タイムリ・スタート
ひろちゅん
第一部 Timely Start−瞬−
第1章 遭遇者・高瀬葵
第1話 止まった視線
―現在/
映像編集の徹夜明け。社会人2年目、
蒸し暑さでシャツが肌にぴったりと張り付く。呼吸が重い。
足は地面に触れているはずなのに、ひどく不安定で、自分の歩みすら信じられない。
午前八時十八分。
都心の大きな交差点。
赤信号で立ち止まった人々の群れのなかで、葵はぼんやりと立ち尽くしていた。
空は白く明るく、夏の太陽がビルの縁を鋭く照らしている。ペットボトルの水を口に含むと、ぬるかった。鼻腔には、奮発したモーニングのトーストの匂いが残っている。胃が重く、少し気持ち悪い。ただ、その不快さだけが、今日という日を「実感」させていた。
喧騒。人波。スマホ。急ぎ足。
――誰かの落としたコンビニの袋が、風に転がっていく。
誰も気にしないが、なんだかおかしい。
誰もがどこかへ向かって動いていく。
自分だけが取り残されているような――そんな感覚。
このズレは、高校3年の時から時々やってきた。
時間の流れが、どこかで、よじれているような。
時々、すぐそばを通り過ぎる人の声にならない感情が、天気予報みたいに頭に流れ込んでくることがある。「焦り」や「喜び」といった色のついた空気が、自分の心に流れ込んできて、ほんの少しだけ息苦しくなるのだ。
自分だけが違うチャンネルに迷い込んでしまったようなあの感覚。
(……人生は、これがずっと続いていくだけなの?)
そのときだった。
視界の端で、何かが動いた。
小さな子供が、母親の手を振りほどくようにして、歩道の縁石を越え、車道へ。
母親はスマホに夢中で、周囲に気づいていない。
子供はふらふらと、まっすぐ車道へ向かっていく。
(危ない――!)
反射的に声を出そうとした瞬間、音が遅れてやってきた。
黒いセダンが、まるで視界を裂くように突っ込んできた。
ブレーキ音も、クラクションもない。
ただ、地面を削るような摩擦音だけが重く響いた。
その瞬間――世界が、歪んだ。
音が鈍り、空気が凍りついたように重くなる。
あらゆる動きが、ゼリーに沈むように遅くなった。
(えっ……止まった……の?)
実際に止まったのではなく、そう感じただけ。
だが、葵には、それが世界が静止した一瞬のように感じられた。
その沈黙と同時に頭の中に、何かが入り込んできた。
風の反響のような、耳鳴りのような。
けれど、音ではない。
それは、意識の奥に流れ込む思考の波だった。
次の瞬間、まるで耳の奥に直接叩き込まれるような声が、唐突に脳内を揺らした。
憎悪と怒りをはらんだ激情が思考に流れ込んでくる。
『…また止めやがったな! またお前が歪める気か?』
その声は、冷たい刃物のように思考の奥まで突き刺さる。
息を呑むほど、異質で、怖かった。
――だが、その冷たい声とは別に、もう一つの巨大な何かが、思考の奥で渦巻いていた。それは言葉ではない。音もない。ただ、無数の計算式と未来予測が、灼熱の奔流となって叩きつけられるような、凄まじい『意志の熱量』だった。
意味は分からない。
けれど、その奔流の中心にいる誰かが、世界そのものに抗おうとしていることだけは、肌で感じ取れた。
その意志は、最適解を導き出すように、世界を冷静に分析する思考となって流れ込む。
『……記憶しろ……構図。間隔。母親の肩。子どもの視線。風。投てき角度。位置。衝突までの秒数――全部……』
(……すごい。誰かが、世界を設計図に描き起こすみたいに、全てを計算している……これが、あの奇跡の正体……?)
その美しい思考の奔流に、突如として汚泥のような思考が割り込み、それを乱そうとする。
葵は、これが単なる葛藤ではなく、二つの明確な意志による「戦い」であると直感する。
その冷静な分析を嘲笑うかのように、再び感情的な声が響いた。
『……救うつもりか? ただの自己満足だ。正義を名乗るには、滑稽すぎる』
(違う……これは一人の人間の思考じゃない。誰かが何かを組み立てようとしているのに、別の誰かがそれを内側から、必死に壊そうとしている……!)
