第35話 貴族の理不尽と庶民の矜持
しばらく無言で歩いていると、ふとセシルがエリスに向かって言った。
「ねぇ、今日の舞踏会、なんだかんだで楽しかったよね?」
「そうだね……途中色々あって疲れたけどさ」
「ディラン様と踊れたのも、エリスと踊れたのも、すっごくいい思い出になったよ!ありがとう、エリス!」
その笑顔にエリスは少し気が緩んだ。
(でも……まだ油断しちゃダメ。ゲームのこの後の展開では――)
その時、エリスは周囲の気配に気づいて足を止めた。セシルもそれに気づいて振り返る。
「どうしたの、エリス?」
「……気をつけて、セシル。誰かが近づいてくる」
セシルが不思議そうに首をかしげたその瞬間、暗がりから数人の女性たちが静かに姿を現し、二人をじりじりと取り囲むように立ちはだかった。
「まぁまぁ、こんな夜更けにお散歩ですの? 庶民にしては優雅な夜遊びですこと」
先頭に立つ一人の女性が、皮肉たっぷりの笑みを浮かべながら冷ややかな声で話しかけてきた。その言葉の棘は明らかに敵意を帯びている。
(出た、嫌味第一段! まったく、ゲーム通りのセリフすぎて逆に笑えてくるわ……)
しかし、顔には微塵も動揺を見せず、冷静さを保ちながら状況を見極めようとしていた。
そんな緊張感漂う空気の中、セシルはまったく気負うことなく、のほほんとした口調で答える。
「いえいえ、散歩じゃなくて帰り道なんですよ~」
女生徒たちは顔を見合わせ、一瞬だけ気まずい沈黙が流れた。しかし、すぐに先頭の女生徒が冷笑を浮かべ、皮肉たっぷりの声で口を開く。
「随分と余裕なご様子ですわね。でも、庶民には庶民らしい分をわきまえていただかないと困りますの。ディラン様と踊ったからといって、図に乗られては困りますもの」
その言葉に追随するように、別の女生徒が吐き捨てるような口調で言い放つ。
「そうよ、調子に乗らないでほしいわ」
さらにもう一人が冷たい視線を向けながら囁く。
「身分をわきまえない行動には、それなりの報いがあるものよ」
「報いって……?」
セシルは目をぱちくりと瞬かせ、まるで意味がわからないといった様子で尋ねる。
「私たち、何か悪いことしましたっけ?」
その無邪気な反応が、女生徒たちの苛立ちにさらに火をつけた。
「そうやってとぼけていられるのも今のうちですわ。ディラン様を利用して学園内での地位を上げ、よからぬことを企んでいるのは見え透いていますの」
「利用……?」
セシルはますます首をかしげ、素直な声で答える。
「そんなこと、考えたこともないですよ?」
その反応に女生徒たちは逆に苛立ちを募らせ、ついにその本音を吐き捨てる。
「……本当に嫌らしい庶民ですわね。そうやって無邪気なふりをして権力者に取り入り、いずれは学園を支配する側に回るつもりなのでしょう?」
(いや、誰がそんな高度な策略を考えるのよ……!ってか、セシルがそんなこと考えられるわけないでしょ!)
心の声を押し殺しながら、エリスはじりじりと一歩前へ出て、無言でセシルの前に立った。その視線は冷静でありながら鋭く、セシルを守る意志がはっきりと宿っていた。
しかし、当のセシルは状況をまるで理解していないようで、きょとんとした表情を浮かべたままだった。
「え、ディラン様を籠絡って……そんな難しいこと、私にできると思います?」
そのあまりにも素直な一言に、女生徒たちの苛立ちはさらにヒートアップする。
「とぼけるのもいい加減になさい! その無知なふりが一番腹立たしいのよ!」
怒気を帯びた声が夜道に響く。しかし、セシルはまるで怯むことなく、困ったようにエリスへと振り返る。
「ええっ!? でも、本当に何もしてませんよ? ね、エリス!」
助けを求めるような視線に、エリスは小さくため息をつきつつ、冷静な声で答えた。
「セシルは何もしていません。陰謀や策略を考える知恵は、セシルにはありませんので、ご安心ください」
その真顔で放たれた言葉に、セシルは一瞬きょとんとした後、首をかしげた。
「それって……褒められてるの? けなされてるの?」
女生徒たちはさらに逆上した。
「……だから、無知なふりもいい加減になさい!」
女生徒の一人が苛立ちを隠さず声を荒げる。
「庶民のくせに上流階級に取り入って、何を企んでいるのか知らないけど……これ以上は許しませんわ!」
その理不尽な糾弾にも、セシルは怯むことなくぽつりと呟く。
「でも……ディラン様から声をかけてくださったんですよ?」
その何気ない一言が、女生徒たちの怒りにさらに火を注ぐ。
「だからって、普通なら断るでしょう!」
怒鳴るような声が響き、女生徒たちの苛立ちは頂点に達していた。
「分をわきまえない行動が、どれだけ迷惑をかけるか分からないの!? 身の程を知りなさい!」
(出た、理不尽の極み!)
