘密」


 友達の輪に戻った彼女はすれ違いざま一発でそこらの男子を落とせそうなウィンクを披露してきた。


(よろしくって言ったって、まだ知り合ってもいないんですけど)


 ようやく形になった疑問を遠くなった綾園先輩の背中にぶつける。

 と言うか私と彼女が知り合えるなんて到底思えない。



 着信音が鳴る。

 表示された名前を見て私は思わず顔を顰めた。


「あっもしもし、ひなちゃん」


「……はぁ……なんです?」

 

 わざとため息を作り応答する。

 しかし、それに対して返事は無かった。

 ザァザァと雨の音だけが響く。


「……私、波瑠の事好きだから」


 特に驚きはない。

 しかし、それとは別に心に鋭い痛みが走る。


「……ひなちゃんだけには伝えておこうと思って、じゃ、それだけだから」


「待ってください」


 言いたいことだけ言って通話を切ろうとする彼女を慌てて引き止める。

 けれど今度は私が黙りが来る番だった。

 何を言えばいいんだろう。


「綾園先輩って先輩の事になると不器用ですよね」


 そんな憎まれ口かも分からない言葉が口をつく。

 けれど電話の向こうの相手は結構真に受けたようで


「そ、そんなことないよ」


 なんて慌てた様子で否定してくる。


「ふっ」


 普段では考えられないだろう彼女の様子に思わず笑ってしまう。


「ひなちゃん、今笑った?」


「笑ってないですよ」


 今こうして彼女と気後れせずに話せているのは、たぶん電話越しだからだ。

 彼女の綺麗な声も電話越しならば合成音声として耳に届く。


「一つだけいいですか?」


「うん、なに?」


「……どうして、あの時、先輩のことよろしく、なんて私に言ったんです?」


 あれを言われたのはもう2年も前の事だ。

 けれど綾園有栖は憶えているそんな確信が何故かあった。


「強いて言うなら、勘かな?」


「……そう……ですか」


 ブチリと通話を終了する。

 勘か。

 たぶん、私の求めた答えとは違う。

 先輩があの時から私の事を認識していて意識していた様だったとでも言って欲しかったのか私は。

 それでもそう思えてしまうほどあの出会いは劇的で。

 

『あのさ……小説すごく良かった』


 そんな風に話しかけられたのは綾園有栖に話しかけられた数カ月後、文化祭が終わって一段落ついた部室の扉前だった。

 その瞬間私は気づいてしまったのだ。

 先輩が自身を鳥などとは思っていないことに。

 物語の面白さはその物語の主人公にどれだけの感情移入できるかがかなり重要だ。

 そして私の物語の主人公は鳥ではなくそれに憧れた鯨だったから。

 けれど先輩はちゃんと翼を持っている。

 綾園先輩なら先輩をこの町から連れ出してくれる。

 そして彼女なら先輩を遠くへと連れ出してくれるはずだ。

 この町から飛び出して見えなくなるほどに。

 先輩に遅れるという趣旨の連絡を入れる。

 ただ、それを素直に喜べるほど私は感情は単純じゃなかった。

 


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