第2話


「お兄様が朝からワインなど召し上がるなんて、珍しいですわね。落ち着きませんの?」


 湿地帯に面したテラスで、グラスを傾けている兄を見つけ、レイファが歩み寄ってくる。

「私みたいなことを」

 ドラクマは言われて気付いたらしく、笑った。

「そうだね。知らない間に飲んでいたよ。いい天気と風で、湿地帯が美しくてね。これならばきっとネーリ君も目を輝かせてくれるに違いない。明日もこんな感じで晴れるといいんだが」

「まあ。シャルタナ家の当主が随分萎れたことを仰る」

 レイファは兄が飲んでいたグラスを奪ってワインを飲んだ。


「明日は天気が悪かったら、屋敷内で遊べばよろしいではありませんか。抜群の天気になるまで、ゆっくり我が屋敷で寛いで過ごしてくれればいいと仰れば。その方がネーリ様の滞在が伸びますわ。都合がよいでございましょう?」


 それにもふと気付いたようだ。

「そうか。確かに。その発想が無かった」


「まぁ……本当にどうなさったのお兄様。らしくなくボーっとなさって。

 いつもはこういった予定外を誰よりもお楽しみになるのがお兄様なのに。

 こんなことで動じるなんてらしくない。

 折角狙い澄ましていた美しい蝶が手の中に自分から入ってきましたのよ。

 存分に楽しみましょう?」


 テラスのゆったりとした横椅子に足を伸ばして腰掛け、レイファは頬杖をついた。

「そうだな」


「別に無理に密猟することないんですわよ。

 向こうからシャルタナ家の温室に入ってきたんですもの。

 好きに遊ばせて、気に入らせて、

 それでも存分に楽しめると思いますわ。

 あの子の審美眼は確かですし、お兄様の芸術の造詣の深さには、話すほど魅了されますわよ。まだ若い芸術家ですもの。付き合ってるうちにパトロンとしても愛人としてもお兄様を頼りにするようになると思います。

 貴族社会に出てこない子で、このままだとヴェネツィア聖教会神の家に閉じ込められそうだから金で買いましたけど、別に事情が変わったら穏便にやればいいのでは?」


 レイファの言葉には、尋ねるというよりは穏便に済ませたいという意図がはっきりと見られた。

「うん……」

 ぼんやりと寛ぎながら、湿地帯の方を見ている兄の、心ここにあらずといったような様子に、レイファは振り返る。

「お兄様が聖人君子では無いのは分かってますけど、そんなに悪事に凝り固まる方だとは思いませんでしたわ。金の悪事は楽しいゲームの一つと言っていたではありませんか。正攻法でネーリ・バルネチアを落とすのがそんなにつまりませんか?」

「うん?」

「もしかしてラファエル・イーシャに嫉妬してらっしゃいますの? あの氷のような心をお持ちの妃殿下の寵愛さえお受けになっていらっしゃる、フランスの貴公子」

 ぼんやりしていたドラクマが、これには声を出して笑った。


「とんでもない。ラファエル殿はまだ二十代で光り輝く男盛りだよ。

 五十男の私が今から嫉妬などしてたら、気苦労で寿命が縮む。

 あれはまだヴェネトやフランスで幾つもの勲章を頂くだろう。

 張り合うなんてもっと勤勉な人間がすればいいさ。

 幸い神聖ローマ帝国やらスペインやらから対抗馬は来てる。

 私は優雅に、若い彼らの雌雄決する戦いを高みの見物させて貰うのが楽しみだ」


 レイファはグラスを置いて、頬杖をついた。

「そうですわよね? いえ私もお兄様はそういう方だと思っていますから驚きは無いんですけども」

 兄のドラクマは欲しいと思ったものはどんな手を使っても手に入れる人間だ。

 彼は相手の身分は問わず、自分が美しいと思った人間に執着するので、大貴族からの誘いなど夢物語のようにしか思えず、かえって本気にされないというような身分違いの相手にも手を出してきた。

 信仰を守りたいからと拒まれたこともあるし、展開はその時様々だ。確かに人間相手のその様々なパターンが起こるゲームは、レイファも面白く気に入っている。

 拒む者もいるが、勿論容易く手に落ちた者も多い。

 それで言えば、レイファはネーリ・バルネチアには確かに、これまでにドラクマが狙った相手とは、少し違う条件があるような気がした。


 まず、幼さである。

 彼がまだ十歳にも満たない時に、教会で歌う聖歌隊の中で見つけた。

 レイファも見に行ったが、確かに幼いながら、美しい容姿をした少年だった。

 恐らくあと五年、六年もすれば更に背も伸び、美しい青年になっていくだろうことがその頃に分かった。

 しかし、ドラクマはそういう場合、成長を待つ。

 彼は少年趣味は無かったからだ。


 ただネーリ・バルネチアのことは、その頃から折に触れ、見に行ったりしていた。

 ある時から彼は歌わなくなってしまったので、ヴェネツィアの街の教会では見れなくなり、さすがにあの小さなミラーコリ教会に頻繁にシャルタナ家の人間が行くと、人の目に付きすぎるのだ。それを恐れ、あの場所には聖域のように近づけなくなった。

