【灰色探偵録】『灰色狼の少女は、消えた魔術師の影と踊る』

かげ

第1話 魔法都市エルヴァランの門

 彼女はかつて、人間だった。

 だが、今は違う。


 ルーシア・ヴェルディアはフードの内側へ手を伸ばし、そっと耳を撫でる。ふわりとした毛並みが指に馴染む。

 それは、狼の耳。間違いなく、自分のものだった。


 音が違う。匂いが違う。

 目に映る世界の輪郭すら、以前とは異なって見える。


(……元に戻れるのだろうか?)


 再び指先で耳を撫でる。

 柔らかな毛並みが心地よさを返してくるたび、背筋にぞくりとした冷たさが走った。

 この感触に慣れてしまうのが、怖い。

 もしも、この姿が『普通』だと心から受け入れてしまったら、戻りたいという願いすら、いつか消えてしまうのではないか。


 その考えが、何よりも怖かった。


 ふと、風が吹いた。森の草葉がさざめき、木々の枝が微かに揺れる。木々がざわめく音は、敏感になった聴力にも優しく届く。ルーシアはゆっくりと息を吐き、森の小道を踏みしめた。


 このささやかな静寂が、ルーシアは好きだ。


 人のざわめきよりも、自然の音の方が純粋だからだろうか。

 それは、身体の変化が起きる前から変わらない。むしろ変化が起きてからこそ、よりそう強く感じるようになった。五感を森に預け、ただ流れる時間を感じるのが心地よかった。


 しかし、隣にいる相棒はまるで空気を読まなかった。


「ふあぁ~……なんかずっと同じ景色で退屈だねぇ」


 隣を歩くフィオナ・ブライトが、思い切り伸びをしながら声をあげた。淡い金色の髪が陽を受けて揺れ、腰まで届くポニーテールが楽しげに跳ねる。長いスカートの裾がふわりと舞い、彼女の軽やかな足取りを際立たせていた。


 ルーシアは小さく鼻を鳴らす。


「……お前には私の気持ちはわからないだろうな」

「え? なんでそんな冷たいこと言うの?」

「いや、いい。森をどう感じようと自由だ」

「んー? あー、そういうことね!」


 フィオナはくるりと顔を向けると、歩きながら無邪気な笑みを浮かべた。


「ルーは森の音、好きなんでしょ? 知ってるよ」

「……まあな。フィオは?」

「私は耳より舌の方が敏感なんだよねー」

「お前はどこまでも食い意地か……」


 ルーシアは無意識に鼻をすん、と動かす。確かに、森には独特の匂いがある。

 樹木の香り、湿った土の匂い、風が運ぶ遠くの花の微かな甘さ。そして、時折感じる獣の気配。風の流れの向こうに、何がいるのか。どんな生き物が潜んでいるのか。

 それが、彼女の身体に刻み込まれた能力だった。


 風が吹くたび、灰色の長い髪がふわりと揺れる。

 鋭い金色の瞳が、木々の隙間を鋭く見据える。

 フードの陰で毛並みの良い狼耳が微かに動き、シンプルなシャツの上から肩にかけた長いコートが、歩みに合わせて軽やかに翻った。


「もう少しで街に着くよね?」

 不意にフィオナの明るい声が響く。


「……ああ」


「エルヴァランって、すごい魔法都市なんでしょ? 何があるのかな、どんな美味しいものがあるかな~!」

「お前の目的はそれか」


 フィオナの無邪気な声に、ほんのわずかに、ルーシアの胸の中の霧が晴れたような気がした。


「だってさ、街ごとに名物があるわけじゃん? せっかく旅してるんだから、楽しまなきゃ損でしょ!」

「……旅の目的は楽しむことじゃないと思うんだが」

「そうだね。楽しむのに目的はいらないもんね」


 ルーシアは呆れたように言ったが、フィオナは気にした様子もなく笑った。

 ルーシアは歩調を緩めず、前を見据えた。


「フィオ。私は獣人化を解く方法を探している」

 フィオナは軽く両手を後ろに組みながら、言葉を紡ぐ。


「うん、分かってる。でもさ、旅って寄り道も大事だと思うんだよねー。寄り道してるうちに、何気なく見落としちゃったことが、実はルーが探してる答えなのかもしれないし?」

