玖話目:葛

 風邪をこじらせてしまった。あの日、濡れた服を着替えずに籐椅子で寝こけてしまったのが原因やも知れぬ。

 数日は喉が痛んで身体が少々気怠い程度だったのだが、朝起きたら酷い頭痛がした。おまけに発汗しているのに寒い。咳が出そうな気配もして、愈々拙い。

 元々肺を患った身の上である。一旦咳が出る病に罹ると暫く残ってしまうのだ。

 寝間着が汗でべったりと貼り付いて仕舞い、仕方なしに新しい物に着替えた。動くのも起きるのも辛いが、気持ち悪さが勝った。

 どうせ誰も来やしないと高を括って寝間着で過ごす事にする。しかし仕事もしたい。

 薬を買いに行かねばなるまいが、そんな元気は無かった。其れどころか銭も大して無いのだ。仕事をせねば薬も買えぬ。

 原稿と鉛筆を持って来て、布団に籠りながらもぞもぞと書く。そうしてちびちびちと執筆を進めていたら、昼前に玄関から声がした。声に聞き覚えがある。


「御免下さァい」


 薬売りの声だった。若しや、おきぐすりを持って来て呉れたのか。渡りに船である。嗄れた喉で返事をしつつ、慌てて羽織を一枚着こんで玄関へ向かう。

 足許が若干覚束無い。存外熱が高いのだろうか。

 玄関に居たのは矢張り薬売りだった。相も変わらず狭そうに身を屈めている。

 其の隣に、私より頭一つ分背の低い少年らしき人物が居た。気弱そうな太い眉が特徴的で、薬売りと似た様な恰好をしている。

 対応に出て来た私を見て、薬売りは目を見開いた。慌てた様に私に視線を合わせる。横の少年も心配そうに私の傍らにやって来た。


「ありゃあ、若しや風邪を引いて仕舞われたんで。ちょいと失礼――…うわ、熱すぎませんか」


「うぅん、此のざまだ…」


 私の額に手を当てた薬売りは吃驚した様子だった。途轍もなく辛いが余り自覚が無い。


「嗚呼…耳の後ろも腫れちまってらァ…こりゃいけねェ」


 薬売りは風呂敷を降ろすと、木箱らしきものを取り出し上がり框に置いた。其処には『家庭薬』と大きな文字で記されている。


「此れがおきぐすり、か…んぐっ」


 言い切ろうとした辺りで喉が引っかかった。咳払いをすると喉元に痛みが奔る。


「ヘイ、そうでさ。…旦那、ちょいとお邪魔しても構いませんか?」


「あぁ、構わないが。…頭に気を付けてくれ、ぶつけて仕舞うぞ」


 慣れてますんで、と言うが早いが薬売りは草履を脱ぎ出した。ホラお前も手伝いな、と少年も急かす。彼は一言も喋らず大人しく従っていた。


「アセビ、お前は木箱を運びな」


「はい」


 肩を支えられながら布団へと戻される。木箱は重そうだったが、アセビと呼ばれた少年は全く辛そうな様子は無い。存外力持ちなのやも知れぬ。


「話がちと長くなりますんで、すいません上がらせて頂いて」


 横に改まって正座した二人が居る。そう言えばと思い出す。

 確か、次来る時にやらかした犯人を連れて来ると言っていた様な。

 …では此の、少年が?

