第2話 千年にひとりのごちそう②
扉の中は
きちんと正装したこわもての大男が立っていたが、入り口の扉が開いてまた閉まったことにも、
少女はおっかなびっくり大男のわきをすり抜けながら、声を殺して少年にたずねた。
「ど……どうして? このひと、わ、わたしたちが見えないんでしょうか」
「そのとおり、見えねえんだ。信じられんことにな!」
少年は声をひそめようともせずに答える。
「気配さえしぼっておけば鼻先を通ったって人間どもは気づかねえ。どいつもこいつもおまえ同様、頭が固いからだ!」
少女はぎょっとして大男の反応をうかがったがやはり気づいた様子はなく、
「……!」
反動ではねかえる防音ドアをくぐってすべりこむと、
思いがけないほど高い
テーブルの半分が客で
人間は彼らがそばを通っても気づかないが、人でないものはこちらを見るからだ。
しかもそれぞれ目を
「おい見ろよ、マハーカーラだ」と相席の
「ごきげんよう、ハディード様」とわざわざ立ちあがって古風に一礼する者。
「たいそう味の良さそうな
でっぷり太ったガマカエルがイボだらけのあごをなでるとなりで、
「しいっ、手なんか出したらこっちが食われる」
一見普通の人間だがやけに耳のとがった若者がひひひ、と首をすくめて忍び笑う。
そしてみな一様に、むきだしの食欲にぎらつく目でじいっと少女を見送るのである。
そのままステージわきのドアを入り、地下へとのびるらせん階段をたっぷり三階分は降りただろうか。どん
「アイシャ! 相も変わらず、しちめんどくせえとこに住みやがって!」
少年は、不作法な
「深いところが好きなのですわ」
ぞくりとするほど官能的な、
「ようこそおいでくださいました、
「覚えてない。アイシャ・カンディーシャ、今日はな……」
と性急に言いかけるのをさえぎって、女性の低めの美声がものやわらかになじる。
「
「じゃあなんと呼んで欲しい?
「まあ、
少女はすっかり気おくれしてしまい、戸口手前の暗がりに立ちすくむ。
乱れ飛ぶ
墓場で目にした
あの時少年は、
そしてあの、天地を押しひしぐような気を放つ、恐ろしい第三眼──。
神話伝説の語る破壊神の姿、そのものではないか。
(も……もしかしてわたし、とんでもない神さまについて……来ちゃった?)
少女は思わず逃げ道を求め、らせん階段をふり返る。そこへ、
「そちらの
退路を断たれ、少女は震えながらぎくしゃくと戸口へ進む。
「……!!」
息をのんだ。
大きな鏡台の前でくつろぐ楽屋のあるじは、太陽も色を失う
恐ろしいほど美しい
「まあ、愛らしい
「やらんぞ」
破壊神はすかさず真顔で釘を刺す。だが
「でも
煙は妖しい紫色で、なにか麻薬めいて甘い香りがした。
生きた心地もせず後じさる少女をよそに、破壊神は当然のような顔をして続ける。
「だからおまえのところに来たんだろうが! なんとかこいつをもたせられねえか」
「もたせてどうなさいますの。まさか身体を探すおつもりとか」
「生き霊なんだ。身体に戻しゃ、元気になるだろ」
「あまり良いお考えとは思えませんけれど……」
「俺の勝手だ」
「ええ、そう。貴方はいつも勝手な方」
なよやかな、光り輝く蛇のように美しい左手が宙を泳ぐ。
ちん、とその、
かと思うとすでに、その手の中にクリスタルのグラスが出現している。
グラスの中ではサファイアを溶かしたような透きとおったブルーの液体が、たった今つがれたばかりといった様子で、ゆらゆらと
「こちらへ、娘さん」
少女は
「いいか、絶対にやつの手には触れるな」
「?」
「あいつは手で生き物の気を吸う。触れたらおまえなんざ一瞬で吸い尽くされちまうぞ」
少女は真っ青になり全身をこわばらせたが、かろうじて小さくうなずいた。回れ右して逃げ出したいのを必死でこらえ、膝を震わせながらもなんとか
破壊神の忠告は聞こえたはずだが、
かえって興味をそそられた様子で目もとをゆるめ、少女にグラスを差し出す。形のいい指は受け手に触れないよう礼儀正しく、グラスの長い脚の先の方をつまんでいた。
「どうぞ、お飲みなさいな、意外と勇敢な娘さん。できればだけれど」
「は……はい」
少女は
だが半透明の手はなんの抵抗もなくグラスを突き抜け、空をつかんでしまった。
「!?」
あせって二度、三度と試すが指にはガラスの感触も、液体の感じすら伝わってこない。
「手おくれですわ」
「もうグラスもつかめないんですもの、ねえ
(は、早く……なんとかこれを飲まないと食べられちゃう!)