 しかし、ネーリは聖歌隊で歌うことが本業ではなかった。


 彼は、画家だ。

 彼はある時から神の家を出て、ヴェネト中を彷徨い歩き、絵を描くようになった。


 ドラクマはそれも、気に入っていた。

 彼の動向は手の者に探らせ、時々彼がいる場所へ行き、街角で夢中で描いている姿を眺めていたこともある。

 レイファは何度か、そんなに気に入ったなら屋敷に招いてお抱えの画家にすれば良いのにと助言したことがある。

 ドラクマは「そうだな」と言いつつ楽しそうに眺めながらも、決して招かなかったので、そこまではしたくないのだろうと思うようになり、兄はあの花は好きにさせて、気の向いた時に眺めて楽しみたいのだと理解するようになった。摘みたくないのだろうと考え、いつものように手に入れたらどうかという助言は、レイファはしなくなったのだが、ある時、例のオークションで


「彼を買った」と言われて、意外に思ったのをよく覚えている。


 買った理由は、「今買わないといずれあの子は画家として世に出てしまうから」だと言っていた。しかしドラクマは、他の貴族がパトロンをしていた画家なども、同じ手で奪い取ったことはあるし、急いで手を回すようなやり方はらしくなかった。

 だとしたらやはり、身寄りの無い相手なので早くに庇護すれば、あのようなゴロツキの私兵団のような手を借りずとも良かったのでは無いかと思う。

 

 ――確かに絵は凄まじい。


 あの青年は子供の頃からそういう絵を描いていた。

 だが不思議と、人の目に何故か留まらず、本人もまたあまり贅沢に興味は無いようで、ヴェネトを放浪し、数年絵を描き巡ったあとは、その絵を発表もせず、ヴェネツィアの北の外れにあるミラーコリ教会のアトリエに籠もったまま、表舞台に出てこなかった。

 しかし、芸術家の中には人の評判を気にして、自分の作品を発表できないような人間も確かにいるので、レイファはネーリ・バルネチアもそうなのかもしれないと思っていた。


(でも……)


 実際に話して実感が持てたが、彼はそういう、人見知りをするタイプでは無かった。

 芸術を目にした時の、感性が溢れ出る、あの印象。

もしかしたら、今までドラクマが収集した青年たちの中でも、最も快活な青年かもしれない。ドラクマやレイファにも、その作品について目を輝かせて尋ねてくることがあった。

 レイファは卑屈な人間は嫌いなので、ネーリが大貴族の娘でもあるアデライードに同行し、シャルタナ家にやって来ることに対して間違ってるなどと少しも思わないが、人によっては畏れ多いと遠慮することもあるだろう。

 ネーリはそういう意味では、非常に臆すること無く、堂々としていたし、素晴らしい芸術がある場所になら自分の身分などどうでも良く、赴くような青年なのだ。

 芸術に呼ばれれば、どこにでも。

 ああいうタイプも、今までドラクマは興味を示したことがない。


 それに、あの神聖ローマ帝国のフェルディナントである。


 到底芸術など理解しない、無粋な帝国軍人としか見えないフェルディナント・アークが、どういう経緯で出会ったかは知らないが、ネーリ・バルネチアと親しいようなのだ。

 何度か探ろうとしたのだが、さすが叩き上げの軍人というだけあり、尾行には何度も気付かれた。しかし神聖ローマ帝国軍は来た当初から王妃セルピナの癇に触れていたので、恐らく尾行は城の人間だと考えているようで、気づいても捕らえに掛かるようなことはなかった。

 一度気付かれた尾行を何度も使うほどレイファは愚かではないので、その都度人間は変えていたのだが、ドラクマに「尾行はどうやら諦めた方が良いな」と笑われて、不本意ながらやめることとなった。


 ネーリは神聖ローマ帝国の駐屯地にも出入りしているらしく、あそこは本当に例の竜という生き物がいるため、ヴェネツィアの市民は恐れて近づくこともしない。

 だが恐れ知らずのネーリは竜に興味があるらしく、平気で出入りしているようなのだ。

 運に恵まれずに過ごしてきた、美しい薄幸の青年……、レイファはそんな風に考えて来たが、その読みは大きく外れていたらしい。


 実際に話した印象は明るく無邪気で、人としての魅力に満ちていた。

 あの青年ならば、例え大した画家でなくとも、彼が描きたいというのなら援助して描かせてやろうかと思う貴族なども多いだろうと思う。

 色々な場所に連れ回し、観劇を共にするだけでも楽しいのだから。

 そこに来て、彼の画家としての才能は本物である。


(確かに不思議な子なのだ)


