俺は彼女に養われたい

のあはむら

第1話 貧乏と野望

 桐崎霧は、幼少期から変わった夢を抱えていた。彼の目には、他人が汗水流して働く姿が滑稽に映っていたのだ。勤労?根性?そんなものは彼の辞書には存在しない。彼の哲学は至極単純明快だった。


「人生、楽してナンボだ!」


 霧はその哲学を胸に、ひとつの究極の夢を掲げた。それはヒモとして生きること。世間一般では「怠け者」と罵られそうな夢だが、彼にとっては崇高な人生の目的だった。


 だが、ヒモになるのは簡単ではないことも、彼は薄々分かっていた。何より大切なのは、支えてくれる相手――お金持ちで、面倒見が良くて、ちょっとくらい彼の自由奔放さを許してくれるような女性を見つけること。それさえできれば、後は楽な人生が待っている。


(要は、金持ちと結婚すればいいんだ。どう考えても最短ルートだろ?)


 霧の目はギラついていた。怠惰の美学を追求するため、彼は行動を起こす。人間には努力するべきときもある。もちろん、それは自分のためではなく、他人の富に寄生するための努力だった。


 桐崎霧は、生まれてこのかた一度も「勤勉」という言葉に魅力を感じたことがなかった。だが、ここ最近の彼は違った。日夜机に向かい、参考書を広げ、まるで命を削るように勉学に励んでいる。その理由は単純明快だ。彼が目指しているのは、ただの進学校ではない。「桜華院学園」――全国屈指の名門校であり、選ばれし金持ちたちの楽園だ。


「勉強は嫌いだ。でも、この苦労の先に楽な人生が待っているなら話は別だ」


 そんな言葉を吐きながら、彼はペンを握る手を止めない。彼の脳内では常にイメージが駆け巡っている。広大な邸宅、リムジンでの送迎、そしてお嬢様が淹れてくれる紅茶。それを思えば、徹夜だろうと何だろうと乗り越えられた。


 もちろん、家は裕福ではない。いや、むしろその逆だ。古びたソファで、姉の桐崎かすみがため息をつきながら聞いてきた。


「霧、本当に大丈夫なの?勉強って、あんたが一番嫌いなことでしょ?もし合格できたとしても、成績を維持しないといけないんだよ?」


彼は椅子の背もたれにぐでっと寄りかかり、ニヤリと笑う。


「大丈夫、大丈夫。俺、やるときはやる男だからさ。まぁ、これも将来のための投資ってやつ?」

「投資って、ヒモになるための?」と呆れた声を返す姉。

「そうそう、人生を効率的に生きるための努力ってやつだよ!」

 姉は半ば諦めたように首を振るが、霧は気にする様子もない。その自信満々な姿が彼女をかえって不安にさせるのだった。



桜華院学園に特待生として入学する――それは、桐崎霧が掲げた野望の第一歩だった。もっとも、かすみは内心では合格など到底無理だと思っていた。桜華院は偏差値も倍率も高く、特に特待生枠など天才たちの戦場だ。そんな場所に昼寝と無駄話が得意な弟が入れるわけがないと考えていたのだ。

「霧、合格できなくてもあまり落ち込まないでね。そのときは神様が馬鹿なこと言ってないで真面目に働けってあんたに言ってるのよ」

 霧は顔をしかめ、両手を大げさに広げた。

「姉ちゃん、それ、本気で言ってんの?」

「本気よ。働くって選択肢も考えたほうがいいでしょ?」

 かすみは真剣な顔で言い放つ。

しかし、霧は肩をすくめ、わざとらしく天井を見上げた。

「いやいや、ちょっと待てよ。そもそも神様が俺に『働け』なんて言うと思う?そんな酷い神様、俺の守護神じゃないよ」

「じゃあ、あんたの守護神は何て言ってんのよ?」

 かすみは呆れながら問い返す。霧はニヤリと笑い、椅子にふんぞり返った。

「俺の守護神はこう言ってるね――“桐崎霧よ、貴様は働くために生まれたのではない。もっと効率的に生きろ”ってな!」

「……あんたの守護神、どう考えてもロクな神様じゃないわね」

「失礼な!俺の神様は天才だよ?だって考えてみろよ。働いても働いても税金で持ってかれるだけだろ?そんな苦行を進んでやるなんて、人間として間違ってる」

「…間違っているのはあんたでしょ!そういうことばっかり考えるから駄目なんだって!」

 かすみは思わず声を荒げた。だが、霧はそれでもどこ吹く風だ。ゆっくりと椅子を揺らしながら、さらに付け加えた。

「それにさ、仮に俺が落ちたとしても、俺がヒモになるって夢は終わらない。なんてったって、俺にはこの顔と、この頭脳があるからな!」

「顔も頭脳もあんまり期待できないけど…?」

「言うねぇ。でも、これだけは言っておくよ、姉貴。俺が合格する確率、これ宝くじよりは高いだろ?」

「低いけどね」

「まぁまぁ、低いって言ってもゼロじゃないんだからさ。俺は努力する男だぜ?見てろよ、俺の本気を!」

 実際に霧はここ数ヶ月、本気で机に向かい続けていた。効率重視の彼らしく、要点だけをまとめた自作ノートを広げ何度も復習を重ねる。


 数週間後、台所から様子を見ていたかすみが驚いた顔になる。

「…ほんとに頑張ってるみたいね」

 霧は振り返りもせず、鉛筆を動かしながら答えた。

「そりゃそうさ。俺は目標のためなら手段を選ばないタイプだからな。」

「…ま、ちゃんと勉強してるならいいか」

 かすみは呆れながらも、弟の珍しい努力を密かに認めつつあった。



 桜華院学園からの特待生合格通知が届いたとき、桐崎かすみはその封筒を何度も裏返して見た。差出人の名前は確かに「桜華院学園」。内容も紛れもなく「特待生としての合格」。だが、彼女の脳はどうしてもこの現実を受け入れられなかった。