二つの思考の応酬を、葵はより具体的に体感する。
あくまで冷静に分析を続ける思考。
『思考を整えよ!……繰り返せ!……母親の反応時間、0.3秒。子供の進行位置確認済み……』
その思考を妨害するように、激情の応酬が叩きつけられる。
『やめろ!また壊すつもりか、見苦しい。救うつもりか?ただの自己満足だ』
(まるで、彼の頭の中で、光と闇が戦っているみたい。でも、あの冷たい声は、彼の内側から聞こえるというより、外から彼を乗っ取ろうとしているような……そんな気味の悪さがある)
そして――何者かたちの声が急に消えた。
――それと同時に、視界の端で、青年が動いた。
その青年は、黒髪で深緑のリュックを背負い、使い込まれた図面ケースを肩にかけていた。
人波の中、背負ったリュックと肩にかけた図面ケースを、瞬時に外した。
その一連の動作には、迷いも躊躇もなかった。
まるで、もうすでに何かの答えを知っているかのような動きだった。
ただ、足元のアスファルトを見つめている。
(なに……?この人、何を――)
葵は、目を逸らせなかった。
青年は、動いた。
右手に持った図面ケースを、強く前方へ――
「バンッ!」
鋭い音が交差点に鳴り響いた。
ケースがアスファルトに叩きつけられ、空気を裂くような乾いた音が響く。
子供が驚いて足を止める。
母親がようやく顔を上げ、反射的に手を伸ばした。
その直後。
黒いセダンが二人の目の前をかすめ、街路樹に激突した。
ガラスが砕け、金属が軋む音があたりを震わせた。
その瞬間――スローモーションだった世界が「動き出した」ように感じた。
音が戻り、人々がざわめく。
交差点全体が、まるで、目を覚ましたように揺れ始める。
「うそ……今の……」
「子供、無事!?」
「……なにかが飛んできた……?」
ざわめきの中、葵はただひとつのことに気づいていた。
あの青年は、一瞬たりとも母親や子供、車に視線を動かさなかった。
その横顔は、まるで「ここに誰もいない」かのようだった。
それなのに、完璧なタイミングで、完璧な位置に投げ、母親に子どもの危機を知らせ、気づかせた。
彼がしたことは、その場で目にして助けたのではない。
あのとき、彼の視線は――母親にも子供にも向いていなかった。まるで、必要ないかのように。それだけは、なぜか確信できた。
まるで、あらかじめ世界の動きすべてを記憶していたかのように――
彼は、迷いなくそこに立っていた。
(あの人、……本当に知ってたの……?)
偶然なんかじゃない。
そして、人間の直感でもない。
それが、葵には――まるで、神の
騒然とする交差点。
だが、葵はまるで音のない空間に取り残されたかのように、ただ彼の背中を見ていた。
騒ぎに背を向け、歩き去っていく青年。
ふと、視界の隅に、歩道の植え込みで黙々とゴミを拾う小さなおばさんの姿が映った。誰もが事故現場に目を向ける中、彼女だけが顔色一つ変えず、ただ手元のゴミ袋に空き缶を入れている。その無関心さが、逆にひどく異質に見えた。
一度も振り返らず、何も確認せず。
まるで最初から結果を知っていた者のように。
彼の動きは、奇跡のようで――
同時に、ひどく不気味だった。
葵の中に残っている、あの冷たく刺さるような声。
――壊すつもりか
――滑稽すぎる
――歪める
あれは、あの青年に向けられた「誰か」の思念。
明確な敵意と、抑えようとする強烈な意思。
けれど、それすらも青年は振り払うようにして、まっすぐ歩いていった。
それがなぜか、とても痛ましく、同時に異様だった。
そしてもう一つ。
重なるように流れ込んできた、もうひとつの思考。
冷静で、整っていて、計算され尽くした判断。
葵には、その声の持ち主もまた、「何かを背負っている」のだと、なぜか思えた。
彼は、見なかった。
それなのに、完璧に届かせた。
その姿に、葵はどうしようもなく強く、ある記憶を重ねていた。
***
(……届かなかった、あの手)
目を閉じれば、高校3年生のあの夏の海が浮かんでくる。
水中で揺れる指。波に呑まれていく背中。
どれほど叫んでも、その背中は振り返らなかった。
必死で伸ばした自分の手は、あとほんの少しのところで触れられなかった。
あれ以来ずっと、自分は「何も届かない人間」なのだと、そう思っていた。
***
――けれど――
今、あの人の背中を見ていると、思ってしまう。
(もしもう一度、手を伸ばせるなら)
ただの衝動かもしれない。
理由なんて、きっと誰にも説明できない。
でも、今逃せば、この感覚もきっと消えてしまう。
目の前のこの背中に、もう一度手を伸ばす。
それは、自分自身の届かなかった過去を超えるための行動だった。
たった一歩。
でも、その一歩は、確かに何かを変えるはずだ。
交差点のざわめきを背に、葵はその背中を追って歩き出した。
この一歩が、葵を止まった時間の奥深くへと導いていくことになる。
それは、まだ葵自身にも予想できないことだった。
――そして葵は、あの日止まっていた視線の続きを、やっと歩き始めるのだった。
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