漆話目:セイヨウツツジ

 皐月の半ば頃。ウワミズザクラの下でジローと転寝をしていたら、水の撥ねる音がした。


―パシャン


 存外に大きな音だった所為か、微睡から引き戻される。口から垂れそうになっていた涎を慌てて拭う。

 身動ぎしたからか、私の太腿に顎を乗せてすやすやとしていたジローも起きてしまった。パッと顔を上げる。

 眠そうな顔で耳を忙しなく動かしていたが、身の危険が無さそうだと判断したのかもう一度枕にされた。特に起きるつもりも無いので、其の儘にしてやる。


「…鮎でも跳ねたかね」


 そう小さくぼやいて、池の方角を眺める。座っている為池の中は視えないが、替わりに大きな白い鳥が舞い降りていた。シラサギである。

 最近、よく池に鮎や名も知らない小魚がやって来ているので、彼等を狙っているのかもしれない。黄色いぎょろりとした瞳が、微動だにせず池の中を見据えている。

 うとうとし乍ら、其の様子を観察する。手持無沙汰にジローの頭を撫でてやった。柔らかい毛が指先を滑っていく。

 ふにふにと求肥に似た感触の耳を揉んでやっていると、やっとシラサギが動いた。

 ふ、と黒い嘴の先が池へと傾ぐ。狙いを定める様に顔を前後に動かしたかと思うと――次の瞬間。

 目にも止まらぬ素早さで、池の中へと首を突っ込んだ。同時に、聞き覚えの無い甲高い鳴き声が庭に響く。


―ケーッ!


 大きな声だったからか、ぼんやりとしていた頭が俄かに覚醒した。ジローももう一度顔を上げ、今度は立ち上がる。

 何だ今のは。悲鳴の様ではあったが、人らしき者とは思えない。もっと原始的な生物…そう、猿に近いのだろうか。そんな者の声だった。

 件の悲鳴は、明らかにシラサギの居る辺りから響いた。何か大きな物を捕まえたのだろうか、持ち上げるのに難儀している様でもある。

 四苦八苦していたものの、シラサギは何とか顔を上げた。捕まえた獲物が私にも見える。


「…何だ、ありゃ?」


 黒い嘴には、何か丸い物体が挟まっていた。明らかに魚では無い。

 色は翡翠に近かったが、遠目ではぬらぬらとしている円盤である以外は判別出来ない。とてもじゃないがシラサギが食せる様な物ではないと思うが…。

 如何するつもりなのかと思っていたが、シラサギが其れに何かをするより早く、私の横に居たジローがわんと吠えた。

 鶴の一声ならぬジローの一声だった。

 驚いたのかシラサギは丸い物を嘴から離し、慌ただしく飛び立っていく。が、去るでも無く我が家の屋根に移動しただけであった。シラサギも謎の物体が気になるのやも知れぬ。池と私達を交互に窺っている。

 ジローは伸びを一つすると、爪を鳴らして池へと向かってしまった。私も共寝の相手が消えたので渋々立ち上がる。

 すると、ウワミズザクラが風も無いのにざわりと葉を揺らした。木陰が程良く心地良かったのだが…如何にもウワミズザクラ自身が、枝葉を傾けて呉れていたらしい。何とも甲斐甲斐しい。

 ウワミズザクラは満開の時期も過ぎ、花は殆んど残っていない。此れからは若葉を繁らせ、実を結ぶ流れになるだろう。

 満開になった折にジローと共に密かに花見を改めて行ったが、中々に風雅な時間であったと思う。肴は私が作った握り飯と、お隣のおかみさんが呉れた余りの煮物だったが…あれだけでも宴にはなる。酒が無いのが残念ではあった。