 薬売りは横の少年をホラ、と小突いた。

 隣で控えていた彼は、おずおずと手を付いて頭を下げる。


「ええと、其の、御迷惑をお掛けして…も、申し訳ありませんでした」


「嗚呼、いや其の。あ、あれかい…此の間の件かい」


 一回り以上年下の少年にそんな事をされたのは初めてである。何とも居心地が悪い。


「ヘイ、そうです。此奴ァまだ若輩者なんですが、如何にもそそっかしくていけねェ」


 アセビと申します、と少年は泣きそうな顔で告げた。私は慌てた。まるで虐めているみたいではないか。


「や、本当に気にしてはいないのだ。だから、赦してやって呉れないか」


 そう言うと薬売りは安心した顔をする。アセビはふるふると肩を震わせていた。涙を瞳一杯に溜めている。何だか可哀相になってしまった。

 元はと言えば彼の所為なのだろうが、好奇心に負けて見知らぬ小径に入ってしまった私もいけないのだ。

 風邪をこじらせたのも、体調管理を怠った自分の責任である。


「イヤァ、旦那はそう言って頂けるとは思っていましたが…。本当に申し訳ねェ、御詫びに薬は沢山詰めて来たんで」


「助かる。其の、風邪に聞く薬は有るかい」


 其れなら此奴でさァ、と薬売りは木箱から小瓶を一つ取り出した。折り畳まれた懐紙が、中に詰め込まれている。


「葛根です。葛の根を乾燥させた奴ですが…解熱と鎮痛作用があります」


 今飲みますか、と訊かれ私は頷いた。取り敢えず効く物は摂取しておきたい。


「じゃあちょいと湯を沸かさせて貰いましょう、台所をお借りします」


 薬売りはアセビを台所に向かわせた。幸いにも薬缶は目立つ場所に置いている。物の場所に迷う事は無いだろう。

 落ち着かずにそわそわしていた少年は、役割を与えられて寧ろ安心した様子だった。ぱたぱたと早足で部屋を去る。

 其の様子を目で追っていたが、やがてはぁと溜息を吐いて薬売りは此方に向き直った。


「助かります、渡会の旦那。あいつァ、あっしの弟でしてね…ドジを踏みがちですが可愛くて仕方がねェんでさ」


「そう、なのか」


 外見は余り似ていない。顔に出ていたのか、父親が違うんでと、いとも簡単に答えられた。

 何だか、複雑な家庭の事情を垣間見てしまった気もする。


「そ、そうなのか。…母上は御達者か?」


「あっしの小せェ頃に出奔いたしました。ま、良くある話でさ」


 薬売りは事も無げであった。身の上話を聞いてしまうとついつい同情して仕舞う。しかし如何返すべきか迷い、結局ははぁと何とも言えない返事を返す。

 と、其処で目の前の青年が何だか迷う様子である事に気付いた。厳つい身体を縮め、首を捻っている。


「何だ、薬売り」


「嗚呼いえ…うーん、話しちまうか。其の、旦那に万が一赦していただけねェ時の備えとして黙っていたんですが」


「? あぁ」


 何だろうか。別段彼に対して弱みを抱えているつもりは無いのだが。


「以前、真冬の川に落っこちたと仰っていたでしょう」


「そうだな、言った」


 情けない失敗談の一つである。此れで危うく死にかけたので失敗談どころの話では無いが。


「あれですね…旦那抱えてて思い出したんですが。助けたの、多分あっしです」


「そ――そうなのか⁉ うぐっ、ゲホッ、ゴホッ」


 つい大きな声を上げて仕舞い噎せた。喉が痛い。

 慌てた薬売りが背中を摩る。


「お、落ち着いて。落ち着いて下せェ」


「ケホ…、つ、つまりあれじゃないか。私はお前さんに二回、命を救われている事に、ならないか」


「まァそうなんですが…其の、こう言うのは返礼だの何だの続けると複雑になっちまうんで」


 此れでちゃらにしましょ、と薬売りは笑った。何とも人好きのする笑みである。

 果たして御相こになるかは怪しいが、当人がちゃらにしたいと述べているのでもう其れで良いのやも知れぬ。

 抑々今の私は熱で余り頭が回らないのだ。体調からして考え事に向いていない。


「わ、分かった。御相こにして仕舞うか…お前さんも人が善いなぁ」


 そう呟くと、旦那には敵いませんと返された。私も人が善過ぎるとは散々言われる。しかし持って生まれた気質なので如何ともし難い。

 と、其処で玄関からおかみさんの呼び声がした。返事をしたいが喉の痛みで大きな声が出せない。

 見兼ねて薬売りが応対に行った。あれま、と驚いた様なおかみさんの声。其れはそうやも知れぬ。薬売りは背も高いし横幅もある。羆の如き体格なのだ。

 曖昧な話し声を聞きつつ、一人になったのでぼんやりと隣の座敷を眺める。縁側に置いた睡蓮鉢がちらりと見えた。水は昨日替えたので問題はあるまい。

 そう言えば、如何やって薬売りは私を助けたのだろうか。真冬の川は途轍もなく冷たい。まさか泳いだのか。身体が上手く動かせなくなる程の、寒さだったのだが。

 戻って来た薬売りに尋ねると、アァ泳ぎましたとあっさり答えた。何と本当に泳いだのか。


「本当か。水はかなり冷たかったが…君は随分と頑丈なのだな」


「あっしは獺の血が少ォし入ってるんで。泳ぎは達者なんでさ」


「か、」


 獺。あれか、水場に棲む細長い獣の。

 目の前の青年は、何処から如何見ても大きいだけの只人なのだが…。


「母方の祖母がですね、獺なんで。おっ母が家を出ちまったのは、其の血が騒いじまったんでしょうねェ」


「く、苦労しているなぁ、お前さんも…」


 思っていた三倍は複雑な家庭事情だった。そんな事を話していたらアセビが戻って来た。お湯の入った湯呑を盆に載せて居る。家主である筈が、そんな盆があった事すら初めて知った。

