プロローグなんて。
八月三十一日。
夏休みの最終日だというのに、私、天野日向は学校の教室でシャーペンを握っている。
「補修が済んだ人は、教卓の上に伏せて提出するように」
先生の浅く空気を撫でるようで、何とも面倒くさそうな声が教室に響いている。
私も補修に参加したくないし、先生も面倒くさいのならやらなければいいのに。なんて考えが、頭にぼーっとよぎる。
先生が下敷きをうちわ代わりにして、パタパタと音を立てている。加えて、窓の向こうで蝉がミンミンと鳴いていて、教室内にも夏というものが広がってきて心なしか、体感温度が上がっているのがわかる。
そんな夏の音しか聞こえず、私語が許されない教室の中で、周りの生徒達も補修が捗っていない様子だ。ペンを回したり、ペンで頭を掻いていたり、コソコソとスマホを弄ったりしている。
そんな中、一見地味で眼鏡をかけた女子生徒が教卓の上に無言でプリントを提出し、教室を去ろうとした。
「君、終わったのか?」
「……はい」
その子は愛想のない返事だけを残して、静かに教室を去っていった。
今思い返せばこの時、私が最初に柊陽花を見た瞬間だった。
私は知る由もなかった、この先彼女が私の人生において、どんなに大切な人になるのかを。
【プロローグなんて。】
夏休み明けの教室の中、冷房が効いてるのかもわからない蒸し暑い教室で、私はぼーっと空を眺めていた。
名前も知らないクラスメイト達は「久しぶりー」とか「夏休みどこに行ったー?」とか、それぞれの積もる話を我先にと言わんばかりにやや早口気味に語り合っている。
机に肘をつきながら手を頬に当て、ぼーっと窓辺を眺めていると、担任が教室へ入ってきた。
ガラガラ音を立てて担任が扉を開け、まるで夏休みなんて無かったかのようにトントンと教卓でクラス名簿を整えてから、そのまま挨拶を続ける。
「はーい。みんな席についてねー――」
夏休み明けの登校なのだから、担任には少しくらい気を使ってもらいたいものだ。
そんな事を考えていると、担任は少し教室を見渡してから一息つくと、面白い話をし始めた。きっと担任もそれを理解して、どうにかしようとしているのだろう。
夏休み中、彼氏がデートをすっぽかしたとかそういった話だった気がする。
担任は美人だからか、周りの男子生徒は担任に対して「おれが付き合おっか?」と茶化すと、担任は苦笑いをしながら軽く流していた。
それに対して周りの女子生徒達は彼氏との馴れ初め等、興味津々の様子だ。
質問攻めに遭っている担任を横目で見る。少し気の毒に見えるけど、話したがりなのか、嫌というほどの表情はしていない。
正直、他人の恋愛に何がそこまで気になるのか、私には理解できない。
いや、本当はわかっていると思う。それでも、他人の恋愛に触れる事の意義が見出せない。だって、周りがそれを応援しようが茶化そうが、当事者達には関わりのない事じゃないか。
担任の彼氏への愚痴が収まると、今度は惚気話が始まりつつあった。
そんな担任の与太話がマンネリ化したところで、もう一度窓越しに空を見る。
ふと、視線を下に向けると、セミの死骸がベランダの床に転がっていた。特に興味があるわけじゃないが、虫とは言え生き物だ。他の人がこれを見たら何か思うのだろうか。
聞けば、表向きには悲しむような気もするし、他の人も私と同じように無関心な気もする。まあこんな質問、誰にもできないのだが。
ただでさえ憂鬱な夏休み明けの登校初日。しかも始業式が終わったら、通常授業があるときた。私は今日十分頑張ったと自分に言い聞かせ、始業式が終わったらサボろうと身勝手な決意を固める。
始業式、冷房のない体育館
鉄の扉の向こうから、蝉の鳴き声が薄っすらと聞こえてきて、体育館の夏の暑さを際立たせている。
正直、登校したことを後悔する程には暑くて、汗で化粧が滲んでくる。