 まぁ其れは、来年の愉しみにするとしよう。


「また来るよ」


 そう言って、幹をぽんぽんと優しく叩いてやった。

 植物の心持ちなんて畜生以上に判らなかったが、一応葉を揺らしたりはしているので感情が有る様には見える。

 私の対応が正しいかは不明だが、喜んでいる風ではある。暫くは此の儘で行こうと思っていた。

 木から離れ、ジローの横に立った。彼は池の中では無く、直ぐ近くの岩の上を見詰めていた。


「ジロー。さっきのは…嗚呼、此れかい?」


 丁度視線の先に件の物体が在った。シラサギが取り落とした際に、岩の上に転がったのだろう。

 近くまで来たので、じっくり観察する。


「こいつぁ、皿かねぇ」


 拾い上げると、陶器に似た冷たく硬い感触がある。しかし、ぬらりとしていて持ち難い。

 縁を覆う様に藻に似た何かが生えており、其れがまたぬらぬらを助長している。何だろうか、皿には似ているがさっぱり判らない。

 ジローに見せてやると、くんくんと臭いを嗅ぐ。


「お前さん、此れが何か判るかい」


 そう訊くと、わんと一声返された。わんでは判らない。しかし自信満々な返答だったので、ジローは皿擬きの正体を知っているらしい。

 此れは餅は餅屋で訊くしかあるまい。だが、私の知り合いで一番其れに詳しい相手は気紛れにしか此処に来ない。仕方がないので、二番目に詳しそうな和尚の許へ往くことにした。皿擬きは懐紙に包んだ。此れで手を滑らせて落とす事も無いだろう。

 玄関を出てふと屋根を仰ぐと、シラサギが恨めしそうに此方を見ていた。赦して欲しい、縦しんば呉れてやったとて食せる物ではない。

 外へ出たらジローも着いて来た。散歩の気分であるのか、わんと吠えて皿擬きをシラサギから奪ってしまった事を気にしているのか。何れかは知らないが、お供に来てくれるのは安心感がある。


「和尚殿に、会いに行こうか」


 のんびりと陽が差す道中を進む。気温も上がってきて、初夏の訪れを徐々に感じ始めていた。柔らかかった草木の新芽達は硬くなり、葉をあちこちに繁らせ始めている。

 此れからは梅雨の時期なので、また気温は下がるだろうが…夏は酷暑に成りそうな予感がする。

 そんな事を考えていたら、あっと言う間に山寺に到着した。今の時間は正午である。

 此の時間帯ならば庫裏に居るだろう。


「御免下さーい」


 そう呼びかけると、裏の辺りからオウ回って来いと和尚の声がした。庭の手入れをしているのだろう。

 庫裏の裏手にある庭は小ぢんまりとしているが、季節の植物が咲き誇り綺麗に手入れがされている。

 男寡であるらしく、裏庭は亡き奥方の遺産であるらしい。べらんめぇな印象だが、彼は存外に愛情深い。

 案の定、和尚は裏庭の手入れをしていた。セイヨウツツジの世話をしていたらしい。沓脱石の上では、山寺に棲み付いているらしい三毛猫が丸まって眠っていた。

 此の猫、幾つなのかは知らないがやけに肝が太い。見知らぬ人間が近付いても構わず眠っている事が多い。ジローすら歯牙にもかけないので相当である。

 其れにしても、セイヨウツツジが美しい。鮮やかな赤紫に薄い桃色と色彩は様々で、水やりをして貰ったのか水滴が陽光に反射して輝いている。宝石を身に纏う、美女の如き麗しさである。