 薬売りは小瓶から懐紙を一つ取り出した。其れを湯呑と共に渡される。


「一日三回が目途です。其れ以上は飲んじゃァいけません、薬も飲みすぎたら毒ですから」


「分かった」


 粉をお湯で流し込む。かなり苦い。ただ、入院していた身なので此の苦さは嫌いでは無かった。良薬は口に苦し、である。

 さて、と薬売りは立ち上がった。湯呑を片付けて再度戻って来たアセビの頭をぽん、と撫でる。少年は些か擽ったそうであった。仲は良いのだろう。


「そんじゃあ、療養の邪魔になるんであっし等は此れで失礼します。薬の補充にはまた来ますんで、其の時にお代を頂ければ」


「あ、有難う、御座いました」


「あぁ、達者でな」


 ぎこちなく一礼するアセビに笑い掛ける。何とも初々しい。

 其の儘座敷の奥へと進みかけた薬売りが、一度此方へと顔を覗かせた。


「嗚呼そうです、隣の奥方に旦那の不調をお伝えしたんで。何かあったら其方を直ぐに頼って下せェ、夜でも応対して呉れるそうでさ」


「そうか。重ね重ね済まんな…分かった」


 甲斐甲斐しい男である。こういう気配りが商売人としては重要なのか。

 今度こそ薬売り達は去って行った。屋敷がしん、と静まり返る。

 俄かに寂しさが湧き上がったが、大人しく羽織を脱いで布団に包まった。

 しかし空腹で寝付けない。熱があろうと頭が痛かろうと、胃袋には関係が無いらしい。

 ぐぅぐぅと鳴る腹と戦っていると、其処で救いの手が差し伸べられた。おかみさんである。

 何と卵粥を作って呉れていた。這う這うの体で応対に出たら、土鍋を抱えていたのだ。

 お大事に、其れから此れもと葛粉も呉れた。至れり尽くせりである。


「明日また様子見に来ますんで、治らないようでしたら御医者様を呼びますね」


「助かります、忝ない」


「あらやだ、困った時にはお互い様ですよ」


 ころころと笑うおかみさんは、菩薩の如き神々しさであった。恩を受けっぱなしである。

 卵粥を啜ると、仄かな出汁の香りがした。塩が少し効いているが、塩っぱすぎる事は無い。崩れた卵がまた美味い。粥なので喉にも引っ掛からず、するする食える。

 味が判る症状で良かった、食の楽しみすら奪われたら悲しすぎる。

 食欲はちゃんとあったらしく、半分は食べれた。残りは夜に有り難く食べさせて貰おう。


「ふあぁ…」


 腹が満たされたら眠気が出て来た。台所に土鍋を移し、布団にまた包まる。汗は出ているが寒い。頭はずっと痛い。しかし寝れそうである。寝なければ治りはすまい。

 心細さを感じつつも、眠りの世界へと旅立って行った。

 しかし体調が芳しく無かった所為か、変な夢を見た。

 郷里に居た頃の夢だった。あの頃、近所に同い年の子どもが居なかった。兄は兄で山二つ越えた学校に通っていたので、自然と昼間は孤独になる。養蚕の手伝いを偶にしつつ、家の近くか近所の山で一人遊んでいた。縦しんば手伝いをしても、桑の葉を摘んで与えてやるぐらいが精々だったが。

 適当な草を千切って、笛にして吹き鳴らしながらうろつく。目的が有った訳でも無く、ただ暇を持て余していた。大きな古い木を通り過ぎた辺りだった。ふと、鈴に似た音がした。


―からん


 聞いた事の無い音に驚き、私は周囲を見回す。何処にも件の音の正体は見受けられない。

 気の所為かとまた草笛を吹こうとしたら、ふと視界に影が射す。誰かが背後に居る。母だろうか、父だろうか。

 …でも、黙って彼等が後ろに立ったりするだろうか?


―ころん


 振り返る。逆光で視えないが、大きな影。大人の影。

 手が。伸ばされて。


「渡会」


 不意に小さく名前を呼ばれた。聞き馴染みのある声。

 曖昧な眠りからあっと言う間に呼び戻される。目を開けると、室内は暗くなって来ていた。夕暮れ時らしい、座敷は赤く染まっている。

 其の昏い光を背景にして、江ノ本が此方を覗き込んでいた。見慣れた小袖と袴の柄。

 頭が酷く痛い。耳の奥で、早鐘の様に何かが脈打っている。江ノ本、と呼んだ私の声は驚く程掠れていた。

 

