第5話:過去の帳簿
朝の冷えた空気が旅館の廊下を満たしていた。
昨夜の出来事が頭から離れない。
鏡の中に映った"影"。燃え盛る炎。囁かれた言葉——「思い出してください」。
敬介は宿を出る前に、フロントで女将を見かけた。
(……何か聞けるかもしれない。)
そう思い、カウンターに近づくと、女将は静かに帳簿の整理をしていた。
ふと、その古びた帳簿の中に、開かれたままのページが目に入る。
何気なく視線を落としたその瞬間、敬介の心臓が跳ね上がった。
——そこに書かれていたのは、自分の名前だった。
「……なんで……?」
震える手で帳簿を引き寄せる。
記載されている日付を見て、敬介は息を呑んだ。
10年以上前——
(おかしい。俺は昨日ここに来たばかりのはずだ。)
敬介の指が、名前の部分をなぞる。
「森山敬介」
たしかに、自分の字と一致している。
だが——敬介は、この旅館に来た記憶がまったくない。
「……俺は、本当にここに来たことがあるのか?」
声に出してみるが、答えはない。
女将の気配を感じて顔を上げると、彼女は静かに敬介を見つめていた。
「……お客様、何か?」
敬介は言葉を飲み込み、わずかに首を振った。
「いや……なんでもないです。」
女将は微笑み、ゆっくりと帳簿を閉じる。
「それなら、よろしければ朝食のご用意をいたします。」
——何かを隠している。
敬介は確信した。
この旅館には、"何か"がある。
それも、ただの噂や怪談ではなく——
"俺自身"に関わる何かが。
部屋に戻った敬介は、朝の出来事を考えていた。
自分の名前が帳簿にあった。10年前の記録に——。
「……俺は、ここに来たことがあるのか?」
考えても答えは出ない。
そして、その夜。
敬介は、再び鏡の前に立った。
部屋の灯りがぼんやりと映る。
鏡の表面は、昨夜砕けたはずなのに、何事もなかったかのようにそこにあった。
(……修理したのか?)
いや、それにしては早すぎる。
じっと見つめる。
自分の姿が映っている。
——いや、違う。
鏡の中の"自分"が、違う何かに変わりつつある。
「……またか……!」
敬介は後ずさる。
鏡の中の"影"が、じっと彼を見つめている。
そして、静かに囁いた。
「おかえりなさい。」
心臓が止まりそうになる。
(……違う。俺は、ここに"帰ってきた"わけじゃない……。)
だが、その瞬間、頭の奥に強烈な痛みが走る。
目の前に、"記憶の断片"がよみがえった。
——燃える柱。
——煙の中で泣き叫ぶ声。
——炎の中で、誰かが手を伸ばしている。
——燃え盛る炎の中、小さな子どもをかばおうとする女性の姿。
髪は乱れ、着物は煤け、顔の一部は焼け焦げている。
だが、その目だけが、異様に鋭く光っていた。
そして——
"逃げろ!"
誰かの声が、耳の奥で響いた。
「……っ!」
敬介は息を荒げながら、鏡を凝視した。
影は、にやりと微笑んだ。
そして、ゆっくりとその姿を変えていく。
——それは、焼けただれた女性の姿だった。
「お前は……誰だ?」
敬介が声を荒げると、影がゆっくりと口を開いた。
「……あなたは、知っている。」
その瞬間、部屋全体がぐらりと揺れた。
照明が一瞬だけ暗くなる。
敬介は目を見開き、もう一度鏡の中をのぞく——
そこには、自分ではない"何か"が、鏡の世界からこちらを見ていた。
「——思い出せ。」
その声が、頭の奥深くに響く。
——そして、敬介は"すべて"を思い出し始めた。
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