一方、セシルはまだ納得がいかない様子で、首をかしげながらぽつりと呟いた。
「でも……誘ってくれたのに断るのは失礼じゃないですか? お誘いを受けたら、お礼を言って楽しく踊るのが礼儀だと思うんですけど……」
その言葉に女生徒たちの苛立ちはさらに募り、ついに一人がエリスを鋭く睨みつけた。
「あなたも何か言いなさいよ! 友人なら、彼女にもっと分別を教えるべきでしょう?」
(いやいや、どんな理屈よ!?)
エリスは内心で盛大にツッコミを入れつつも、表情は冷静なまま淡々と答えた。
「セシルはただ、ディラン様のお気持ちに誠実に応えただけです。それに……彼女の言う通り、お誘いを断る方がかえってディラン様に失礼かと」
その冷静な返答に、女生徒たちはさらにムッとした表情を浮かべ、声を荒げる。
「いいえ、今後はちゃんと断りなさい! あなたたちみたいな庶民が、ディラン様にどんな悪影響を及ぼすか分からないもの。これに懲りて、二度と身分をわきまえない行動はしないこと。いいわね?」
「えええっ!? そ、そんなぁ……」
セシルは本気で困惑した様子で声を上げ、戸惑いを隠せない。
その時、女生徒たちの中でもリーダー格と思しき人物が一歩前に出て、冷たい笑みを浮かべながらわざとらしくため息をついた。
「まったく……言葉でわからないのなら、体で覚えてもらうしかないかしら?」
「え、教えるって……何を?」
セシルは依然として状況を理解しておらず、無邪気に首をかしげながら尋ねる。その無防備な反応に、女生徒の一人が薄笑いを浮かべ、腕を組んで冷たく言い放つ。
「庶民は庶民らしく、大人しくしていればいいのに。余計なことをするとどうなるか、少しお勉強していただきましょうか」
「ええ、本当に。お勉強は大事ですものね」
リーダー格の女生徒が同調しながら、じりじりと二人に詰め寄ってくる。
エリスは内心で冷や汗をかきながらも、表情には動揺を見せず、セシルをかばうように更に一歩前に出た。そして穏やかな笑みを浮かべながら、はっきりとした口調で言い放つ。
「お勉強は結構ですが、私たちも立場というものがありますので、何かあればディラン様にご報告することになりますよ?」
その一言に女生徒たちはピタリと動きを止め、互いに顔を見合わせた。しかし、リーダー格の女生徒はすぐに冷たい笑みを取り戻し、静かに言い放つ。
「脅しのつもりかしら? いいわ、あなたたちが泣きつく前に礼儀を教えて差し上げますわ。そうしたらそのふざけた脳ミソも、少しはましになるでしょう」
その声は氷のように冷たく、舞い降りる夜風さえも張り詰めるような緊張感が漂った。
「ねぇ、どうしてそんなに怒っているんですか?」
セシルは相変わらずのんびりとした調子で問いかけた。その声が張り詰めた空気の中で妙に浮いて聞こえる。
(いや、この空気感でもそのテンションを維持できるの、逆にすごいな!?)