「…体調がすぐれないのか」


 表情が見え辛いが――心配されている気がする。


「顔が真っ赤だぞ」


 其れは、夕暮れの所為では無いのか。いや、顔が火照っている感覚はある。熱い。

 喉が痛んで、上手く喋れない。仕方が無いので、ただ頷く。

 江ノ本は此方に手を伸ばそうとして…寸での処で止めた。其れは虚空を泳ぎ、所在無げに畳を撫でる。


「以前、泥だらけで籐椅子で寝こけていただろう。其の所為だな」


 苦笑交じりの声が耳を擽る。

 嗚呼、矢張りあの時江ノ本が来ていたらしい。

 影法師はきょろきょろと周囲を見回すと、片膝を立てる。


「日を改めよう、また来――」


 行ってしまう。待ってくれ。

 咄嗟に、私は江ノ本の手を掴んだ。冷たい、ひんやりとした感触。浮き出た血管も、節だった指も、爪の硬さすらも判る。だが、彼の掌は柔らかい。

 柔らかいのに、生者に在るべき温もりが無い。

 掴まれた当人は、思いっきり固まった。硬直した儘、視線だけを此方に向ける。

 其処には困惑が見て取れた。


「い、行くな」


 嗄れた声で、漸く其れだけ言えた。

 身体が弱ると心も酷く弱る。正直、今独りにして欲しくない。余りにも心細い。

 夕暮れの物悲しい赤が、より寂寞を増す。


「…何だ、寂しいのか」


 揶揄い交じりの声音だったが、私が素直に頷くと江ノ本は黙り込んだ。日が落ちて来て、顔の表情すら判然としない。

 真っ暗な輪郭の向こうで、彼は迷っている風だった。


「傍にいた方が、良いか?」


 首肯する代わりに、手をより強く握る。私の手は恐らく、相当熱いだろう。

 参ったな、とぼやいた彼は天井を仰いだ。半端に立ち上がろうとしていた腰を下ろす。


「…忙しい、のか?」


 汗が目に入って染みる。行って欲しくはない。しかし、如何しても無理を言って引き留めるのも良心が咎める。

 せめてもの見栄でそう尋ねると、江ノ本はそうでもないさと答えた。ほっとする。


「傍には居てやるから、もう少し眠れ」


 胡坐を掻いて落ち着いた江ノ本が、此方に身を屈めた。視界が真っ暗になる。此れまでのどれよりも、距離が近い。

 何をするのかと思ったら、額に手を置かれた。ひんやりとした感触。氷嚢の代わりなのだろうか。

 額も汗まみれの筈なのだが、気にする様子も無い。

 気持ち悪くは無いだろうか、と思いはしたものの温度の無い優しさについ甘えて仕舞う。

 心地良い、と呟くと笑い交じりのそうかと言う声が降って来る。喉を鳴らして笑う声。彼のよくする笑い方だった。

 頭痛が和らぎ、私はまた眠りへと誘われる。


『とういちろ、川さあべ』


『うん』


