第69話

 俺の恐怖心は摩耗していた。生き物にとって恐怖というのは、自己防衛の初動段階として備わっているものであり、生き残る上で重要なものだ。


「ドラゴン」


 襲われればひとたまりもない。それはわかっている。


 俺は布切れに液体を染み込ませ、腰に下げた。途端にベノンが鼻を押さえ咽せた。


「酢?」


 俺はうなずいた。ずいぶん前に魔獣使いポーから聞いた話だった。ある種のドラゴンは酢の匂いを嫌う。そのある種がどの種であったかまでは憶えておらず、つまりは気休めにすぎない。


「よし、先に進もう」


 山を登りながら、これは前進なのかと俺は考えていた。底なしの沼にはまり込んでいるような不快感が常にある。いや、今にはじまったことじゃない。ここが沼なら底まで沈んでやるだけだ。底がないなら不快な泥を腹一杯飲み込んでやる。


「ベノン、君は降りてもいいんだ」


 ベノンには過酷な旅を続ける理由がない。俺の思いに付き合う義理もない。魔王フロイの再封印など、成し遂げられる保証もない。


「それではカザンはどうして歩く?」


「俺はアネムカを、いや、ユーリップにもう一度会いたいだけだ。ただの我儘だ。だから君がこの旅に命を賭ける価値なんてない」


「再会したらそれで終わりか? あとは煮るなり焼くなり好きにしろと吸血鬼の魔王に云うのか?」


「わからない、そんなことは」


 ふん、とベノンは鼻を鳴らし好きにするさと呟いた。次の瞬間ベノンは眉間に皺を寄せ、俺に静止するよう仕草で伝える。何があったと問おうとするのを無言で制し、目線だけで今いる尾根とは別の稜線を示した。


 男がひとり、歩いている。


 あれは。


 俺は無声音で、パキスニと云った。マゼーのダンジョンで殺し合いをした棺桶職人。特異な雰囲気を纏った顔色の悪い男が、今ふらふらと山を登っている。


 パキスニはどうやら怪我をしている。ベノンは俺のそばまで来て、耳元で云った。


「いいか、あんたは僧侶じゃない、妙な慈悲心は発揮するな」


「え、あ、それは」


 パキスニとは棺桶が作りたい、その願いのもと死体を増やそうとしていた男だ。俺は多分お人好しの部類なのだろうが、さすがにそんな奴まで気にするほど愚かではない。


 愚かでは。


 しかし、怪我をしている。足を引きずり、衣服は破れ血も滲んでいる。


「なにかあったのか。しかしベノン、あれでも元パーティメンバーだろ、いいのか」


「感情でパーティを組んでいたわけではない。私が云うのもなんだが、あいつはクズだ。自分以外はどうとも思っていない」


 そう云えばダンジョンで初めて遭遇した時も、垢じみた半裸の少女を鎖で繋ぎ、酷い扱いをしていた。もっともその少女も、所謂普通ではなかったのだが。


 こんな北の山で何をしている?


 不意に頭を押さえつけられ、俺は地面の砂を噛んだ。押さえつけてきたベノンに抗弁しようとしたその時、頭上を大きな影がいくつも横切っていった。


 ドラゴンだ。一頭や二頭ではない、恐ろしい牙と爪を有した魔物の王が、何頭も空を飛び去っていく。


 赤銅色のドラゴンがパキスニの真ん前に降り立った。その姿に見覚えがある。


「デアデフイ」


 ベノンが呟いた。デアデフイがパキスニが連れ回していた少女の名前だ。彼女はただの人ではなく、人でありながら竜に変化することができる特殊な種族、竜人族だった。


 デアデフイと思われる赤銅色のドラゴンは、腰が砕けたような姿勢でうずくまっているパキスニを見下ろしていた。ここからではパキスニの表情までわからず、言葉を発していたとしても当然聞こえない。


 パキスニの肩が震えている。泣いているのか、怯えているのか。


「あいつ、笑ってる」


 ベノンが云った。この状況でなにを笑うと、俺が目を凝らしたのと同時に、パキスニはデアデフイの吐いた炎で一瞬で消し炭となった。


 因果応報、だとは思う。


 周りを飛んでいたドラゴンが満足げな雄叫びをあげる。その声は北の乾いた風に乗り、山の麓まで轟いていった。


 応声。それは魔王ネロドマイガの地獄の叫びだ。


「まずい、ドラゴンの存在に魔王が気づいた」


 あの享楽的な破壊者たちが、魔物の王を捨て置くことができるか。答えは否だ。


 肌の粟立ちでわかる。悪意が岩ばかりの山を駆け登ってくる。


「カザン、逃げるぞ」


「あ、ああ」


 巻き込まれれば確実な死。俺は急いで立ち上がりとにかく走った。今まで幾度もどうでもいいと思った生が、極限の状況に置かれるとやはり大切になる。


 生きることがどうでもいいなど強がりだ、自棄になっているだけだ。


 ゼンガボルトは、フィは、


 最前までは頭の隅にあったその二人のことも忘れ、俺はひたすら山を駆け登った。どこに身を隠しても無駄なように思える。


 竜の咆哮に背骨を引き抜かれるほどの恐怖を覚える。これは生き物としての、当然の怯えだ。


 いくつかの夜といくつかの山を越え、小さな湖のほとりにぽつぽつと集まって建つ家々を発見した。


「余所者を受け入れてくれるだろうか」


 俺がそんな懸念を示すものの、断られて簡単に引き下がるほどの余裕もない。


 直近の荒屋のような家の戸を叩く。老爺がひとりで暮らしているようだ。


「こんな山ん中で、なにしてる」


 訝しむ老爺に、俺は適当な嘘をついたが余計に疑念を抱かれただけだった。


「出てけ」


 老爺は背中に回していた腕に力を込めた。


 次に訪れたのは四人家族。祖母らしき老齢の女性とその娘、そして孫が二人。


「泊めてあげたいのだけど、家も狭くてね。寝る場所がない」


 諦め半分で訪ねた三件目の家は、若い夫婦と赤ん坊の三人家族だった。開けたドアから侵入した夜気に驚いたのか、静かに寝ていた赤ん坊が泣きはじめる。


「すいません、こんな夜分に。一晩寝床をお借りしたい」


 若い母親は子をあやし、父親が応対する。


「夜具は家族の分だけです、それでもいいですか」


 暖炉の火があるだけありがたい。俺は深々と頭を下げ、ベノンを招じ入れた。


 ドアを閉めるその間際、遠くから遠吠えが聞こえた。


「狼……いや、ドラゴンか? ここしばらく鳴き声を聞いていなかったが」


 俺は感謝の意味を込めて残った食材でチーズシチューを作った。ろくな具材はなかったが、パンをつけて食べれば腹に溜まるし暖まる。


 却ってすいませんと父親が恐縮する。


 ベノンは食卓の下、俺は入り口の前で眠る。満足な睡眠は取れないが、屋根や壁のあるところで横になれるだけありがたい。


 朝日がのぼる前に起き出し身支度を整えた。近くの小川で顔を洗っていると、いつの間にかベノンが立っていた。さすがに気配がない。


「な、なに?」


「カザン、頼みがある」

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