第9話 次なる目的地へ
沈黙が漂うバーの中。
重たい空気が、まるで鉛のように胸にのしかかる。
その沈黙を最初に破ったのは、リリサだった。
「……気分が悪いわ。なんなの、あれ?」
苛立ちを隠しきれない声だった。
先ほどテレビに映っていた、黒の軍服を身にまとった女たち――ノヴァリスへの怒りと困惑が滲んでいる。
「分からない。ただ、間違いなく東京をこんな目に遭わせた張本人たちだろう。いたずらにしてはタチが悪すぎるし……ノヴァリス、だっけ? あの赤毛の男も、奴らの仲間だろうな。」
自分なりの分析を口にしたとき、リリサはバンッと机を強く叩いた。
その音が、静まり返った空間に鋭く響く。
「そんなの、分かってるわよ!」
怒鳴る声。
普段の冷静なリリサからは想像もつかない、剥き出しの感情だった。
「分かってる……! そんなこと、誰よりも分かってるわよ……でも……!」
拳をぎゅっと握り締め、唇を噛む。
怒りの奥には、不安と恐怖が見え隠れしている。
「何が起きているのか分かっているのに、どうしようもないのが……一番、ムカつくのよ!」
吐き出すようなその言葉に、有紀は何も言い返せなかった。
それはきっと、自分自身が一番感じていたことだったから。
「お、おいおい、そんなに怒鳴るなって……ここ、バーなんだから……いや、まぁ今は関係ないか。でも、深呼吸くらいはしよう?」
見かねた東明が、少し気弱な笑みを浮かべて声をかける。
場を和ませようとするその言葉も、リリサの耳には届かない。
彼女は鋭い視線を東明に向けた。
その目には、怒りというより――切羽詰まった獣のような、追い詰められた光が宿っている。
「ひっ……お、落ち着いて! お願いだから!」
東明は思わず身を引きつつも、声だけは必死に絞り出す。
震え混じりのその声が、ようやくリリサの耳に届いたのかもしれない。
鋭かった目つきが、徐々に和らいでいく。
肩がわずかに震え、拳をゆっくりと解いて、リリサは深く息を吐いた。
「……ご、ごめんなさい。私としたことが、冷静さを失っちゃって……」
バツの悪そうに、視線を逸らしながら俺と東明に謝るリリサ。
落ち着きを取り戻したとはいえ、彼女の内心はまだ波立っているのがわかる。
「いや、気にするな。誰だって、あんな映像を見ればそうなる。」
有紀は静かに言った。
自分に言い聞かせるように。
「そ、そうそう! あんなもん、誰だって取り乱すって! むしろ、よく今まで冷静だったくらいだよ!」
東明が慌てて相槌を打つ。
その言葉に、リリサはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
それでも――心の奥に巣食う恐怖は、決して消えることはなかった。
「……それで、このあと、どうする?」
再び口を開いたのはリリサだった。
さっきまでの苛立ちは影を潜め、冷静さを取り戻したその瞳には、確固たる意志が宿っている。
「まずは避難所を目指すのがいいと思う。」
東明が少し前のめりになり、慎重に言葉を選びながら提案する。
「ここに立てこもるだけじゃ、いずれ見つかるリスクもあるし、避難所なら医療や食料の支援も期待できるからね。」
「うん、それが一番現実的ね。」
リリサが頷く。
「あの赤毛の化け物みたいな奴が、たった一人だけなんて思えないもの。だったら、国家の力を頼るのが賢明よ。」
その言葉に、有紀も大きく頷いた。
「俺もそう思う。避難所へ向かおう。」
否定する余地なんてない。生き延びるための最善策だ。
リリサも東明も、俺も――それぞれの想いは違えど、目指すべき場所は同じだった。
「それじゃ、避難所に決定ね。近くの避難所は……どこだったかしら?」
その問いに、東明が即座に答える。
「一番近いのは……そうだな、東京インフィニティ・タワーの近くだね。そこに避難所が設置されているはずだよ。」
「インフィニティ・タワー……」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がきつく締め付けられる。
一華たちの顔が、脳裏に鮮明に浮かび上がる。
決して忘れていたわけじゃない。
ただ、思い出すたびに胸が締め付けられるから、忘れたふりをしていただけだ。
もし最悪のことが頭をよぎったら、もう立ち直れない気がしていた。
(もしかしたら、一華たちはもう避難所にいるかもしれない)
(いや、そうであってほしい)
だからこそ、俺は――あそこへ行く。
「それじゃあ、さっそく向かうわよ! こんなところでぐずぐずしてられないわ!」
リリサの言葉に、俺たちは無言で頷き、バーから出る準備を始めた。
立ち上がると、先ほどまで感じていた痛みが驚くほど和らいでいる。
東明の能力――<治癒促進>の効果を、改めて実感する瞬間だった。
「……その前に、ちょっと確認しておきましょう。」
リリサがピタリと足を止め、真剣な眼差しで俺たちを見渡す。
「あなた達の“能力”の共有をしておくべきだわ。避難所へ向かう道中、やつらに遭遇しない確証はない。むしろ――戦闘になる可能性の方が高いと思う。」
その言葉に、俺も東明も思わず頷いた。
確かに、あの赤毛の男や黒い軍服の女たちを思い出すだけでも、そんな「可能性」がただの杞憂で済むはずがないとわかる。
「能力の共有をしておけば、戦いの中でお互いの動きを活かせるわ。」
リリサの冷静な判断に、納得するしかなかった。
「じゃあ、俺から話すな。」
俺は一歩前に出て、短く説明する。
「俺の能力は<加速>。シンプルに言えば、身体能力を一時的に強化して、動きを速くする能力だ。」
「なるほど、加速ね……」
リリサは顎に手を添え、ふむ、と納得したように頷く。
「次は僕かな。」
東明が穏やかな笑みを浮かべ、軽く手を挙げる。
「さっき見せた通り、僕の能力は<治癒促進>。自己治癒力を活性化させて、回復を早めるだけのシンプルなものさ。でも――」
ふっと少し真剣な表情に変わる。
「直接戦う力にはならないけど、誰かの命を繋ぐことができるなら、それだけで十分だと思ってる。」
その言葉には、確かな覚悟が宿っていた。
戦えないからこそ、守れるものがある――そう言っているようだった。
「そして、最後は私の番ね。」
リリサがゆっくりと前に出る。
その鋭い視線が、まるで空気ごと切り裂くような強さを帯びていた。
「私の能力は――」
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