エリスは心の中で盛大にツッコミを入れつつも、表情は変えずに状況を注視していた。
リーダー格の女生徒は冷たい笑みを崩さぬまま、ゆっくりと一歩前へ出る。そして低く、静かに呟いた。
「本当に……腹立たしいわね」
女生徒の一人が勢いよく手を振り上げる。その指先からは淡い光がにじみ出し、微かに揺らめく魔力の痕跡が空気を震わせた。まるで小さな雷光のように手元がきらめき、ただの平手打ちでは終わらないことを予感させる。
「礼儀を教えてあげると言ったでしょう?」
その声と同時に、光を帯びた手がセシルの頬へ向かって勢いよく振り下ろされようとした――。
「セシル!」
エリスは咄嗟に反応し、セシルの前に飛び出した。
鋭い音が夜の静寂を切り裂くように響く。
エリスの頬に赤く浮かび上がる手形。それでも彼女はぐっと痛みを堪え、顔をしかめることなく立っていた。
「エリス、大丈夫!?」
セシルが慌てて駆け寄り、心配そうにエリスの顔を覗き込む。
エリスはじんじんと広がる痛みをこらえながら、セシルに向かってかすかに笑みを浮かべた。
「だ、大丈夫……平気だから」
女生徒たちは、エリスが身を挺してセシルを守ったことに一瞬戸惑いの表情を浮かべた。しかし、リーダー格の女生徒は冷たい視線を向けたまま、薄く笑う。
「自分から庇うなんて、見上げた根性ですわね。でも――それで済むと思って?」
さらに追い打ちをかけようとした、その時だった。
「――そこで何をしている?」
低く静かな声が夜の空気を切り裂いた。その声音には怒気すら感じさせぬ冷徹な響きがあったが、逆にそれが場の空気を一瞬で凍りつかせた。
女生徒たちの顔色がサッと青ざめ、恐怖と動揺が入り混じった表情で声の主の方へ視線を向ける。
そこに立っていたのは――ディランだった。
「ディ、ディラン様……!」
女生徒たちは驚きと動揺で言葉を失い、わずかに後ずさる。
(よ、ようやく来た……助かった……!もう少し早く来てほしかったけど!)
胸の奥で安堵が広がるものの、顔には微塵も出さず、静かに成り行きを見守る。
「何をしていたか、説明してもらおうか」
ディランの低く冷徹な声が静寂を貫き、その鋭い視線が女生徒たちを射抜く。その瞬間、場の空気は一変し、彼の存在だけで完全に支配された。
女生徒たちは必死に弁明を試みるが、その声は震え、焦りが隠しきれない。
「そ、それは……私たちはただ、少しお話を――」
「暴力を振るうことがお前たちの『話』か?」
ディランの冷淡な言葉が鋭く突き刺さり、女生徒たちは完全に萎縮する。
沈黙の中、彼は一歩前に出て、冷酷なまでに厳しい口調で言い放った。
「これ以上騒ぐなら、お前たちの家にも責任を問うことになるぞ。今すぐ立ち去れ」
その一言で、女生徒たちは顔を強ばらせ、悔しさを滲ませながらも逆らうことなくその場を後にした。
彼女たちが去った後、辺りには再び静寂が戻る。しかし、エリスの頬には赤くはっきりとした手形が残っている。
それに気づいたセシルは、慌てて駆け寄り、心底心配そうな表情で声をかける。
「エリス、大丈夫!? 痛くない?」
エリスはセシルを安心させるために笑顔を作り、軽く首を振った。
「大丈夫だよ。これくらい平気だから」
(めっちゃ痛いけどね! でもここで弱音を吐くわけにはいかない!)
内心では必死に痛みに耐えながらも、平静を装うエリス。しかし、セシルはなおも心配そうな顔で覗き込む。
「赤くなってるよ……すぐに冷やさないと!」
(気持ちはありがたいけど、今はそこじゃない。ここがゲームの重要な分岐点!セシルがゲーム通りの台詞を言えば、ディラン様との親密度が大幅に上がるはず)
しかし、ちらりと横目でセシルを見る。
(……でも、今のセシルの様子じゃ絶対に言わなさそうなセリフなんだよね……)
エリスは内心で焦りながら、何とかしてセシルからあのセリフを引き出そうと必死に考えた。慎重にタイミングを見計らい、ディランに聞こえないよう小声で囁く。
「セシル、ディラン様にはちゃんとお礼を言っておいた方がいいよ。それと、もう私たちのことは気にしなくても大丈夫です、って伝えるといいかも」
「え? うん、もちろん!」
セシルは素直に頷くと、ディランに向き直り、明るい笑顔で言った。
「ディラン様、助けてくださってありがとうございました!」
(……違う、そうじゃないのよ! その後に突き放すようなセリフも付け加えないと!)
