『4'33”』—喰われた街
佯狂(郁爾 佯)
序章
住宅街の外れ、人気のない辺境に静寂に包まれるようにして一軒の廃屋が佇んでいた。
長い年月が経ち、今では誰も住むことのない一軒家。荒れ果てた庭には雑草が生い茂り、玄関の郵便受けは錆びつき、今にも崩れ落ちそうだった。
庭に生い茂る雑草と、ひび割れた壁が月明かりに照らされ、どこか不吉な気配を漂わせている。
ある日の夜更け、突如、赤い光が路地を染め上げた。複数のパトカーが廃屋の周囲に停車し、静まり返っていた空間に緊迫した空気が漂い始める。
無線が短い指示を繰り返し、警察官たちが次々に車両から降り立つ。
「無理に踏み込むな。慎重に行動しろ。」
「最初の侵入経路を確認してくれ。異常があったらすぐ報告だ。」
捜査一課の刑事が懐中電灯を握りしめ、廃屋の玄関前で立ち止まった。
周囲を見渡し、異常がないか確認する。一方、地域課の警察官が現場を封鎖し、鑑識課のチームが道具を持ち込み始める。
外側からでもわかる異様な雰囲気……。直感が告げていた。この扉の向こうには、踏み込んではいけないものが潜んでいる、と。
彼らは息を飲んだ。死臭に混じる、奇妙な甘い香り——それは何かの“儀式”の残り香のようだった。
現場の空気は重くひりつき、肌を刺すような圧迫感があった。警戒心を強めた捜査員の一人が耐え切れず、言葉を漏らす。
「おい、異常な数の蠅だ。こんなの見たことないぞ…」
「死臭はするが……変だ。腐臭だけじゃなく、甘いにおいが混じってる。」
足を踏み入れ奥に進むほど、蠅の数が増えていく。耳元をかすめる羽音が不気味にうねる。確実に、この先に何かがあると確信に近づいていく。
先頭を切っていた一人が、たどり着いた先にあった最奥へつながるドアを、開ける。
部屋に足を踏み入れた瞬間、空気が違うことに気づく。まるで、ここだけ世界が閉じているような、異様な静けさだった。
「これは…ひどいな…」
彼らが目にしたのは、落書きのようにも何かのメッセージにも、"書き写し"にも見える壁の赤いシミと、散乱するメモとペン、何かに使われていたであろう器具。
そして室内の壁にもたれかかるようにして盛り上がっている"黒い何か"だった。
おびただしい数の"蠅"と"蛆"が、まるで何かを覆い隠すように群がっていた。腐ったようなにおいは、確かにこの物体から発せられている。
その"黒い何か"に幾重にもまとわりついた蠅や蛆は、まるでその形を保とうとしているかのようだった。
一定のリズムでうねりながら動いている虫たちは、何か大きな意思に則って規則的に動いているようにも感じられる。
「どんな腐乱死体も動じるなとは教わったが…、これはさすがに……」
鑑識が異様な様相の部屋と"黒い何か"周辺を、調べ始める。このあまりにも多い、いや、多すぎる蠅や蛆たちは、いったい何なのだろうか?そう思わずにはいられない中で、群がるそれらを慎重に除去しながら確認を進めていく。
「…いや、これ、死体なんだよな?」「おい、これは…いくらなんでも…」
現場にいた誰もが困惑し、そして動揺を隠せずにいた。
なぜなら、その"黒い何か"──誰かの遺体だと思われるそれは、顔だったはずの部分は、顔の原型をとどめていない。さらに、胸の奥にあるべきものはもはや跡形もなかったからだ。
「眼鏡と衣類が残ってるな。DNA鑑定で特定できるかもしれない。だが…」
これは……本当に、人間だったのか?
"顔だったはずの部分"も一部内臓も不自然に消失しており、群がる虫たちもここまでくると超常現象じみている。
「普通、腐敗してても"顔"が分かるものだろ。でも、これ……」
「こんな状態で、ちゃんとサンプルが取れるのか?」
不思議なことに、部屋の中では羽音以外の音がほとんど聞こえなかった。
まるでこの部屋だけ、時間が止まっているかのような静けさだった。
捜査員のひとりが、小さく息を飲んだ。何かがおかしい。そんな感覚が、現場の全員を支配していた。
どうしてだろう。これまでにも腐乱死体は見てきたはずなのに、この部屋は、……"違うもの"の気配がする。
まるでスクリーンの中の悪夢に足を踏み入れたような空間だったが、こんな状況でも捜査の手を止めるわけにはいかない。」
「遺体の身元を確認できるか?」
「警視庁の身元不明者リストと照会しよう。」
冷静に対処しようとすればするほど、音や空気、におい、五感を刺激するすべてが"普通ではないこと"を訴えかけ続けてくる。
「現時点では事件性は不明だが、遺体の状況が異常すぎる。」
追いかけ続けていた人物、確かにリストにあった人物はこの廃屋で消息を絶っていた。
「この遺体が蠅野允という男だった……? だが、こいつは一体何者なんだ?」
「死因が自然死か、他殺かを確定するまでは捜査を継続する。」
蠅野允。それはこのひどく腐乱した"黒い何か"が、かつて持っていた名前だった。
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