 我が家の庭は繁栄に任せるがままにしているので何処か煩雑としているのだが…――矢張り頻繁に世話をしてやる方が庭の見栄えは良くなる。

 ウワミズザクラと言う懸想してくれている相手も居る事だし、私も庭の手入れぐらいはすべきなのだろうか。


「オウ、渡会さんとジローじゃないか。何か困り事か」


 鋏を地面に置いて、和尚が近付いて来た。察しが良い。顔に出ていたのやもしれぬ。


「こんにちは、和尚殿。いや、実はですね、妙な拾い物をしまして」


 懐紙に包まれた皿擬きを見せる。すると、和尚は一目見て正体を言い当てた。


「む、こいつァ河童の皿じゃないか。お前さん如何したんだ、此れは」


「か…河童の皿、ですか。初めて見ました」


 掻い摘んで先程の展開を説明する。説明する合間に、懐紙から出した其れを繁々と和尚と共に眺める。

 矢張りぬらぬらとしている。此れが河童の皿なのか。

 話を聞き終えた和尚は、ははぁと言って苦笑した。呆れが含まれている。


「此いつぁ、諏訪に在る湖の生まれの河童じゃ。流れて来たんだろうな。しかし、シラサギに啄まれて皿に成るとは…些か情けない奴だ」


「何ですか、つまりこやつは鳥に負けたのですか」


「そうじゃ。大方揶揄うつもりだったのだろうが…相手が一枚上手だったようだな」


 和尚の言う通りだとすれば、情けない事この上ない。しかし災難ではある。


「つまり此れは、落とし物と言う事でしょうか。我が家で預かっておくべきかな」


「いや、河童は皿こそが本体なのだ。旱魃が起きた際に此の姿を見る事も出来るが…。啄まれて驚いて、うっかり皿に戻ってしまったのだろうよ」


「ははぁ、変わった奴等ですねえ」


 河童なんて書籍か昔話でしか聞いた事が無い。皿の付いた人みたいな妖怪だとしか知らないので、たまさかそんな生態だとは。不思議な生物も居るものだ。

 だが、此れが河童の素だとして如何してやれば良いだろうか。我が家の池には件のシラサギが居る。池に戻しでもしたら、また諍いが起きて負けてしまうかもしれない。


「後生の悪い事はしたくない、如何すれば良いでしょうか」


「疎水に流すのは…拙いか。あれはあれで流れが速いからなぁ」


 顎を擦りつつ思案していた和尚は、其処でジローを呼んだ。ジローは出番が来る事を察していたらしい。得意そうに尻尾を振っている。


「ジロー、お前さんの出番だな。ご苦労だが、此奴を諏訪の湖がある村まで送って往ってやれ」


 そう言うと、木綿の風呂敷に皿を包んでジローの首に掛けてやった。


「良いか、此の山をずっと登って尾根伝いに進むのだ。山が多いが、何れかの水場に行けば河童が居ろう。お前さんならば河童も事情を汲んで助けてくれる」


 此れは暫しの別れになりそうである。息災である事を祈る為に、和尚の話を聞いている彼の背中を撫でてやる。


「そうすれば、山の裾野にある諏訪湖に辿り着こう。生まれ故郷に着けば戻り方も思い出すであろう。じゃァ、頼むぞ」


 其処まで聴くと、ジローは了解したかの様にわんと吠えた。次いで私を見て、少々申し訳なさそうな顔をする。

 私が暫く独りになる事を心配している気がする。犬に心配されるとは。私も私で情けない。


「往っておいで、ジロー」


 明るく送り出してやると、漸く彼は山に向かって走り出した。やがて足音も聞こえなくなる。


「往ったようだな」


「往ってしまいました」


 確認する様にそう言い合うと、和尚はよいしょと伸びをした。腰を叩いている。


「儂もちィと休憩するか…。あっ、こらタマや!」


 独り言ちていた和尚が不意に叫んだ。見ると、沓脱石で寝ていた三毛猫が起き上がっていた。

 そして何かを咥えている。小さな箱の様ではあるが…あれはもしや紙煙草の箱だろうか。


「お前、そんな物咥えて如何するんだ。食い物では…嗚呼」


 慌てて止めようとする和尚の努力も虚しく、三毛猫は箱を咥えて疾風の如く駆けて行ってしまった。あれは私でも捕まえきれない。


「追いかけますか?」


「いやァ、あれは追えんよ。…まァ、あいつは見掛けに寄らず賢い。間違うて喰うたりはせんだろうが…困ったな」


 和尚は愛煙家でもある。休憩ついでに煙草を喫むつもりだったのだろう。


「新しいのは無いので?」


「無いなァ…仕方が無い。今日は喫まんでも良いか」


 折角だし、休憩ついでに碁打ちでもしないかと気を取り直す様に言われた。礼も兼ねて付き合う事にする。

 が、矢張り負けた。煙草が無くとも和尚は強い。しかし、煙草を盗られてしょげていた彼の機嫌は直った様だったので良しとする。

 山寺から我が家への帰路、何とはなしに隣に何も居ない事に違和感を覚えていた。出会って其処までの付き合いでは無いが、知らない内にジローは私の生活の一部になっていたらしい。

