第四章 美咲の雨

第一節 クリニック

「八番の番号札をお持ちの方、診察室にどうぞ」

 クリニックの受付事務の声が、待合室に響く。

 その番号の数字から、あとどのくらいで自分の番号が呼ばれるかを予想し、心の準備をする。私――穂村ほむら美咲みさきの番号札は十番。今、八番が診察室に入ったから、残り十分もすれば呼ばれるだろう。

 ああ、だけどここのお医者様は、わりと親身に話を聞くタイプだったなと思い出す。

 もしかしたら前に入る患者によっては、十五分ほど待つことも考えられる。

 時間は大丈夫だろうかと心配になり時計を確認した。今は十五時半だった。約束の時間は十六時だから、むしろ丁度いいか、少しゆとりがあるくらいで安心する。


 六月初旬のクリニックは、冷房が入っているがそれでも少し蒸していた。

 今朝のニュース番組のお天気キャスターが、今週末から梅雨入りになりそうだと言っていたのを思い出す。

 もうすぐ梅雨が訪れる。憂鬱だ。

 私の嫌いな、雨の季節が訪れる。


「十番の番号札をお持ちの方、診察室にどうぞ」

「……はい」

 受付事務が私の札の番号を呼んだのは予想通り十五時四十五分頃のこと。

 通路を進み、控えめにノックをしてから診察室に入る。

「失礼します」

 ここに来るのは二度目だ。前回の初診から二週間経っても、この部屋に入った瞬間にする本の匂い、エアコンの微かな埃の匂いは、変わっていない。

「どうぞ、おかけください」

 ドクターチェアを軋ませてこちらを見るのは、初老の男性。穏やかそうな雰囲気のこの病院のお医者様だ。

 私はお辞儀をして、背もたれのあるゆったりとした椅子に、腰掛けた。

「穂村さん、その後はいかがですか」

「……」

 どう言っていいか、迷った。

 あまりいい気分はしない。むしろ、だめで。

 少しだけ間を置いてから正直に伝える。

「頂いたお薬を飲んだんですが、……飲もうとしたんですが、飲めなくて。口に含むとすぐに吐き気がして、戻してしまって……」

「そうですか。不安感を和らげる軽いお薬なんですが、穂村さんはそこからかな」

「……すみません」

「いえいえ。薬に抵抗感があるのは、よくわかります。心療内科にかかるのも初めてでしたよね。風邪薬だと思って飲めたらいいんだけどね」

「はい……」

 お医者様が言うことは、どことなく的外れな気がして、そっと視線を落とす。

 不安感、抵抗感。それが違うとは断言できないけれど。

 私の中にあるのは、強い強い「嫌悪感」だ。

「ゼリータイプでお薬を飲みやすくするものもあるんですが、試してみますか?」

「いいえ。薬はできれば飲みたくありません」

「そうか。それなら、やっぱりカウンセリングがメインになるね。前回予約を入れてくれていたから、この後だよね。ゆっくりお話をしてみてください」

 この後、十六時に入っている約束。それは同じ院内で行われるカウンセリングだ。

 私はお医者様にお辞儀して、診察室を後にする。


 初めて病院にかかる時には、この病的な感覚が治るならと、縋る思いで診察室に入ったし、薬だって飲む気はあった、カウンセリングがあると聞けばそれもお願いしますと前のめりだったけれど。

