別れのボロネーゼ
望月凛
序章 つかの間の平穏
第1話 剣の道
新月の夜、男は思う。あの時の自分は、幸せだったと。
―暦1016年―
土砂降りの中を、一人の男が駆けていた。雨風に吹かれた銀色の髪は赤色に染まり、服が破れた所からは、醜い傷口がいくつも顔を出している。全身を血の色に染めたその青年の名は、
「はっ……がはっ」
息が苦しい。体は既に限界を超えているが、ここで止まるわけには行かない。この世界で止まった先に待つものは、”死”のみだ。その時、かすかな冷たい気配を感じ、銀霧は顔を傾かせた。……つもりだったが、実際は満足に動いていなかったらしい。美しく禍々しい氷の矢が、銀霧の白い頬にかすり、微量の血を滲ませた。
「っ……」
その時感じたのは、”痛み”ではなく、自身に迫りくる死だった。振り返り、魔法の主を探す。しかし前がおろそかになったせいで、地面のぬかるみに気づかなかった。抵抗もむなしく、前のめりに倒れる。起き上がろうとするが、体に力が入らない。―絶望。ずっと心の奥底に隠してきた文字が、今だけは憎らしいほど鮮明に浮かんでくる。
(魔法なんて、必要なかったんだ。どうして、こんな、ことに……)
視界がゆがむ。銀霧はのどにせりあがってきたものを、黒い気持ちとともに吐き出した。地面の赤い血だまりを、他人事のように見つめる。
「あっちに反乱軍が逃げたぞ、追え!」
野太い男の声に次いで、複数人の足音が、そう遠くはない場所から聞こえた。気がついた時には、銀霧は数人の兵士に囲まれていた。真ん中の男以外は、全員軽装備だ。銀霧が嫌いな魔法使いであることの印。銀霧は光を失った瞳で、前を見た。
(もう、いい。殺せ。)
諦めの気持ちとは反対に、手は剣の柄に向かう。どんなにぼろぼろになろうとも、武士の心だけは消えていないのだと、今更ながらに気づく。リーダーらしき男は、殺気を隠そうともしない手下を片手で制し、自身は刀を抜いた。
「すぐに殺してしまっては、おもしろくないだろう?」
少なくとも典型的な魔法使いではないらしい男はそう言うと、銀霧にずかずかと歩み寄った。どうしてこの男はこんな面倒なことをするのだろう、と思いながら、柄をにぎりしめる手の力を強めた、その時。渡り鳥の鳴き声が、銀霧の耳に届いた。
(鳥……?)
しかし、銀霧の周りの誰も、鳴き声に気を取られた様子はない。あんなに、鮮明に聞こえたのに。その凛とした鳴き声に背中を押されるようにして、銀霧はよろりと立ち上がった。腰から、こちらは剣を引き抜く。
「ほう、剣か。刀士もいいが、やはり剣士も捨てがたい。これぞ命を懸けた戦いよな」
男はだれに言っているのかわからないことを呟いた後、片方の眉を上げて見せた。
「おまえ、名は?」
「……銀霧」
「銀霧、良い名だ。私の名を、冥土の土産に教えてやろう。影丸……参る!」
影丸、という男はその名に似合う俊敏な動きで、思い切り突っ込んだ。視認が困難なほどの速さで、刀を振り下ろす。しかし、振り下ろした先に銀霧はいなかった。軌道を予測し、とっくに避けていたのだ。銀霧は影のように粘っこい追撃をかいくぐって、隙をついて相手の懐に飛び込んだ。相手も十分強いが、速さでは、こちらも負けていられない。銀霧は、得意技である渾身の突きを、敵の腹にめがけてお見舞いした。臓器に剣が食い込む、生々しい感触。銀霧は返り血を避けながら、痛々しい表情で、剣を引き抜いた。
影丸は、自身の腹に突き刺さった剣を、夢にいるような心地で眺めた。
(こいつ……)
「ごぼっ」
口から血を吐き出しながら、地面に手をつく。視界のふちに、歯をくいしばって自分を見つめる、銀髪の青年が映った。
―おまえになら、この技を渡しても……。
その記憶を最後に、影丸は地面に倒れ伏した。
この瞬間に、世界が決まった。
銀霧は、訪れた悲しみの沈黙が、次第に怒りに変わったのを感じて、その場に立ち尽くした。しかし、すぐに限界が来た。立つこともできず、膝から崩れ落ちる。それを勝機と見たか、いや、おそらく関係ない。仲間の一人が、不意に無言で、銀霧に襲い掛かってきた。他の者も、それに続く。それぞれの手の内には、赤や緑、青と言った、様々な原色の魔法が握られている。誰も、音を一切発しなかった。人の怒りがある一線を越えたら、言葉さえも忘れるのかもしれない。
銀霧は、怒りの矛先が自分に向かうのを感じながら、目を閉じ、後ろの壁に背をあずけた。……はずだった。
さっきまであったはずの壁が、なくなっていた。
「……!?」
傾けた重心を今更戻すこともできず、銀霧はそのまま、後ろ向きに倒れた。抵抗もできず、闇に落ちてゆく。最後に見えたのは、怒りと憎しみに燃えた敵の顔だった。
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