「……お前のそういう楽天的な考えが、時々理解できない」

「ルーが考えすぎなだけだよー」


 ルーシアはふっと鼻を鳴らし、再び前を向いた。


「まったく……お前は本当に呑気だな」


そう呟きつつ、ルーシアはフードを深く被り直した。




──魔法都市エルヴァラン。




 そこには、禁忌の魔術を研究する魔術師達がいると聞いた。彼らの持つ魔導書の中に、獣人化の術に関する記述があるかもしれない。

 ルーシア達はその手がかりを求めて、この都市へ向かっている。


「……とにかく、街に着いたら私はまず図書館に行く」

「はいはい、じゃあ私は宿を確保したら市場に行ってくるね!」

「勝手にしろ」

「リンゴがあったらルーの好きな焼きリンゴ作るからね! 期待してて!」

「……約束だからな」


 ルーシアは少し恥ずかしそうに答え、息を吐いた。


 森の道は続いている。

 彼女たちを待ち受けるのは、魔法と謎に満ちた都市、エルヴァラン。


 ルーシアはわずかに目を細め、その先を思い描いた。


――そこに、私の求める答えはあるのだろうか。



--


 巨大な結界が陽の光を受けて白銀に輝いている。果てなき上空へと吸い込まれるように立ち上る姿を、ルーシアとフィオナは同じ角度で見上げていた。


 都市全体を覆う結界が、微細な魔力の波となって空気を揺らしている。それはまるで、水面が静かに揺らめくように、透明ながらも確かに存在を主張していた。


 その障壁は外界と都市を隔てる境界線となっており、東西南北に設けられた四つの門だけがエルヴァランへと至る唯一の出入口となっていた。


 ルーシアはふと立ち止まり、目を細める。

 結界の精妙な造りを観察しながら、わずかに胸が高鳴るのを自覚した。


(……すごいな)


 理論上、この結界は外部からの魔物や魔力干渉を完全に遮断する。それだけでなく、都市内部の魔力の流れを制御し、気候や魔法の使用までも安定させている。

 つまり、都市全体が巨大な魔導装置として機能しているのだ。


(……強固だ)


 この都市に在籍する大魔道士が構築した結界。少しでも魔法について知識がある者なら、これを無理やり通り抜けようなどとは考えないはずだ。


 魔法都市とは聞いていたが、ここまでとは。


 感嘆の念を抱いていると、無意識に狼耳を動かしていた。

 すぐにフードを深くかぶり直したが、隣のフィオナはその所作を見てにやりと笑う。


「ワクワク、してるねぇ」

 どこか意地悪気味な視線でフィオナは告げる。


「うるさいな……」

 ルーシアは小さく舌打ちした。


「うんうん。ルーがワクワクするのはわかるよぉ。すごいよね! この結界、どうやって作られてるのかな? これだけの範囲を維持するには相当な魔力が必要でしょ? もしかして、都市全体に魔力供給装置が……」

「……うるさいぞ、フィオ」


 興奮気味に話し続けるフィオナを、ルーシアは冷ややかに制した。だが、彼女の言葉に含まれる興味自体は、自分の中にもあることを否定できない。


 そっとあらためて自分の耳を触る。動いていないかと確認するためだったが、フィオナは再びこちらを見ていた。


「ルーも気になってるんでしょ?」

「別に」

「ふーん? へぇ?」


 どこか愉快そうに見上げてくる彼女に、ルーシアは小さく鼻を鳴らした。


 東門の前には、ローブを纏った魔術師たちや、異国の旅人、獣人たちが列をなしていた。

 門の近くに立つと、都市全体から漂う魔力の波が、風のように肌を撫でた。ここが、普通の都市とは違う場所だということを、身体が本能的に理解する。


 並ぶ人々もまた、どこか緊張した面持ちだった。

 エルヴァランに入るためには厳格な手続きを受けなければならない。

 都市の管理を担う魔術監察官が一人ひとりに魔力探知の杖をかざし、何やら確認している。監察官が短く何かを告げると、それを聞いた者が戸惑いながら列を離れていく光景が時折見られた。