 やっぱりだめなんだろうな。

 今はカウンセリングにあまり期待はしていない。お医者様にも解決できないなら、カウンセラーがそれを解決出来るとは思えないのだ。


 手が、 気持ち悪い。

 番号札を配るシステムは、効率面でもプライバシー面でもいいのだろうとは思う。

 ただ、私みたいなレアケースは、想定もしていないのだろう。

 ――他人の触った物に触りたくない。

 誰が触れたかもわからない番号札は、色んな人の手汗や手垢にまみれて汚れに汚れているに決まっている。でもろくな消毒もせずに、毎日使い回しているのだろう。

「けほっ」

 考えるだけで吐き気がする。

 私は小さく咳き込んで、それから何度も「……えっ」と嘔吐く感覚が止められない。

 待合室の片隅でなんとか呼吸をして、ああ、落ち着けないと――

「あの、穂村さんですか」

「……っ」

「大丈夫ですか?」

 黒髪の女性が私に近づいて、様子に気づいたのか手を伸ばしてくる。

「触らないで!」

 ……

 咄嗟に払い除けた。

 パシ、と乾いた音を立てて、ぶつかった手と手。女性は一瞬だけ驚いたような顔をしたけれど、すぐに手を引っ込めながら心配そうに言った。

「ごめんなさい。……カウンセリングルームに行きましょう。休めるソファーもあるので」

「あ……。はい。……あの」

「私、カウンセラーの望月真昼と言います。体調が優れなかったら、言ってくださいね」

 申し訳ない思いはある。

 望月先生は清潔感もあるし、あんな反応をしてしまった私にも、優しくそう言ってくれる。

 でもどうしても私には、彼女の顔が直視出来なかった。

 …………本当に、私は病的だ。






「穂村さんは、ご自身の潔癖症を治したい、というお気持ちなんですよね」

 望月先生は私の対面のソファーに腰掛け、傾聴のスタイルを取っている。

 私はその向かいで、望月先生の顔を見れないまま、やや俯いて彼女の手元を見て喋る。

「ええ、そうです。自分でも調べました。潔癖症なのか、あるいは強迫性障害といった病気なのか。わからないんです。そもそも何故こんなに、世界が穢れているのかも」

「……穢れというのは、具体的には、どんなものが気になりますか」

 具体例。

 色んなものが思い浮かびすぎて眉を寄せる。

「汚物は嫌です。人の触ったものや不衛生なもの。それから――出涸らしになった茶殻、秋に街中を転がる落ち葉、煮込みすぎてぐちゃぐちゃになったおでん」

 世の中は汚いものだらけだ。更に――、私は室内を見渡した。

「本棚の本の不規則な置かれ方。ブラインドの下の壁のしみ。少し埃のかぶったポプリ。それと――」

 最後に望月先生の顔を見る。

 ああ、やっぱりだめだ。

「貴女の口紅の色も、そう」

「え」

 望月先生はその口元を手で覆い隠すようにして「すみません」と言った。

「違うんです、先生は何も悪くない。私が、おかしいだけ。受け入れられないものが多過ぎるの」

 諦観に似た思いと、申し訳なさと。

 望月先生は一度席を立って、何をしているのかと思ったらティッシュでゴシゴシと口元を拭いている。

「これで少し、ましになりましたか?」

「――……少しだけね」

 彼女の行動には弱く笑ったけれど、心が晴れることはない。


 私は彼女の行動に、健気さのようなものを感じた。

 歳は私より少し上くらいだろうけれど、私にはない、優しさや慈しみを抱くことのできるタイプの女性なのだろうと思う。言い換えれば母性的なのかもしれない。

「望月先生。貴女にだけ話して、それをお医者様に内緒にすることって、できますか」

「ええ、勿論です」

 穏やかに頷く望月先生になら、話しても大丈夫だ、と何故か私は思った。

 自らの髪留めを指して、伝える。

「実は……私の秘密は、この蝶のバレッタにあります」

「……バレッタ?」

 後ろに一つに纏めた髪。そのポニーテールの根元にとまる、蝶々の形のバレッタだ。

「はい。お風呂の時と、眠る時以外はほとんど外しません。――これを外してしまうと、だめなんです。自分が抑えられなくなる。醜い世界が許せなくなって、怒りなのか、絶望なのかわからないけれど――恐ろしい感情に支配されてしまう。自分が犯罪者にならないか、心配なくらいです」

「……一種の、トリガー、ということですか?」

「そうです。おかしいですよね。そんなスイッチみたいなもの人間にあるはずないのに。何故だか、これをしていると、……心が冷ややかであれるんです」

 望月先生は真摯な顔で相槌を打って聞いてくれているが、内心私がおかしなことを言い出したと思っているのではないだろうか。

 今話したのは全て本当のことだ。


「穂村さん、そのバレッタっていつから持っていますか。それから、周りのものが汚いと感じるようになったのはいつ頃ですか」

「……」

 この蝶々はどうしてこの髪にとまっているのか。

 私の世界が醜くなったのはいつからなのか。

 一瞬だけ思い巡らせたが、すぐにやめた。

「さあ……忘れちゃったわ」

 私は冷たく言って、小さく息を吐く。

 口紅の色はともかく、望月先生に対して嫌悪感はない。彼女はいい人なんだろう。

 だけれど今はただ、カウンセラーとして、仕事でそれを私に問いかけているだけで。本気で私の助けになってくれるものとは、思えなかった。


 バレッタのことや潔癖症になった経緯に関しては、簡単に思い出せるほど浅い場所ある記憶ではなかったし、私はそれを思い出すことを無意識のうちに拒んでいた。

 はぐらかしたのではなくて――思い出そうとすると、とてもとても、気分が悪くなるのだ。

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