第2話 「あの人は母の旦那さんなの」
灰皿の吸殻が数え切れないほどになって、もうそろそろ帰ろうか、と聡が思った時、重い足取りで通りを歩いて来る由美の姿が見えた。聡は伝票を掴むとあたふたと精算を終え、バタバタと店の外へ飛び出した。
ゆっくりと歩いて来た由美の眼の前に立って彼は彼女に呼びかけた。
「由美!」
顔を上げた由美がアっと驚いた。
「聡さん!」
二人は商店街を抜けて神戸港のメリケンパークまで歩いた。
此処は嘗てのメリケン波止場と神戸ポートタワーの建つ中突堤の間を埋め立てて造成された公園である。北側には著名な建築家フランク・ゲーリー作の「フィッシュ・ダンス」という開港百二十周年を記念するオブジェが在り、中芝生には平成二年に催された第一回神戸ファッションフェスティバルを記念する鐘楼「オルタンシアの鐘」が設置されていた。
東側の一角には、阪神淡路大震災で崩壊したメリケン波止場が復旧されずにそのまま残こされ、後に神戸港震災メモリアルパークとして整備されて、震災の貴重な記録として残存していた。
公園の外灯に照らされた「オルタンシアの鐘」の下で二人は話した。遠く夕闇の中に貨物船が一隻、幽かに靄って居るのが見えた。
由美がポツリと言った。
「そう。逢ったの・・・」
「誰だよ、あの人は?」
由美は直接それには答えず、思い詰めた顔付きでぐっと唇を噛み締めた。
「私が嫌になるなら、それでも良いのよ。恨んだりしないから」
「何を言い出すんだ、いきなり」
聡が憤然として問い質した。
「誰なんだ?あの人」
由美が顔を背けて呟くように答えた。
「あの人は母の旦那さんなの」
「お母さんの旦那さん?何だよ、そりゃ」
「つまり、お金で囲われているのよ、私の母は・・・ううん、私もそう・・・」
「・・・・・」
「私は小さい頃に父に死に別れた。おじさんが一人居たけれど、奥さんの尻に敷かれて力にはなってくれなかった。心の中では私たち母子のことを心配してくれていたみたいだけど、結局は何もしてくれなかった。で、母は私の手を引いて彼方此方と仕事を捜して歩いたの。結局、大阪ミナミの藤川と言う小料理屋に住み込んだわ、そう、水商売よね。良いことも悪いことも私には耐えられなかった。未だ六歳だったけど住み込んでいたから、飲めないお酒を飲んで無理矢理笑っている母を観るのが凄く嫌だったし、それに、お客にだって色んな人が居るでしょ、母が慣れないことを慣れているような素振りをしているのが、どうしても不憫に見えて・・・こんな所、出たいって随分泣いたことを覚えているわ。その頃にあの人が店に来るようになったの。私にも来る度に何か買って来てくれて、何だか、お父さんみたいな温かいものを感じていた。ワールド自動車(株)って知っているでしょう?」
「ああ、観光バスとタクシーの・・・」
頷きながら由美が話を続けた。
「その頃は未だ小さなタクシー会社の社長さんだったんだけど、それから観光バスの事業にも乗り出して、それが上手く行って、数年後には大阪市内だけでなく神戸にも進出していたの。私たちは一軒家の借家を借りて・・・それが改装前の今の家なの。結局、お妾さんになったのね、母は。私はずうっと新しいお父さんが出来たんだって信じていた、中学に入るまでは。毎日居ないのが不思議には思っていたけど・・・」
「どうして今まで言わなかったんだ?」
由美は急に口を噤んでその後は話さなくなった。
「言ったら愛想を尽かされる、とでも思ったのか?そうだとしたら、感覚的には一昔ずれているぞ」
「でも、結局は私も短大まで出して貰ったんだし・・・」
「ナンセンスだよ、君は」
由美が聡をじっと見つめた。
「俺は君が好きなんだ、真実に好きなんだからな。君が拘っていることは馬鹿げているよ。そんなことは俺たち二人と直接的には何の関わりも無いじゃないか、そうだろう?」
由美は熱い眼で聡をじっと見つめて、言った。
「何も考えなくて、あなたを信じて良いのね、信じて居れば良いのよね」
「そうだよ」
聡は由美の肩に手を置いてにっこり笑った。
「俺の顔をちゃんと見ろよ。いつも二人でこうやってしっかり向き合って行けば、それで良いんだ、解かるな」
由美は聡の顔を凝視して頷き、その胸にそっと顔を埋めた。やがて、顔を上げた由美の唇に聡の唇が重なった。二人は暫くじっと動かなかった。
由美を自宅まで送り届ける道すがら、聡が、如何にも驚いた、と言うように訊ねた。
「それにしても、新しい色んな文房具類が出回っているんだなぁ、入学や進学や入社のシーズンだからか?」
「そうね。雑貨店の限定品や学生用の軽量ノート、幼児向けの学習用品など楽しみながら勉強や仕事が出来るように工夫を凝らした商品が多いわね」
由美は近頃の新しい文房具類について聡に解り易く説明した。
「罫線に細かい文字で百人一首や国名が書かれたノート、パステルカラーのボールペン、水書き練習ノート、鉛筆後部の消去ラバーでこすると摩擦熱で筆跡を消すことが出来るフリクション色鉛筆、その他にも未だ未だ色々在るわよ」
「何だい、その水書き練習ノート、ってのは?」
「未就学児童が文字を覚える為の商品よ。特殊なシートの上に書かれた文字を水で濡らした専用ペンでなぞると文字が浮かび上がるの。乾くと元に戻るので何度でも練習出来る」
「へえ、なるほどね」
「フリクション色鉛筆は、ぬり絵やお絵かきで、はみ出してもテーブルを汚さないから好評なのよ」
「色んな物が有るもんだな」
「文房具の女子会、って言うのも在るわよ」
「何だ、それ?」
「ブレンドして、好みの色の万年筆用インクを作るワークショップなのよ」
「然し、そういう新しい商品や情報をお母さんが見つけたり捜し出したりして来られるのか?」
「母一人ではそれは無理よ、出来ないわ。あの人が色々と手助けしてくれているのよ。あの人の事業や経営に関するセンスや嗅覚は結構鋭いものがあって、上手く行くケースが多いのよね」
「屋号もその人が考えたのか?」
「ううん、屋号は母の考案よ。少しでも明るい名前が良い、って“青空”にしたらしいわ」
由美はそう言って、文房具についての話を切り上げた。
店の前で聡と別れて、玄関から家の中へ入った由美は「只今」と声を掛けただけで直ぐに二階の自分の部屋へ上って行こうとしたが、途中で下から母親が顔を覗かせて呼び止めた。
「お帰り。先ほど、川本さんと仰る方がお見えになって、後でまた来る、って言っておられたけど・・・」
「ああ、今、逢ったわ」
「そう」
玄関の方を見やりながら母親が訊ねた。
「で、お連れしなかったの?」
由美はそれには答えず、さっさと自分の部屋へ上がって行った。
「?・・・・・」
直ぐに着替えて降りて来た彼女は食卓に着くなり母親に告げた。
「お母さん、わたし、あの人と結婚するわ」
由美の唐突な話に母親は戸惑い、どぎまぎして返答に窮した。
「それはまあ、あなたさえ良ければ私は何も言いませんが・・・然し・・・」
「だから、お母さんもあの人とのこと、はっきりさせて欲しいの。今の侭じゃ、やっぱり私、嫌なの」
母親は困惑して何とも答えられなかった。由美は苛立つ眼で母親を眺めた。
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