第21話 完璧の裏側
翌日、霧が飲み物を買いに校舎を歩いていると、隅っこの方で何やら噂話をしているグループが目に入ってきた。
「なあ、知ってるか?鳳条さん家、今揉めてるらしいぜ」
「え、マジで?何があったの?」
霧は足を止め、近くの自販機でジュースを買いながら耳を澄ます。
「なんか親族間でいろいろ争っていてさ、跡継ぎとか遺産のことで揉めてるんだって」
「それって鳳条さんも関係あるの?」
「あるらしいよ。なんか親がすっごく厳しいらしくて、彼女に一番期待してるんだってさ。学業でもプライベートでも失敗が許されない感じっていうか」
霧は「失敗が許されない」というフレーズが妙に引っかかった。無意識に、そのグループに近づいていく。
「なあ、それって本当の話?」
霧はジュースを片手に会話に割り込むように声をかけた。
驚いたように振り返った生徒たちの中の一人が、からかうような表情を浮かべる。
「なんだよ桐崎、鳳条さんのこと気になるのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ……」
霧は言葉を濁しながらも、興味を隠す気はなかった。
「ただ、親族間で揉めてるとか、鳳条がプレッシャーかけられてるって話、ちょっと信じられなくてな」
「意外だろ?」
別の生徒が口を挟む。
「鳳条さんって、いつも堂々としてるし、何でもできるから、まさかそんなドロドロした家庭の中で生きてるなんて思わないよな」
「まあな。で、具体的にはどんな感じなんだよ?」
霧はさりげなく話を引き出そうとする。
生徒たちは顔を見合わせ、やがて一人が口を開いた。
「なんかさ、鳳条さんの家って結構古い家柄らしいんだよ。親戚とか親族がいっぱい集まる系の。で、誰が次の家を引っ張るかとか、遺産をどうするかとかでいろいろ揉めてるらしい」
「で、鳳条さんのお母さんが、その争いで頭一つ抜け出したいってんで、三条さんにやたら厳しくしてるらしいんだよ。『お前は鳳条家の看板になるんだから』とか、そんな感じでな」
「鳳条家の看板?」
霧は眉をひそめた。
「そう。学業でも何でも、全部パーフェクトでいろってさ。しかも親戚中が彼女を監視してるような状況だって聞いたよ。そりゃプレッシャーで普通は潰れるよな。でも鳳条さんは……」
「潰れていない、ってことか」
霧がその言葉を継ぐと、生徒たちは頷いた。
「そうなんだよ。むしろあの余裕っぷりがすごいよな。冷たいとかキツいとか言われるけど、あれも仕方ないのかもな」
霧は黙って聞きながら、昨日の路地裏で見た瑠璃の姿が頭に浮かんだ。
「……まあ、あんまり噂話に首突っ込むのもどうかと思うけどさ」
霧はジュースを片手にため息をつき、「鳳条さんも大変なんだな」とぼそりと呟いた。
「お前、鳳条さんのこと好きなのか?」
突然の問いかけに、霧は盛大にジュースを吹き出しそうになった。
「は!?いや、そんなわけないだろ!好きになる要素がない!」
慌てて否定する霧を見て、生徒たちは面白がるように笑い声を上げた。
「いやいや、そんなに慌てるってことは図星じゃないの?」
「だから違うっての!お前ら、マジで変な勘違いすんなよ!」
霧は本気で嫌そうな顔をしながらその場を立ち去ったが、胸の中では別の感情が湧き上がっていた。
(偉そうでムカつく奴だと思っていたけど、あいつも背負うものが多いんだな……)
ジュースを飲み干しながら、霧は瑠璃のことを少しだけ違う目で見始めている自分に気がついた。
霧が夜の校内にいたのは、先生から「悪いけど資料室で明日の授業用の資料を準備しておいてくれないか」と頼まれたからだった。理由を聞けば、他の生徒に頼む暇がなく、たまたま霧が近くにいただけらしい。「手伝ってくれたら特待生としての評価に手心を加えるから」と言われてしまえば断れず、渋々引き受けたのだ。
昼間のうちに済ませればよかったものの、結局後回しにしてしまい、気づけば周囲は真っ暗。静まり返った廊下は妙に不気味で、霧は自然と足を速めていた。
そんな中、ふいに聞こえた微かな声に、霧は思わず立ち止まる。
「……無理だよ……」
かすかな、けれど確かに女性の声。それは耳元で囁かれるような低さで、廊下の奥から響いてきた。霧は背筋がぞくりとするのを感じた。普段ならあり得ない静寂の中、明らかに自分以外の誰かがいる。
(ちょ、待てよ……まさか幽霊じゃないよな?)