恐怖に肌がそそけ立つ。
絶望に追いつめられ頭が真っ白になった瞬間、少女の中でなにかがはじけた。
考えるより先に手が動き、グラスを両手で包むようにつかまえていた。
手のひらにひやりと、つめたいクリスタルの感触が伝わると同時に、少女は無我夢中で飲み物の、怖いほど見慣れない深いブルーをあおった。
「……!!」
強いお酒でも入っていたのか、火のような熱さがのどを
(あっ……)
ごめんなさい、と言おうとした時、不意に視界が、
だが、
「!?」
見ると、深い
ついさっきまでその中に
なにがなんだかわからず、息をのむしかない。
その時、
「……あっ」
少女は、自分の手がもはや透きとおってはいないことに気づいて、ぱっと童顔を輝かせた。
「あの! あ、あ、ありがとうございま……」
感謝しようとあわてて立ちあがって
楽屋が、消えていた。
いや、
「驚きましたわ」
頭上はるか、およそ二十階建てのビルのてっぺんあたりから
声も出なかった。
黄金の
その
するとちりちりと涼しい音をたてながら、巨大なグラスのかけらが宙に浮きあがり、見る間に元通り組みあがって消えた。
「す……すみません」
他に言葉が見あたらず、少女はぼうぜんとつぶやく。
「いいのよ」
山のような
また、ちりちりと響き始めた音に驚いてふり向くと、いつ割れたのだろう、巨大な
あっという間に傷ひとつなく復元した。
天にも届きそうな鏡を見つめ、少女は、あれを壊したのもわたし? と、ぼんやり思う。
そうかもしれない。
さっき墓地で墓石を倒したような力がまた出たのかもしれなかった。
そして、グラスも
「見かけによらず、辛みのある娘さんですのね」
「だろう」
「でも娘さん、覚えておおきなさいな」
山の高みからふり向けられたブラックオパールの視線の重みを受け止めきれず、少女のひざはがくがくと
「
「は、はい……気をつけます」
と少女が言うのを見届けて、
「では、お代をいただきますわ」
「いくらだ」
「十六年」
なんのことだろう、と思う間もなく、破壊神の足が黒い
やっとの思いでじゅうたんの糸にしがみつき、顔をあげると、
「取れ」
破壊神が
手にはなにも持っていなかった。
いやそれより、さっき
「!!」
ぞっとするような間があった。
「!」
今にも破壊神の額に第三の
「まあ、このわたくしが、
やんわりとなじるが、本音かどうかはわからない。一方、
「その気になりゃあ勝ち目は五分五分のくせに、いつもいいところでひいちまいやがって」
残念がる破壊神は本気だった。
そのしなびて見えた手はすでにもとに戻っていたが、
「この出し惜しみ女め! たまにゃあ本気で勝負してみようとは思わねえのかよ!」
「それは……わたくしにとって貴方の気は極上の美酒、いつかは貴方を殺してそこにお持ちの命の核、
「ひとつしかない大事な命を危険にさらすのは嫌ですの。まだ貴方に食べられてしまいたくはありませんもの。わたくしはこの星がなくなるまで長生きしたいのです。貴方にも長生きしていただいて、たまに取引で気を味見させていただければ満足ですわ」
ほとんど友情と見まごう、不思議な暖かさのこもった微笑とともに首をかしげる。
「
「よけいな世話だ。またな、アイシャ」
無愛想にきびすを返す破壊神の言葉を、
「珠貴です。ところで
「なんだ?」
「その娘さんにはもう、身体に戻ったあとのことについてきちんと説明なさいました?」
言われて、一寸法師サイズの少女をつまみあげようと身をかがめかけていた破壊神は動きを止めた。ちらっとめんどうくさそうな顔をする。
「そんなのいつだっていいじゃねえか。こいつだってもうわかってるだろ」
「わかっていないと思いますわ」
「…………」
山のような二者にそろって視線をそそがれて、少女は腰が抜けそうになった。
ややあって破壊神が決心したらしくひざをつき、つめたい銀の瞳で少女をのぞきこむ。
「おいおまえ、ここでひとつだけ約束しろ」
「ど、ど……どんな約束でしょう?」
「無事、身体に戻ったら俺と戦え」
言われて少女はぼうぜんとなった。
神話の神と自分が戦う? できるわけがない!