 また、磐城の頃の夢を見た。今度は幼少期の江ノ本と一緒に遊ぶ夢だった。

 川で水切りをしようと、江ノ本を誘って出掛けた。彼は今よりも遥かに可愛らしい少年だったが、利発で少し無口でもあった。つまり今の彼の片鱗は、此の時点で有ったとも言える。

 初めて出来た同年代の友達だったので、江ノ本が滞在中の私のはしゃぎ様は其れはもう凄かった。毎日暇を見ては彼を誘い、色んな所で遊んだ。

 私の故郷の言葉はかなり訛りが強いものだったが、江ノ本は気になる科白回しや判らない言葉は逐一聞いては覚えようとしていた。

 替わりに、私に自分の故郷の言葉や文字を教えてくれた。江ノ本もまだ学校に行くような年齢では無かったが、父親――…私の恩師の影響なのか既に簡単な漢字ならば読み書きが出来る様であった。私はそんな彼を素直に尊敬していたので、仲は非常に良好だった。


『嗚呼、いだましねぇ』


 彼の投げた石が向こう岸にぎりぎり届かなかったのを見て、私がそう呟いた。横に居た彼は、腕を振り切った格好の儘首を傾げる。


『いだましね…惜しい、だっけ?』


『んだ。いだましねぇ、次は行げっど』


 私も石を投げる。水切りに関しては私が一枚上手である。いとも簡単に、向こう岸まで石は水の上を撥ねて行った。


『むむ…』


 彼は存外負けず嫌いでもあった。ちょっと顔がムキになっている。私は微笑ましくなって、彼を応援した。


『とういちろ、けっぱれ!』


 次に彼が投げた一投は、今度は七度程水の上を撥ねて向こう岸まで飛んで行った。


『わ!』


『やったぁ!』


 子どもらしくはしゃぐ彼に、私も嬉しくなったのを覚えている。其れから何度も何度も水切りをして、昼になるまで遊んでいた。

 懐かしい。こうやって、二人で出来る遊びを彼と沢山やった。

 地面に落書きをしたり、笹で舟を作って競争したり。友達と遊ぶ事が楽しい事を、初めて知った。

 …いや、初めて?

 ふと、疑問が浮かんだ。何かが違う気もする。初めてだったろうか。誰かと遊んだのは。

 其の疑問を払拭する為に、記憶を手繰ろうとしたが――其処でまた目が覚めた。

 喉が渇いている。室内が少し明るい。洋燈を持って来たらしい。

 うっすらと目を開けると、直ぐ近くで江ノ本が本を読んでいた。表紙の色味に覚えが有る。彼の私室に在った物だ。

 手を伸ばせば届く距離に居る為か、何だか安心する。身動ぎした私に気付き、彼は其れから目を離した。


「目が覚めたか。今は宵の頃合いだ」


 水の入った湯呑を差し出され、半身を起こして私は其れを受け取る。頭痛は大分収まっていた。どれ程氷嚢の代わりをしてくれていたのかは判らないが、江ノ本のお陰の気もする。喉を潤すと、少しだけ痛みが薄らいだ。


