空を翔ける

千早さくら

浪漫飛行

1.

 目の前に竜が舞い降りてきた。


 史隆ふみたかは目を見開いて竜を見つめる。大人しい草食動物である竜に危険は感じないが、なにしろ突然だった。竜の降下時に巻き起こった風で制帽が飛ばされていたが、気にしていられない。


 驚いたのは、一緒にいた総一朗そういちろう瞳子とうこも同じだ。二人とも棒立ちになっている。


 竜の体は淡い緑色のウロコで覆われ、山羊より一回りほど小さい。この大きさであれば孵化して数週間といったところだろうか。コウモリの翅を付けたトカゲ、といった見た目は成獣と代わらないが、頭が大きめで首が短くどことなく胴とのバランスが悪いのは、仔竜ならでは。


 竜は三人の前に立ち塞がって、キュイキュイと高い鳴き声を上げた。我に返った少年二人は少女の前に出て、守るように立った。


 にわかに周辺がざわめく。離宮裏庭の事態に気づいた警備の近衛兵が、何人も集まってきていた。


 近衛の一人に下がるように言われながらも、史隆と総一朗は踏みとどまる。竜が単独で十代の少年少女の元を訪れるなど、理由は一つしかない。騎乗者を探しに来たということだ。ひょっとしたら、と可能性にかすかな期待を感じてしまうのは仕方のないことだろう。


 竜がまた鳴き、その半開きになった口から白い息が漏れた。冬の匂いと混じり合って、独特の匂いが辺りに漂う。


「竜の口臭、ヤバッ」


 総一朗がぼそっとつぶやき、史隆は吹き出してしまった。


 瞳子が少しばかり冷たい目を男子に向けた。史隆と総一朗は顔を見合わせて苦笑する。


 周囲に満ちていた緊張感が緩んでいった。竜の側に敵意がないのは見て取れ、そろそろ仔竜が自分の騎乗者を探し始める時期であるのは近衛たちも知っている。


 史隆は警備の班長であるさかいに、持ち場に戻るように告げた。そのときもう一度、竜が鳴く。


「えっ!?」


 声を上げたのは総一郎だった。史隆と瞳子が見守る中、総一郎は竜に歩み寄る。


「ああ、うん、しょうろ? そうか、松露か。……僕? 僕は風早かざはや総一朗だ」


 竜が自分の名を名乗り、人がそれに応えて名乗る。竜の指名と人の受諾。それが竜とえにしを結ぶとということだった。


 なぜかチクリと史隆の胸は痛んだ。


 騎乗者に指名されるのは華族の令息令嬢が多いため、城内や学校で何度か見たことのある光景だ。これまではいつだって、特別な気持ちが胸中を占めることなどなかった。


 同い年の従兄弟が竜に選ばれたという事実に、自分がなぜこれほど動揺しているのか、史隆にはわからない。


「史隆さま、瞳子ちゃん。この子、松露って言うんだ。僕を騎乗者に指名するって」


 振り返った総一朗は満面の笑みを浮かべていた。だが、史隆と視線が合った途端、その笑みが瞬時に消えた。表情が気まずそうなものに変わり、少し吊り上がり気味の目が憂いを帯びる。


 瞳子から「史隆さま」と静かに名前を呼ばれ、我に返る。史隆は自分がどんな顔になっているのかを察して、慌てて笑顔を浮かべた。


「良かったな、総一朗」


 その言葉も本心だった。総一朗が幼いころから騎乗者に憧れていたのは知っている。その夢が叶ったのだから、喜びが溢れ出たのは当然のことだとわかる。決して彼への妬みなど感じなかった。


 それなのに、史隆の心には、もやもやしたものが溢れてきていた。


 騎乗者になりたいと思ったことはない。現国王の長男である以上、次代の王となる姉の補佐をするのが当然だ。そのための勉強を幼少期から続け、それ以外になるなど思ってもみなかった。だから、ここで選ばれなかったからと落胆するのは違う。違うはずだ。


「君は小さいころ騎乗者になりたいと言ってただろう?」


 史隆は続ける。総一朗も侯爵家の長子としての役割を心得ていたので、何年も前から口にしなかったことだが。


 ふいに息苦しさを感じ、史隆は学生服の詰襟に指をかけた。ホックを外そうとしてやめる。すぐに生真面目な顔を取り繕った。


「総一朗、今をもって僕の側近から解任する」


 未成年には本来はそんな指示権はなかったが、史隆はあえて口にした。総一朗に、なにより自分自身に言い聞かせるために。そして、幼なじみに贈れる精一杯の笑顔を見せた。


「堺、空軍と風早家に連絡を入れるよう侍従長に伝えてくれ」


 近衛に指示を出すために、さりげなく視線を逸らす。


 僕は騎乗者になりたいと思ったことなどない、と史隆は心の中で繰り返した。だが竜が現れたとき確かに期待していた、とも思う。総一朗が選ばれた瞬間に感じたのは自分が選ばれなかったという落胆だった、とも思う。一瞬だけ下唇を嚙んだ。


 翌月、三人は中等教育校を卒業した。その後、史隆と瞳子は高等教育校に進学し、総一朗だけが空軍管理下の竜騎乗者教育校に入校するのだった。

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