「ほら、
「た、た、戦うってでもわたし、そ、そんな、ちゃんと戦ったりなんかできません!」
泣きそうになりながらも正直に言わずにはいられない少女に、破壊神はにやっとした。
「アホウ。技量なんざ求めてねえ。おまえが本気で戦えばそれでいいんだ。できるだろ」
「ほ、本気でまじめに戦えば、そ、それでいいんですか?」
オリンピックのようなものなんだろうか、と思ってしまったのは緊張と恐怖で頭がまともに動いていなかったからにちがいない。しかし破壊神は寛大な面もちでうなずいた。
「おまえが真剣でさえあれば文句は言わん」
「じ……じゃあ、や、約束します」
「よし。
「はい?」
「口に出して誓え。身体に戻ったら必ず俺と戦うと。さあ言え」
「わ……わ、わたしは身体に戻ったら、必ず、ス……スサノオさんと戦います」
という自分の言葉があたりの空気を震わせた瞬間、なにか、取り返しのつかないことをしでかしてしまったという実感が全身を貫き、少女はぞっと立ちすくんだ。
強い魔法でもかかってしまったような感覚があった。自分はきっとこの誓いを守らなければならなくなるだろう。いや、守る気がなくても、この誓いは必ず実現するにちがいない。
「よし!」
破壊神はほとんど無邪気に見えるほど、心底嬉しそうに顔を輝かせ、
「まあ、残念」
ゆったりと寝椅子にもたれ直し、水タバコの吸い口を取りあげる。
「心からお祝いを申しあげますわ。その娘さんをお食べになれば、貴方も昔の力を取り戻されることでしょう」
「えっ……た、食べる!?」
本気でまじめに戦う、とは約束したが、食べられる、などと約束した覚えはない。
仰天して固まる少女を見て、
「まあかわいそうに、知らなかったの?
「え……えいよう……?」
「霊力のことよ」
紫色の煙をくゆらす
「貴女ほど霊力のある方はとても、とてもめずらしいの。それで〈千年にひとりのごちそう〉と呼ばれ、珍重されているのですわ。目にするだけでも運がいいのに、そのまま食べてしまえる生き霊状態で出会うなんて……」
(ごちそう……)
ショックのあまり
少女はその場に倒れて気を失った。
◆
少しして、地下の店から出てきた破壊神は、まだのびたままの一寸法師サイズの少女を、猫の
だがさすがにそのままでは落とすかもしれない、と気づいたのだろう、肩布のひだに包んで胸もとに抱きこみ、そのままひょいと空中へ飛び立つ。
その姿が夜空にまぎれて見えなくなって間もなく、ビルの壁じみの中にぱちりと赤い目が開いた。続いて軒下の陰の中でもぱちり、ぱちりと大小さまざまな目が開く。
「なあ、あれは、しんらさまの探しておられた例の……」
「うむ、生き霊娘だったようだが」
「まだ消えてなかったとは……蛇姫の薬をのんだかよ」
「あれは
「うむ、
「それにしてもなぜあの娘があのような、おそろしい者の手に?」
「お伝えせねば」
「せねば」
つぶやく異形の目たちが、ざわざわと陰の中へ沈んで消えていくのを目撃したのは、燃えるように明るい、月だけであった。
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