 そうか、私は寂しさを覚えているのか。気付く。気付くが、如何ともし難い。

 考え事をしている内に、家に帰り着いた。屋根の上を見たら、シラサギは居なくなっていた。庭を覗いてみても居ない。

 さては何処ぞに去ったのかと思っていたが、座敷の掛け軸を見たらホテイアオイの群生の中にシラサギが佇んでいた。じっと見てみると、一度だけ此方に視線を寄越される。同じ奴だろうか。

 ふと気づいて、先日購入した睡蓮鉢を確認しに行った。此れには、ショウブの花とシラサギが描かれていた筈である。

 案の定と言うか、鉢のシラサギは不在だった。さては同じ景色に飽きて、散歩でもしているのか。もう一度掛け軸を見たが、絵の中のシラサギは知らんぷりを決め込んでいる。小憎たらしい澄まし顔である。

 まぁ良いか、特に害は無いのだし。

 本物のホテイアオイの小さな浮草は、急な引っ越しにも堪える事なく鉢の中でぷかぷかと浮いていた。此のまま育って呉れれば嬉しくはある。花の時期は夏らしいので、楽しみにしている。薄紫の美しい花を、実際に拝んでみたい。


「うーむ」


 さて、何をするべきか。仕事になるものは今手元にない。端的に言えば暇である。だからこそ、昼寝と決め込んでいたのだが。


―パシャン


 また水音がした。池の方からである。

 今度こそ鮎だった。何匹か涼しげに池の中を泳ぎ回っている。


「嗚呼、そう言えば…夕飯を決めていないなぁ」


 夕飯のおかずが何も無い事を思い出した。お隣のおかみさんはジローを好いているので、頻繁に余ったおかずをお裾分けして呉れる。しかし常に貰う前提で生活するのは宜しく無い。

 此処は一つ釣りでもして、夕飯を確保するとしよう。幸いにも、先日里中が購入して我が家に置いていった竹製の釣竿が有った。

 里中曰く、此処でしか釣りをする気が無いらしい。先輩も使って下さいよと言っていたので、有難く恩恵に預かる事にする。

 何か由来がある物らしいが、特に銘は無い。餌要らずでよく釣れるらしいですよぉ、と彼は言っていたが…。

 木桶に水を溜め、縁側から竿を池に降ろす。餌も要らないとは信じ難い。

 しかし、そんな私の疑念を振り払うかの様にすぐさま竿に食い付きがあった。引き寄せると大ぶりな鮎が掛かっていた。何と。

 私に釣りの才覚は無い。つまりこの竿が凄いのである。

 あっと言う間に四匹の鮎が木桶に収まった。優雅に泳ぐ彼等を見て、もう一度釣竿を見る。


「や、此れは…凄い、凄いが…」


 此れは、私だけで使って良いのだろうか?

 実際に購入したのは里中である。何やらとんでもない通力を、此の竿は持っているのではなかろうか。

 当の本人は睡蓮鉢にホテイアオイを移したのを確認したら、竿を置いて帰って仕舞った。つまり彼はまだ使っていない。

 私だけが使い続けて何時しか恩恵が消えてしまったら、里中はがっかりするのでは…?

