カフェーの女

藍﨑藍

第1話

 路地裏の女の声がダンスホールから漏れる音楽にかき消されなかったのは、運命と言うより他ない。

 社屋から外へ出た三木みきは寒さに身を震わせた。空腹のまま都電へ乗ることはできず、ビールと書かれた丸看板に足が向く。そのとき、男女が言い争う声が聞こえてきた。凍てつく空気を割って響くその声に、三木は足を止める。


「お放しくださいませ」

「チヨちゃん、少しくらい遊んだって良いじゃあないか」


 三木が先ほど通り過ぎた細い路地へ戻ると、男が女の腕を掴んでいた。

 夜の銀座はあやしく光る。眉をひそめたくなるほど煌々こうこうと輝いていたネオンの光もここまでは届かず、まばゆい光に慣れた目では状況を解するまで時間がった。


「なあ、一緒に帰ろう」


 女を力づくで引きずり始めた男を見て、三木はたまらず近づいた。男の肩に手を置き、相手を刺激しないように穏やかな声色を作る。


「失礼。何かお困りでしょうか」


 男が振り返ると強いアルコール臭が鼻につく。顔をしかめたくなったが、三木は表情を繕った。


「何だ? 何か文句でもあるのか?」


 初老の男は首を左右に動かしながら据わった目で三木を見上げた。気圧されそうになるが、肩に置いた手に力を込める。


「そちらのご婦人がお困りのようにお見受けしましたので」


 生来の性格に反し、上背のある三木は相手に威圧感を与えることが多い。三木の本意ではないものの、今回ばかりは上手くいったらしい。表通りまで連れ出すと、男は舌打ちを残して千鳥足で離れていった。


「ありがとうございました」


 男が見えなくなると、女は深々と腰を折った。女の声には落ち着きが感じられたが、鈴のように澄んでいて不思議と胸に染みわたる。


「いえ、大したことでは」


 春に大学を出たばかりの三木は、日がな一日新聞社で使い走りをさせられている。礼を言われる居心地の悪さに喉が詰まる。思わず視線を落とすと、顔を上げた女は上品に微笑した。


「何かお礼をさせてくださいませ。そうですね、ご夕食はお済みですか」


 改めて見ると、華やかな化粧をしたこの女は大層な美人である。柳眉に黒く大きな瞳。銀座の夜光に照らされたその顔の造作は、いずれもはっきりとしており、あるべき場所に品良く収まっている。女から目を離すことができず、三木の胸は早鐘を打ち始める。


「ちょうど探していたところです」

「でしたら、ご招待いたしましょう」


 チヨと名乗った女に連れられ、銀座通りを並んで歩く。この辺りはかつて震災で壊滅した区域だが、その傷跡はほとんど残っていない。夜も更け、大通り沿いの百貨店は既に店を閉めている。しかし通りの東側には夜店が並び、人の往来は昼のごとく多い。

 歩くこと数分。辿り着いたきらびやかな建物を、三木は唖然として見上げていた。ガラス張りの壁面は夜の闇を映し出し、幾何学文様の光はそこに集う人々を照らし出す。ネオン輝くその店の名を、知らぬ者はいないだろう。


「三木様は普段あまりこういう場にはいらっしゃらないのですね」


 チヨは悪戯いたずらっぽく笑い、中から光の漏れる扉を開けた。


「ようこそいらっしゃいました。『カフェー・キャット』にておくつろぎくださいませ」


 一言にカフェーといっても、その営業形態は千差万別と聞く。コーヒーや紅茶を出すだけの店もあれば、女給によるサービスを押し出しているところもある。チヨの働くキャットは洋食を売りにしつつ、酒も提供しているようだ。

 自動ピアノに合わせて紫煙がくゆり、食器の触れる音にジンが香る。チヨに勧められるままにステーキを選んだ三木は、その味に目をみはった。


「いかがでしたか」


 食べ終えた三木の横に、チヨがそっとワイングラスを置く。角テーブルの脇に立っていたチヨは絶妙なタイミングで酒を注ぎ、三木のテンポに合わせて会話を挟んだ。口下手で生真面目と言われることの多い三木にとって、チヨとのやり取りは心弾むものであった。


「カフェーというものが、これほど素敵な場所とは知らなかったよ」


 三木はふと思い至って財布を取り出した。カフェーでは飲食代とは別に、女給にチップを渡すと聞いていたからだ。だがその相場がわからない。三木の困惑を見て取ったのか、チヨは声を殺して笑う。


「これは助けてくださったお礼でございます。ですからそれは、次回いらしたときにお願いいたします」

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