濃い化粧をして来た訳じゃないけど、それでも憂鬱な気持ちを少しでも晴らすため、いつもよりは気合いを入れて化粧をしてきた。それでも結果として、この後学校をサボろうとしてるのだけれど。
先生達が次々と体育館に入ってきて、生徒達が静まり返ると、そよ風が木々の間を通り抜ける音が、薄っすらと耳に届いてきて、蒸し暑い体育館の中が一層恨めしく感じてしまう。
校長先生や教頭先生のありがたい御言葉が体育館に鳴り響いて、淡々と耳を通り抜けていく。
高校生にこんな真面目な話をして、誰が真に受けるのだろう。大人になれば理解できるんだろうなと想像しつつ、早く口を止めてくれと心の中で文句を言う。
始業式がやっと終わって、半日くらいは経ったかなと思い時計を見たたけど、一時間程しか経っていない。
教室に戻ると、ホームルーム前の雑談の続きが、聞こえてきた。
私はその横を通り抜けて、窓際にある机の上に置いてある、何も入っていない鞄を雑に持ち上げて、足早に教室を発つ。
一人くらいは声を掛けてくれても良いものだが、生憎、私に友人はいない。
他の生徒の流れに逆らい、二階の教室から一階の出入り口まで向かう。
…寂しい人生だと、自分でも思う。
だからといって、何かを変えようとは思わない。なぜこんなに冷たい人間に育ってしまったのか。たぶん、小さな事の積み重ねなのだろう。思い当たる節はたくさんあるのに、決定打が思い当たらないのだ。
玄関で上履きを履き替えて、校舎をあとにする。
ふと振り返り校舎を見上げると、私のいない教室には、何も変わらぬ青春が広がっていた。
「はぁ……」
ふと空を見上げると、どうしょうもないほどに澄んだ青空が広がっていて、まるで吸い込まれそうになってしまう。
視線は空を向いているはずなのに、学校をサボる自分を空の上から俯瞰しているように錯覚してしまい、昔の自分と比べてしまう。
小学生、中学生の自分はどうだったろうか。
中学三年生の頃には、今のような冷めた人間になっていたと思う。
小学生の私は、自分でも別人なんじゃないかと思うほど元気良く走り回っていた。
無防備で、後先考えず雪遊びをするような。誰とでも仲良くなれ、好きな人もいたはずだ。いや、いたという記憶はあるが、明確に誰だったかは思い出せない。
中学の頃から私は変わっていった。きっかけはきっと、テストの点数だったような、小さな事だ。一学期の期末テストまでは平均点より少し上ぐらいで、得意な教科だとほぼ満点だったと思う。
その頃の私は何でもそれなりにこなせていたけれど、裏を返せば一番になることも無かった。運動もそうだ。体育祭でも一番にも最下位になることもなかったと思う。
二学期の期末テスト。本格的に中学の範囲がテストで出始める時期だ。得意な教科こそ、平均点は何とか維持できたが英語は赤点ギリギリで、数学は赤点だった。
それを親に見せたら酷く叱ってきたのを今でも思い出す。なぜそこまで叱るのか分からなかった。だってこれまで、テストで赤点なんてものは取ったこと無かったし、まるでこれまで積み上げてきた、こなしてきたものが何もかも評価されず、見られてないようだった。
人間はたった一回のミスでも許されないのだ。けれど、普段から素行が悪い人間が気紛れに良いことをするとやたら褒められる。そんな捻くれた考えを持ったのはこの頃からだと思う。
私は次第に余裕が無くなっていった。勉学に励むも結果はでず、寧ろ得意だった科目すらも次第に手につかなくなっていった。恐らく、人生で挫折というものをこの時初めて味わったのだ。
普通なら誰かと競争したり、テストの点が取れなかったり、子どもの頃に失敗や挫折を経験する人が多い。だが私は、中学という年齢まで失敗や挫折というものを真に経験したことはなかった。友達の誘いにも応えられなくなり、私は徐々に孤立していった。
ついには時々学校をサボるようになった。