 そう思い、私は四匹に留めた。今日の分であれば二匹で事足りる。明日の分とするか、逃がすかは考えておこう。

 取り敢えず、食べる為には内臓を取り出して捌いておく必要がある。竿は廊下の邪魔にならない位置に戻しておいた。後で磨くべきやも知れぬ。里中が此処で釣りをするまでは、力を残しておいて欲しい。

 台所に行って捌く為の準備をして、再び縁側に戻る。戻り際にちらりと掛け軸を見たら、何時の間にかシラサギは居なくなっていた。

 更に遠出したのかと思えば、睡蓮鉢にしれっと戻っている。矢張り、我が家が一番安心するのか。

 そう眺めながらしみじみと考えていたら、玄関から声を掛けられた。


「もうし」


 若干無理な体勢で鉢のシラサギと睨めっこをしていた私は、慌てて座り直した。見れば橙色の袷を着た男性が、玄関の方角から此方を眺めていた。

 顔に覚えが無い。ほっそりとした優男風で、若々しい顔立ちの割に毛髪には所々白い物が垣間見える。

 覚えのない其の人は、いきなり庭に上がり込むと深刻そうな顔で私の横に座った。右から睡蓮鉢、私、木桶、謎の男と言う構図である。


「渡会殿、お主に相談がある」


 そう切り出され、私は困った。何せ見知らぬ人物からの唐突な相談である。だが、彼の科白は私が知り合いである前提で話している呈である。記憶には無い筈だが、知り合いなのだろうか。

 何だか無下に追い返すのも悪い気になる深刻さだったので、大人しく相談事を聴いてやる事にした。


「何だね、私で役に立つことかい」


「他ならぬ、人である貴殿に訊くしかあるまい。某には人の事情等さっぱり判らぬ故」


 成程人では無いらしい。まぁ、鶯だって人に化けるのだ。得体は知れないが脅威は感じないので、詳しくは追及しない儘にした。

 彼は溜息を吐きながら、懐から何やら取り出した。紙の箱である。色味に覚えがある。

 此れは――…和尚殿が愛煙している、紙煙草の箱と同じ銘柄ではなかろうか。


「某の知り合いがな、此れが大好物なのだ。暇さえあれば、火をつけて煙を喫んでいる」


「あぁ、煙草だね。好きな人は好きだなぁ、私はさっぱりだが」


 肺を患った経験上、私は煙草を好んでいない。知り合いが喫む分には構わないが、自分で楽しもうとすると如何しても酷く噎せる。


「そうなのか。人も全てが此れを好きでは無いのか…渡会殿、つかぬ事を尋ねるが」


「あぁ」


 質問を待ちながら彼の横顔を見る。彼は池で泳ぐ鮎を目で追っていた。其の瞳が、人の物ではない事に気付く。瞳孔が縦に長すぎるのだ。

 そう、まるで。まるで、猫に似た瞳であった。


「此奴の煙、某からすれば厭な臭いがするのだ。…煙草とやらは、身体に良くないのではないのか?」


「煙草がかね。嗚呼、確かに病を為すとか、習うと癖になって歯止めが効かなくなるとか聞いたなぁ」


 貝原益軒の書いた”養生訓”にも、そんな旨が記されていた様な。瀬野屋を訪れる人等もそんな事を喋っていた。

 そう言うと、謎の男は此方にがばりと身を乗り出した。二枚目の整った顔が目の前に迫り、私は思わず身を逸らす。顔が近い。


「わわ」


「む、や、矢張りそうなのか。此奴は身体に良くないのだな!」


「そ、そうだ。御仁、御仁ちょいと顔が近すぎる」


 や、あい済まぬと男は元の位置に座り直した。手元の煙草の箱を見詰める顔は、さっぱり晴れない。


「…某は、某はだな。余り此れを喫んで欲しくないのだ。此処最近数が多くて心配になる」


「成程…つまり、煙草の頻度を下げて欲しいのかね?」


 彼はこくりと頷いた。そうだと言わんばかりに、膝をぽんと打つ。


「某と知り合いは長い付き合いだが、今更言い出すのも気恥ずかしいのだ。あれも私の近くでは喫まないし。…故に、今回は無理矢理搔っ攫ってしまったが」


 何だか、知り合いの身近に起こった出来事を思い出す。此の同じ煙草を好んでいる和尚も、山寺に棲み付く猫に煙草の箱を盗られていた様な。

 …おや?