「…まだ顔は赤いな。腹は空いたか?」


 空いた気もする。大人しく頷くと、彼は立ち上がった。


「確か、粥の残りが有ったな。温めて来る」


 台所へ音も無く去って行く背中を見届け、私も厠に行きたくなり立ち上がる。歩行すると少しふらつくが、問題は無さそうだった。幾分か熱は下がったらしい。

 用を済ませて戻りがてら、不意にぽつぽつと屋根を叩く雨粒の音が耳に入った。軒先から雫が垂れる音が、琴の如く響いている。

 小雨が降っているらしい。ジローは大丈夫だろうか、とふと思う。雨に濡れて、私の様に体調を崩していないだろうか。

 …嗚呼、江ノ本に謝らねばならないやも知れぬ。

 何せ彼はジローを気に入っていたのだ。名付けたのも、此の家に住まわせたいと提案したのも彼である。

 粥を持ってきてくれた江ノ本に開口一番謝ると、怪訝な顔をされた。


「…江ノ本、其の。お前に謝ればならん事がある」


「何だ藪から棒に」


 面食らった彼に食べながら仔細を話すと、嗚呼其れかと呟いた。


「知っていたのか」


「ウワミズザクラが話していた」


 何だと。懸想されている筈の私ですら、話した事が無いと言うのに。


「逗留が長すぎてお前が落ち着かないと愚痴られたから、先日諏訪まで足を伸ばしてみた」


「そ、そうだったのか」


 まさか植物にまで心配されているとは毛ほども思っておらず、今度は私が困惑する。そんなに分かり易かったのだろうか。


「如何にもジローに助けられた河童は、態々生まれ故郷まで運んで呉れた事を大層恩に着ているらしい。嫁に来たいと熱心に彼奴を説得していた」


「な、いや、そ、其れは困る。おかみさんが世話をして呉れるから助かっているが、河童まで相手にして貰うのは面目が無さ過ぎるぞ」


 慌ててそう言うと、分かっているさと江ノ本はにやりと笑う。


「安心しろ、其の縁談は障りが有る。成就はせんよ、現にジローは俺が帰る時に諏訪を一匹で発って行ったからな」


「ほ、本当か。良かった…ジローは息災だったか?」


 あぁ、と頷く江ノ本にほっとする。ジローは怪我もしておらず、無事に諏訪まで河童を送り届けられたらしい。

 急がなくても良いから、ゆっくりと帰って来て欲しい。心の底からそう思った。


「そう言えば、江ノ本」


 桶に湯を溜めて来て貰い、身体を拭いた。此れだけでも大分さっぱりはする。髪は相変わらずべたついていたが、流石に洗髪は出来ない。

 新しい寝間着に着替えつつ、座敷に移動してそっぽを向いている彼に其れと無く尋ねてみた。


「何だ」


「屋敷に帰って来る様になったのは、前からなのか?」


 以前、後輩の里中に頼まれた事を思い出したのだ。江ノ本が此処に来る理由を訊いて欲しいと言われていた。

 私としても多少気にはなってはいたが、彼が言わないなら別に良いかと思っていたのである。

 ただ、尋ねた体裁は欲しいので取り敢えず尋ねてみただけだった。


「いや、お前が越して来てからだ。…来ない方が良いか?」


「まさか、私は嬉しいよ。ただ、里中が怖がっていて訊いて欲しいと頼まれたのだ」


 そう返すと、江ノ本はふぅんと如何でも良さそうな返事をした。

 ただ、何だか其の生返事に少し嬉しさが滲んでいる様な気もした。そっぽを向いている為表情は判らないが。

 葛根をまた一つ煎じて布団に収まる。まだ熱はある。大して眠くは無かったが、寝ておくに越した事は無い。

 また傍らに座って、本を読みだした彼を眺める。表表紙には『雨月物語』と記されている。全五巻から成る上田秋成によって著された読み本の一つで、私も読んだ事が有った。

 しかしこう言った怪異が中心の読み本を彼が好むとは思えず、意外な気持ちになる。


「江ノ本、お前はこう言う本も好んでいたのか」