 何故誰にも興味を持たれないのだろうかと、ずっとレイファも不思議に思っていた。

 ドラクマは彼独自の視点で人間を見出すこともあったが、ネーリの魅力は多分、万人に分かる類いのものだ。孤児らしく、家族もいなければ、ヴェネツィアの街に彷徨い出ても、別に誰から興味を持たれるわけでも無い。


 ……まるで存在してないかのように、ヴェネツィアの街に生きている。


 今日、ネーリとアデライードがシャルタナ家にやって来る。

 アデライードが人前に出ることをあまり好んでいないので、恐らく茶会で貴族達と和気藹々とはならないだろうが、彼らは今日ここに留まるので、ゆっくり話は出来ると思う。

 レイファは是非ともネーリに、画家としての野心がどの程度あるのか聞いてみようと思っている。

 出来ればアデライード・ラティヌーとの関係性も、もっと詳しく聞き出したい。

 あの二人は年の頃が同じなので、外から見れば貴族令嬢と売れない画家で、全然身分違いなのだが、とにかく仲がいい。恋など、今日は無くとも明日には芽生えそうな距離でずっと側にいるのだ。


 しかしアデライードの背後にはあのラファエル・イーシャが存在する。


 今のところ、ラファエルとネーリの関係性は分からない。

 というのも、ラファエルも色々と探っておきたいものはあるのだが、神聖ローマ帝国に探りを入れても王妃セルピナは笑って済ませてくれるだろうことがレイファには分かったが、ラファエルの場合王妃が気に入っているので、探りに入ったのを気取られ、ラファエルから王妃に話などされたら、私が信頼するフランス艦隊総司令官に探りなど入れたのは誰だと激怒される恐れがあるのだ。


 余程こちらの方が危険なのである。だからラファエル・イーシャには全く近づけない。

 アデライードとネーリは、彼女がヴェネトに来てから、程なくして見つけた画家らしく、そんなに長い付き合いでは無く、この数週間はラファエルが王妃の外遊に付き合ってヴェネツィアにいない。

 アデライードの話では、ラファエルは妹の交友関係には寛容だと言うが、さすがに恋や結婚となると話は別である。帰還して、これほどネーリと彼女が親密になっていることを知れば、社交界デビューする前の妹に変な噂が立っては困る、と二人を引き離しに掛かるかもしれない。

 だから今のところシャルタナとしては、アデライードとネーリの関係については、知らないようなフリをしていた方が得策だった。ラファエルがこの二人の親密さを嫌がれば、またその時はこちらも出方を考えなければならない。

 とにかく、ラファエル・イーシャにだけはどうにもならない状態なのである。


「ラファエル・イーシャがもし、アデライード様とネーリ様の親密さを嫌がったら、ネーリ様は海外に連れ出すのもありですわ。

 お兄様がどんなに気に入っても、ネーリ様をシャルタナ家で庇護し、パトロンにつくとなると、ラファエル様が、妹君の心を盗んだ画家と親しくしているシャルタナ家を敬遠するかもしれませんものね。

 ヴェネトでは庇護出来なくとも、海外なら角が立ちませんでしょう?

 何なら私の持つ海外の別荘を彼に差し上げてもいいですわよ。

 むしろ、妹の目障りな友人を穏便に海外にやってくれたと、ラファエル・イーシャが私たちに感謝するかも」


 どう思います? とレイファが尋ねると、折角心配してやった当の本人は、きょとんとした顔で、

「……お前は本当に物事を深く考えるものだなあ」

 などと感心したように言って来たので、レイファは半眼になった。


「私は物事は単純な方が好きですわ。だから単純じゃない人間を周囲から排除してますの。

 お兄様も血の繋がらない単なる他人だったら、複雑すぎて排除してますわよ。兄だからこうして妹として、心配して、代わりに深く考えてやってるのではありませんか。

 本当はそんな深く考えたくないけども、お兄様は獲物を見るとなるとそのことしか考えなくなる狩人ですもの。乱射する矢がラファエル・イーシャに命中しないように、私がこうやって本来考えたくも無いことを考えてあげてますのよ。分かってます?」


「そうだったか。それは何やら悪かったね」


「もう! 全然反省してないんだから……。

 ネーリ・バルネチアをどうしたいのか仰ってよ。

 そうしたら私がどうにかして差し上げますから」


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