「入場手続きって、何をするんだろ?」

「身元の確認と、魔力情報の登録だろうな」

 ルーシアは淡々と答えた。


「研究や学問の場である以上、不審者の侵入を許すわけにはいかない。結界で外敵を防ぐだけでなく、内部の秩序も維持する必要があるからな」

「なるほどねぇ……さすが魔法都市。厳しいなぁ」

「当然だ」


 順番を待つ間、都市の内部がちらりと見えた。

 白や水色を基調とした建物が整然と並び、石畳の道には魔導ランプが等間隔に設置されている。

 それだけではない。上空には魔導紋が浮かび、微弱な魔力の光を放ちながら、ゆっくりと回転している。

 それらは都市全体の魔力供給を安定させる装置なのかもしれない。


「ねぇ、あれ見て! あの空飛ぶ馬車、どういう仕組みなの!? 馬車の車輪が回ってないのに浮いてる!」


 フィオナが目を輝かせながら、空を指差す。


「おそらく重力制御に特化した光魔法だろう。都市内の移動手段としては合理的だ」

「うわぁー……すごいなぁ、さすが魔法都市」


 フィオナは感嘆の声を漏らしながら、あちこちへと視線を走らせる。まるで初めて外界に飛び出した子どものようだった。


「はしゃぎすぎるな」

「だってさ! こんなすごい街、見たことないもん!」


 ルーシアは軽くため息をついた。確かに、自分たちの旅は長いが、ここまで高度な魔法都市を訪れるのは初めてだ。


 興奮冷めやらぬフィオナをたしなめていると、二人の順番が回ってくる。

 列の前方に立っていた魔術監察官の女性が一歩前へ出た。


 鋼のように滑らかな灰色の髪は首元で一つに束ねられ、瞳は二人を一瞥するだけで威圧感を生む。

 彼女が纏う黒と紺の監査官の制服は、装飾を排した実用性重視のデザインをしており、肩に刻まれた監察局のエンブレムが、彼女の地位の高さを示していた。


「名前と出身地を」


 無駄な言葉は発さない。低く落ち着いた声で告げる。

 監察官の横には魔導杖を携えた別の術師が控えており、まるで神殿の儀式のような厳格な雰囲気を醸し出していた。


「フィオナ・ブレイズ! アルヴェント王国出身です!」


 フィオナは元気よく名乗り、一歩前へ進むと堂々と胸を張った。

 監察官は微かに瞬きをしてから無言のまま頷く。術師は魔導杖を掲げ、杖の先端に埋め込まれた小さな魔晶石がわずかに発光する。


「動かずに」


 監察官の言葉と同時に、杖の先がフィオナの額の前で静かに浮遊した。

 魔導杖はゆっくりと上下に動き、フィオナの周囲の魔力を測定するように円を描くように滑らかに旋回する。

 やがて、杖の先端が淡い赤色に染まると、監察官は小さく頷いた。


「火属性の適性。問題なし」

「はいはーい、どうも!」


 フィオナは軽く手を挙げるが、監察官の表情は微塵も揺るがなかった。

 それどころか、まるで彼女の魔力の波動を分析し続けているかのように、冷静な視線を向けたまま口を開いた。


「次」

「ルーシア・ヴェルディア。出身はアルヴェント王国」


 術師により、魔導杖がルーシアの前で静かに浮遊する。

 先端の魔晶石が、淡い緑色に変わり、その後、黒いもやのような波紋が、杖の周囲を歪ませた。

 見えない何かが杖の中で跳ねるように、魔力の脈動が不規則に波打ち始める。


 監察官は微かに眉をひそめると、術師の持つ魔導杖を横から強引に傾ける。

 それだけで、杖の魔力の流れが変わり、今度は魔晶石が僅かに甲高い"軋み"のような音を響かせた。


「……お前の魔力、少し特殊だな」


 監察官の視線が一瞬だけ鋭くなり、眉がわずかに動く。まるで予想外の何かを見つけたかのように。

 ルーシアはその微細な変化を見逃さなかった。

 言葉には抑制が利いていたが、わずかに緊張を含んだ気配が、ルーシアの鋭敏な感覚を刺激する。


(探られているな……)


 監察官に向けられた眼差しは、ただの確認ではない。

 魔力を"判定"するだけなら、杖の反応を見れば済むはずだ。それにもかかわらず、さらに何かを感じ取ろうとするような眼差しだった。


 同時に、監察官の周囲の魔力がごくわずかに揺らいだ。

 ルーシアの体の奥底で、獣の本能がかすかに目を覚まし始める。


「……ルー?」


 フィオナの表情が、一瞬、普段の陽気さを捨てたものへと変わる。

 彼女の手が、静かに、しかし確実な意志をもってルーシアの腕を掴んだ。


 温もりを帯びた手が肌から伝わり、ルーシアの中に生まれかけた衝動を抑え込む。

 静かに息を吐き、フィオナの指を優しく振りほどいた。


「フィオ、大丈夫だ」


 柔らかく告げながら、ルーシアは監察官の目をじっと見返す。


「特殊だが……何か問題が?」


 彼女の言葉は、まるで問い返すように響いた。

 監察官は一瞬、目を細め、何かを考えるように沈黙したが、それ以上追及することはしなかった。

 魔導杖の光を淡々と確認し、静かに頷く。


「……いや。入場を許可する。ようこそ、魔法都市エルヴァランへ」


 そう告げる声は、先ほどよりわずかに落ち着いたように聞こえた。


 監察官が門の前に立つ魔術師へと合図を送る。次の瞬間、巨大な扉がゆっくりと開いた。

 まばゆい光とともに、魔法都市エルヴァランの街並みが二人の前に広がった。


「さぁ! 入ろう入ろう!」

 先ほどまでの真剣な表情を崩すと、フィオナが興奮気味にルーシアの手を引く。


「……引っ張るな」


 その勢いに負け、ルーシアのフードがぱさりととれる。

 狼耳が、ぴょこんぴょこんと動いたのを見て、フィオナに小さく笑われる。

 もう抗議するのはやめた。

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