その癖が今でも抜けない。
逃げ癖なのだろう。
最初こそ親はうるさかったが、中学二年の後半には何も言わなくなった。きっと、呆れられたのだ。
何も言われないのは楽だった。けれど、正直少し心に穴が空いたような寂しさ、そして罰せられない罪悪感というべきものだろうか、そういった居心地の悪いものが胸の中に溜まっていって、今も溜まり続けている。
周りが私に期待をしなくなるにつれて、私も私に期待をしなくなった。
そんな生活を続けていた私の人生に色はなく、灰色のような毎日が淡々と続いている。灰色だからやりたいことがないのか、やりたいことが無いから灰色なのかは分からない。
ただ一つの事実として私は他の人とは違う。
"生きているのではなくーー"死んでいないだけだ"
いつものようにぐるぐるとそんな事を考えていると、少し先に行った先に校門が見えてきた。
登校時間ではないから、先生の姿もない。まあ、高校でもサボりの常習犯なので、いなくなったとしても誰も咎めはしない。私の存在はその程度なのだ。
校門に近づくと、薄っすらと遠くにこちらに向かってくる影が目に映った。
自転車に前のめりになって乗っている女子生徒が、猛スピードで突っ込んできた。
「セーフ!」
いや、アウトだろう。もう始業式は終わり、一限目は既に始まっている。それなのに目の前の女子生徒は間に合ったと思い込んでいるのか、鼻歌を歌いながら自転車に鍵をかけている。そんなおかしい行動をするものなので、ついじっと見てしまったのだろう。
彼女はこちらに振り向き、話しかけてきた。
「帰るの?」
どう返そうか迷った。無視しようと思ったけど、目が合っている上にそもそも見ていたのは私の方だ。シカトするのも妙に気まずい。
「うん」
素っ気なく返す。この会話が一秒でも早く終わって欲しい。
「不良だ?」
それでも彼女は、素っ気ない私の態度何て気にしないのか、からかうように私に向かって少し首を傾げながら彼女は目を細めてにやりと笑った。
「そっちこそ…」
そんな態度に少しイラッとして、言い返してしまった。
彼女はイラッとしたのを察したのか、少し近づいてきた。
「ふむふむ、リボンを見るに同じ一年生だ?」
そんなもの、一目見た時に気づいている。改めて言葉に出されることでもない。ただ、私は彼女を知らないし、彼女も私のことは知らないようだったのでクラスは違うのだろう。
「何組?私は一組。
何がよろしくなのだろうか。けれど少し懐かしい。人と明るく会話をするのはいつ振りだろうか。
「三組。
彼女は私が自己紹介を返したのが嬉しかったのか、少し前のめりになり笑顔を見せた。
額から少し汗が滴り、先ほどまで全力で自転車をこいできたのが分かる。けれど、不思議と嫌な匂いはしない。身長が高く細身で、太陽に照らされて少し茶色に輝いている髪はポニテールに結ばれている。一見私より短そうな髪だが、解くと私より長そうだ。
「早退して、どこにいくの?」
「家に帰るだけ…」
「親は?怒られるんじゃない?」
「うち、共働きだから。」
「ふーん。そうなんだ。いいね?」
何がいいと思ったのだろう。でも、彼女の言葉の節々には優しさ乗っている気がして、人と話しているのに不思議と悪い気分じゃない。
「じゃあ、またね!柊さん!遅刻しちゃう!」
「あ、はい。また……」
「またね……?」
まるで次回があるかのような口ぶりだった。いや、学校が同じなのだから会う機会はあるだろうが「またね」と別れるほど、今の会話で距離が近づいたと思っているのだろうか。それともただの社交辞令だろうか。それに遅刻しちゃうも何も、もう遅刻だろう。
さっきまで憂鬱な気分だったが、彼女のヘンテコな言動にそんな事を考える暇は無くなっていた。
「またね……か」
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