 彼の死後の方が、新しい発見が多い。


「いや、元々こう言った本は好まんが…。渡会、お前が昔面白い面白いと此れを読み漁っていただろう」


「あぁ、物語が有る本は面白くて好きだ」


 ぱたりと本を閉じると、江ノ本は此方を向く。


「…そんなに面白いのかと、俺も購入して其の儘だった。丁度良いから今読んでいる」


 嗚呼、そうだったのか。中々如何して、江ノ本もいじらしい処が有る。

 何だか面白くてへぇとにやついていたら、ほら病人は早く寝ろと頭をもみくちゃに撫でられた。

 まるで子ども扱いの有様だったが、悪くは無い。十歳も年下になってしまった旧友にあやされるように、雨音と頁を捲る音を子守歌にし私はまた眠った。

 今回は、特に夢は見なかった。


―ツツピン、ツツピン


 小鳥の囀りが聞こえる。ヤマガラの鳴き声だろう。雨は止んだのか。

 朝陽が隣の座敷を照らしている。此処の所曇天か雨ばかりだったので、少しばかり眩しい。隣には誰も居ない。

 替わりに雨月物語の全巻が、山積みにされていた。夜の間に全て読み切ったらしい。

 起き上がると、頭痛も寒気も消えていた。喉はまだ痛むが、昨日程の酷さではない。熱は下がった気もする。

 知らない間に舟に乗って戻ったのかと思ったら、椀を持って江ノ本が帰って来た。


「起きたか、如何だ気分は」


「大分…良くなったかな、お前のお陰だ。お前は寝ていないのか?」


「俺はもう、睡眠は必要が無いのだ」


 そうなのか。少々物悲しい気持ちが心の隅に残る。矢張り、彼は死んで仕舞ったのか。

 江ノ本は椀を渡しながら横に座る。受け取って中身を確認すると、葛湯だった。おかみさんが呉れたものだろう。

 葛粉から作った飲み物であり、とろりとした甘さがある。病み上がりの食べ物としては一般的な物だろう。


「有難う。済まんな、大分世話になった」


「本当だよ。まぁ、お前なら構わんさ」


 口を付けると、砂糖の甘さが口腔を満たす。とろりとした液体は、起き抜けの身に丁度良かった。

 息を吹いて冷ましつつ、少しずつ飲む。


「其れを飲み終えたら俺は戻るよ。…そろそろ帰って来るだろうし」


 科白の意味を問おうと思ったら、庭先の方でぶるりと獣が身体を震わせる音がした。正体に見当がつく。

 こけるなよ、と言う江ノ本の忠告を受けつつ椀を置いて慌てて立ち上がった。


「ジロー、おかえり」


 縁側に立つと、薄汚れた虎毛の犬が尻尾を振っていた。私の姿を認めると、嬉しそうにわんと鳴く。


「嗚呼、帰って来たな」


 座敷の辺りで江ノ本が飄々と呟いた。頭を撫でてやると、ぴぃぴぃと鼻を鳴らす。

 心配されている気もする。病の臭いが残っていたのか。


「治りかけだよ、気にしないで呉れ」


 若干痩せている様子の彼に何かやれないか考えたが、思い付くより先におかみさんがジローを呼ぶ声がした。

 其方を気にするジローに行っておいでと言うと、うきうきとした足取りで玉袖垣の向こうへ駆けて行く。

 ジローの帰還を祝って、彼女が何か食べさせて呉れるだろう。大した物が無い我が家よりも、余っ程の御馳走が待っているのではなかろうか。

 よく帰っておいでだねぇ、と言うおかみさんの声を聞きつつ病人は大人しく私室に戻った。

 戻ると、ほら見ろと江ノ本が頬杖を付いていた。彼が何時頃諏訪に行ったのかは判らないが、ジローはかなり急いで呉れたのやも知れぬ。


「小屋を作ってやるべきやもなぁ」


 そう言って葛湯を啜る私に、良いんじゃないかと江ノ本は笑う。


 …もう少し経てば、梅雨が明ける。其れが頃合いだろう。

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