エリスは心の中で頭を抱えつつ、諦めずにもう一度誘導を試みる。
「ほら、これからはそんなに気にかけなくても大丈夫です、みたいなことも言ってみたら?」
期待を込めた視線を送るが、セシルは目を丸くして即座に否定した。
「ええっ!? そんなの言えないよ! また何かあったら困るし、ディラン様が助けてくださる方が安心だもん!」
あまりにも素直な意見に、エリスは思わず天を仰ぎ、心の中で深いため息をつく。
(この子にあのセリフを言わせるのは……やっぱり難しいな……)
仕方なく、エリスは覚悟を決め、自らそのセリフを口にする決意を固めた。
「ディラン様、本当に助けてくださってありがとうございました。でも……もう私たちに構わないでください」
セシルは困惑した表情で振り返り、「え? どうしてそんなこと言うの? ディラン様がいないと、また――」と戸惑いの声を漏らす。
「……さっきみたいなことがあったら、どうするの?」
セシルの小さな呟きに、エリスはそっと微笑みかけた。
「大丈夫だよ、セシル。これからは私が守るから」
その声は優しく穏やかでありながらも決意に満ちていた。
(そう、ここはヒロインらしく堂々として見せるべき場面! ゲームでもこのセリフで親密度が上がったし、これで間違いない……はず、だよね)
そう自分に言い聞かせながらも、エリスの心臓はバクバクと音を立て、緊張で喉が渇くのを感じていた。
一方、ディランは無表情のままエリスをじっと見つめていた。その視線には冷静さだけでなく、どこか探るような鋭さが宿っている。
沈黙の時間がやけに長く感じられ、エリスは思わず息を飲む。
(うわ、なんかすごく見られてるんだけど!? これ、本当に正しい選択肢だったよね……?)
ようやくディランは静かに口を開いた。
「……お前がそう言うなら、口出しは控えよう。強がりは悪いことではない。ただ、無理をしすぎて倒れられても困る」
その穏やかな声に、一瞬エリスは固まった。
(このセリフもゲームにあったはず……。だ、大丈夫、これはシナリオ通りの展開!)
しかし、実際に言葉を向けられると、ゲーム内で読んだ時よりも心に刺さる。
ディランは淡々とした口調のまま、さらに続ける。
「何かあれば、すぐに知らせろ。お前たちの判断に任せるが、一人で抱え込む必要はない」
その優しさを含んだ言葉に、エリスは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じながら、精一杯の笑顔を浮かべて答えた。
「ありがとうございます、ディラン様。でも、私たちで何とかしますので!」
(いや、本当は何ともならない気がするけど……ここは毅然としておくべき場面だし!)
ディランはエリスの言葉を受け、ふっとわずかに口元を緩めた。
「……なら、お前の言葉を信じよう」
その瞬間、エリスの胸の内には小さな歓声が響いた。
(やった、成功した……!)
ディランのわずかな笑みが、まるで親密度が確かに上がった証拠のように思えて、思わず心が弾む。
「それじゃあ、エリス、そろそろ戻ろうか?」
セシルの明るい声が、ふわりと静寂を和らげる。
「うん、そうだね!」
エリスはディランに向き直り、深々と頭を下げた。
「ディラン様、本当にありがとうございました!」
その言葉を後に、二人は並んで寮への道を歩き出す。
しばらく歩いた後、セシルがぽつりと呟いた。
「ねえ、エリスってすごいね。本当に私のこと、守ってくれて……」
不意に投げかけられた素直な言葉に、エリスは少しだけ足を止め、照れ隠しのように笑う。
「あ、あはは……まあ、セシルは大事な友達だからさ!」
夜道を進む二人の笑い声は、静かな夜空へと溶けていく。
そして、その背後で。
ディランは静かに立ち尽くし、遠ざかる二人の背中をじっと見つめていた。
「……無理をしていなければいいがな」
その低く落ち着いた声は、夜風に紛れて、誰にも届くことなく消えていった。
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