霧は笑って誤魔化そうとしたものの、口元が引きつる。誰もいないはずの廊下で漏れ聞こえた声に、全身の毛が逆立つような感覚がする。意を決して、声のする方向に足を向けると、廊下の先の窓辺に、月明かりに照らされた人影が見えた。
人影は肩を震わせながら、時折顔に手を当てているようだった。長い髪が微かに揺れる姿はどこか儚く、霧は無意識に足を止めた。
「……私に、できるわけない……」
再び漏れ聞こえた声。その瞬間、霧は人影の正体に気づいた。
(あれ、鳳条……?)
見間違えるはずもない。完璧で冷静な鳳条瑠璃が、今、自分の目の前で泣いている。それは幽霊どころではない衝撃だった。いつも毅然とした態度で他人を突き放す彼女が、こんなにも弱さをさらけ出しているなんて。
霧は足を前に進めるべきか悩んだ。だが、彼女の肩の震えや、時折つぶやく弱音に、言葉をかけるどころか声を発することすら躊躇してしまう。
(……どうしたんだよ、あいつ。一体何があったんだ?)
衝撃のあまりその場を動けずにいた霧だったが、ふいに踏み出した足がわずかに床を擦る音を立てた。
瑠璃がはっと顔を上げ、こちらを振り返った。その目には驚きと、わずかな怒りが混ざっていた。視線がぶつかった瞬間、霧は心臓が止まりそうになる。
「誰?」
静かで冷たい声が廊下に響く。
「……俺」
逃げ場を失った霧は仕方なく答えた。
瑠璃は、わずかに赤らんだ目元を隠すように顔をそらしながら、いつもの冷静さを取り繕うように言葉を発した。
「……ここで何をしているの?」
その声は平静を装っていたが、どこか硬い。霧は一瞬ためらったが、肩をすくめながら答える。
「いや、頼まれた資料集めるのに時間がかかっただけ。鳳条さんこそ、こんな時間に何してるんだよ?」
瑠璃は一瞬、言葉を詰まらせた。その目が一瞬だけ揺らぐ。だが次の瞬間には、いつもの刺々しい口調が戻ってきた。
「……あなたには関係ないわ」
突き放すような言葉と態度。それでも霧はどこか違和感を覚えた。強がるような姿勢の裏側に、ほんの少し隠しきれない何かが透けて見えたからだ。
「そりゃそうだ。俺には関係ないよな」
霧は軽く頷きつつ、少し声を落として続けた。「でもさ、なんかあったなら話くらい聞くよ?別に深い意味はないけどさ」
その軽い口調に、瑠璃は少しだけ目を見開くが、瑠璃の視線は霧ではなく夜の闇へと向けられていた。
「余計なお世話よ」
その返答は鋭く、いつも通り冷淡だった。しかし霧には、その声の奥底に揺らぎを感じられた。まるで普段の強気な態度が薄い膜のように張り付いているだけで、その向こう側には別の瑠璃が潜んでいるようだった。
霧はそれ以上何も言わなかった。
しばらくの沈黙の後、瑠璃は深く息を吐いた。
「もう夜よ。やることが終わったなら、さっさと帰れば?」
「鳳条さんは?こんな時間に、まだ帰らないのか?」
「私は迎えの車が来るのを待っているだけ。それだけよ」
(……さっさと帰れってことか。まあ、俺がここにいても邪魔なだけだろうな)
「わかった。じゃあ、お先に」
霧は短く言い残し、くるりと背を向けた。足音が廊下に響くたび、彼の胸の中に奇妙な感覚が広がる。いつも強気で強情な鳳条瑠璃が、あの場所で一人、迎えを待つ姿。夜の闇が彼女を包み込み、いつもより小さく見えた。
振り返りたい気持ちをぐっと堪え、彼はそのまま校舎を後にした。
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