 何かに引っ掛かった私が更に追及する前に、玄関からお隣のおかみさんの呼び声がした。


「渡会さーん」


 そう呼ばれ、はぁいと返し男の方に視線を戻したが――…彼の姿が無い。煙の様に消えてしまっている。代わりに、男が座っていた辺りには三色の獣の毛が落ちていた。白、黒、茶色とばらばらに散っている。其れは風に吹かれ、ふわりと空中に四散していった。


「おや?」


 周囲を見渡しはしたものの、件の姿は無い。もう一度おかみさんに呼ばれたので、諦めて其方の応対に向かった。

 おかみさんも何だか深刻そうな顔をしていた。如何やら、遠出した先の山裾でジローらしき姿を見たらしい。

 帰って来たら我が家に彼の気配が無いので、心配になったのだろう。仔細を話すと納得した風だった。


「よくある事ですねぇ」


 真面目な顔で頷くと、おかみさんは帰って行った。

 今日は客が多いなぁと呑気に縁側まで戻ると、男の代わりに見知った三毛猫が畏まっていた。何だか居心地が悪そうである。見れば直ぐ横には煙草の箱。

 此れは朴念仁の私でも理解が出来た。つまりは、そう言う事か。


「なぁ、タマよ」


 しゃがんで目線を合わせそう呼びかけると、そっと三毛猫は顔を上げた。猫に表情があるのかは知らないが、何だかしょげ込んでいる様でもある。

 お前さんも和尚も悪くはない。和尚も気を遣ってはいるのだ。彼だって、和尚の事が心配になっただけだ。


「此の儘では、帰りづらいかい」


 問い掛けると、小さな声でにゃあと鳴いた。人の言葉が分かっている風である。いや、分かっているのだろう。何せ人にも化けれるのだから。

 和尚は懐が深い。確実に怒ってはいないだろうが…気不味い事は気不味いか。

 木桶の中の鮎を見る。二匹は余る。


「ちょっと待ってなさい、直ぐに戻るから」


 そう言い含め、私は木桶を抱えて台所に向かった。納戸を引っ掻き回したら、丁度良い大きさの魚籠が有った。此れなら猫でも咥えて帰れそうではある。

 鮎を二匹絞めてやり、魚籠に入れる。続けて手頃な紙に書置きをした。


『同居猫殿が煙草の相談に来られました。折角なので一緒にお食べ下さい 渡会』


 其れを畳んで共に入れ、タマの許へ戻って来た。言いつけ通り、彼は大人しく待って呉れている。

 落ち込んでいる猫の前に魚籠を置くと、首を傾げて此方を見た。


「ほれ、鮎だよ。お土産にしなさい、此れで仲直りをし。…タマや、此ればっかりは和尚と話し合わねばならぬ」


 戻ったら、気恥ずかしくとも気持ちを伝えてやりなさい。そう言うと、猫は居住まいを正した。続けてにゃあ、と鳴く。

 多分、感謝の意だろう。じゃあねと告げて、自分の鮎を捌きに戻った。私が居ない方が帰りやすかろう。

 捌き終えて余った内臓をウワミズザクラの根方に埋めてやりに行ったら、彼の姿は何処にも無かった。少しだけ、安堵する。

 独りっきりの家で、塩を振って焼いた鮎を食す。美味かったが、侘しい気持ちになった。其の日は少しだけ、夜更かしをして本を読んだ。

 翌朝起き抜けで縁側に行くと、洗って綺麗にされた魚籠の中に、咲きたてを摘んできたのか瑞々しいセイヨウツツジが二輪程挿してあった。

 朝露に濡れた其れは、紅玉の様に美しい。大小二つの色に、暫し見惚れる。


「…嗚呼、良かったなぁ」


 仲直りは、如何やら出来たらしい。

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