「ちょっと待って…霧、これ本物なの?」

「ん?そりゃ本物だろ。他に何があるんだよ?」

 霧は通知を片手にひらひらさせながら、薄っぺらいソファに腰掛ける。「いやー、俺の才能がやっと評価される時代が来たって感じ?」


 かすみは呆れ半分、困惑半分の目で彼を睨む。

「だって桜華院って、偏差値も高いし倍率もすごいんでしょ?それに特待生なんて…どう考えても普通は無理だよ」

「普通はな。でも俺は普通じゃないから」

 霧はソファにだらしなく座りながら、ふと面接の時のことを思い返した。


「桜華院学園を志望した理由は何ですか?」


 霧はその問いに、一瞬の間を置いた。目の前には、学園の威厳をそのまま体現したような厳格そうな面接官が三人。普通の受験生なら、この場で怯むところだ。しかし、桐原霧は違った。口角を上げ、堂々とした態度でこう切り出した。

「桜華院学園は日本中のトップクラスの人たちが集まる場所です。学力だけでなく、教養やリーダーシップを身につける環境が整っています。それに、この学園には僕のような人間が挑戦する余地があると思っています」


「あなたのような人間、というのは?」

「正直に申し上げると、僕の家は裕福ではありません。恵まれた環境の方々とは異なり、僕は“制約の中で工夫する力”を武器にして生きてきました。この学園で学べば、その力をさらに広げ、社会の中で役立つ存在になれると信じています」


 面接官たちの目に、ほんの少し興味の色が宿る。

「なるほど。ですが、桜華院学園には多くの競争があります。周囲は優れた環境で育った生徒ばかりです。それでも戦える自信はありますか?」


「もちろんです。むしろ、その環境に飛び込むことで、自分をさらに高めたいと思っています」

 彼は少し言葉を切り、視線をしっかりと面接官に向けた。


「僕が戦える理由は、限られた環境で磨いてきた“問題解決力”です。たとえば、学校行事で予算が足りないとき、どうすれば最大の成果を出せるのか。日々の生活の中で、限られたものをどう生かすかを考えるのは、僕にとって当たり前のことなんです」


「具体的には?」


「もし学園で全校生徒を巻き込む新しいイベントを企画するとして、予算が限られていたら、僕ならまず“お金をかけない方法で人を惹きつける仕組み”を考えます。たとえば、生徒が得意なスキルを活かせるような『コンテスト形式』にして、外部からスポンサーを募ることで費用を補填するなどです。アイデアの積み重ねで、どんな問題でも解決できます」


 面接官たちのひとりが頷きながらメモを取る。

「興味深いですね。最後に、桜華院学園での経験を通じて、あなたはどんな未来を描いていますか?」

 霧は少し考えるように視線を落とし、それから言葉を選ぶように話し始めた。

「僕は、この学園でさまざまなバックグラウンドを持つ人たちと出会い、視野を広げたいと思っています。そして、僕自身の得意な“発想力”を磨き、それを活かして社会に貢献できるような存在になりたい。限られた資源の中でも最大限の成果を生み出す方法を見つけ、それを世界に広げたいんです」

 面接官たちは静かに頷き合った。そして霧は、最後に少し冗談めかして笑顔を見せた。

「もっとも、まずは自分の学園生活をどう最大限に楽しむか、それが最初の挑戦ですね!」

 面接官たちはその一言に思わず微笑み、面接は終了した。


 霧がソファで面接の記憶に浸りながらニヤニヤしていると、かすみが台所から現れた。手には水滴が残るまな板を持っている。

「ねぇ霧、さっきから思い出し笑いしてるのやめてくれない?気持ち悪いから」

霧は顔を上げて、わざとらしく得意げな笑みを浮かべた。

「別にそれぐらいいいじゃん。すげー勉強したんだし。余韻に浸らせてくれよ」

 かすみは冷めた目で霧を見つめ、まな板を軽く振りながら言った。

「それで?合格したはいいけど、本当にやっていけるの?桜華院なんて、お金持ちの集まりでしょ?」

「そんなの初めから分かってるよ。むしろ、金持ちが集まるから入るって決めたんだよ。今さらそれ言うか?」

「ふーん。じゃあ、向こうで金持ちの中に入っても恥をかかない自信があるってわけ?」

 霧は涼しい顔でソファに肘をつき、脚を組んでみせた。

「当然だろ?俺が特待生に選ばれたのは実力だからな。それに、お嬢様たちに俺の魅力が伝わったら、むしろ向こうから頼られる存在になるかもな!」


 かすみはため息をつきつつも、その余裕たっぷりな弟の姿に少しだけ笑みを浮かべる。そして、ぽつりと呟くように言った。

「…ま、合格できたのはほんとにすごいと思うよ。おめでとう」

 霧は驚いたように顔を上げる。

「お、姉貴が認めた!これ、歴史的瞬間じゃないか?」

「調子に乗らないの!」

 かすみは苦笑しながら、軽く霧の頭を叩いた。それでも彼女の口元には微笑みが残っている。

「でも、頑張ったんだから、そこは素直に褒めとくわ」


 霧はその言葉に、満面の笑みを浮かべながら大げさに胸を叩く。

「だろ?でも、これで終わりじゃない。桜華院で俺の伝説を作ってくるからな!」

「伝説を作る前に、まず退学しないようにね」

 かすみは軽くため息をつきながら台所に戻った。

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