第6話
「一旦座って」
素直に助け起こそうとする青年の手を、朝香は自身の方へと引いた。やはり傷が痛むのか、彼は顔を顰めると、引かれるがままその場に座り込む。
「何だよ、逃げなくていいのか?」
軽口を叩かれても、先程のような苛立ちは湧かない。馬鹿なことをしていると自覚しながら、朝香は青年の左足を膝に乗せる。ポケットから手巾を取り出す。洗ったばかりの清潔なそれを、迷わず傷口へ押し当てた。白い布地が赤く染まっていく。
自分を助けるために怪我をしたのだ、と同情する優しさは、残念ながら捨ててしまった。そもそも朝香は青年の勝手な都合で巻き込まれただけの、完全な部外者だ。責任を負ってやる義理はない。
朝香を動かしているのは、もっと単純な動機だ。目の前に怪我人がいるから助ける。それだけ。
「あなた、
手巾で足首をきつく縛りながら、朝香はおもむろに聞いた。
「ああ」
青年の短い首肯に、やはりか、と内心で溜め息を零す。
災神とは、神徒の対となる存在の名称だ。政府の管理下に入らず、反旗を翻す神がそう呼ばれる。人智を超えた力を破壊に用い、人の世を脅かす厄災。そんな彼らを殺し、国の平穏を守るのが、神徒の役目だ。
討伐対象として青年の資料を渡された覚えはないので、まだ目をつけられていない、隠れ潜んでいる災神なのだろう。
「世間ではそう呼ばれてる。自分で名乗ったことはないけどな」
立場を暴かれても青年は動じない。それがどうした、とでも言うように、尊大に笑っている。
無防備な彼を打ち破り、今すぐ本部まで連行するのが、朝香の取るべき行動だ。誰かに被害が及び、悲しみを産む前に。手当をするなど以ての外。国への裏切りにも等しい。そんなことは分かっている。
けれど、弱った相手を手にかけるのは後味が悪い。成り行きで共闘してしまったとなれば尚更だ。
「そういうお前は神徒だろ」
「まあね」
朝香もさらりと答える。驚きはない。神は通常、生まれた瞬間に政府へ届け出るようにと法で定められている。そして物心付く年頃になると、神徒として特殊部隊に所属させられる。敷洲国の常識だ。
よほど特殊な事情がない限り、運命には抗えない。無理に抗えば災神の烙印を押され、待ち受けるのは死。あるいは、死ぬまで続く、政府との戦いだ。そこまでの危険を犯してでも法に背こうとするのは、国を乱そうと企む反政府組織の者たちくらいだろう。
単独で国を壊す力すら秘めているのが神である。反政府組織にとって、神はどんな手段を使ってでも確保しておきたい戦力とも言える。青年も恐らく、そういった連中の元で災神となったのだ。
同じ神でも、神徒と災神は相容れない。互いの目的のために、出逢えば殺し合うのが常である。今のように手助けをするなど、例外中の例外だ。
「良いのか、手当なんかして」
この時間の奇妙さを、青年も味わっているのだろう。居心地が悪そうにそっぽを向きながら呟く。朝香が神徒であることは、彼にとっても都合が悪いのかもしれない。
「大問題だよ」
正直なところ頭を抱えたい気分だった。鴎介や、更に上の官僚に知られようものなら、相応の処分が待っている。ならば組織を離反しよう、と思えるはずもなかった。背負った正義は、相応に重いのだから。
「じゃあ今だけは、お互いの立場は脇に置いておこう」
「……賛成」
結局二人は、目を逸らすことを選んだ。中途半端だが、都合の良い選択だった。
幸い、川を下ってきたおかげで、目撃者は追っ手の男たちだけだ。銃刀法違反に傷害と、犯罪に浸かりきっている彼らが、神徒と災神の協力を咎めるはずもない。この関係は、二人の間に秘めておける。
あくまで今だけだ。この先彼が敵として現れた時には、神徒の仕事を全うする。せめてものけじめとして。そう決めて、朝香は巻き終えた手巾から手を離した。
「お前、名前は?」
怪我の具合を確かめるように足を動かしながら、青年が問う。
「教える必要ある?」
「いいだろ、立場は一旦忘れるんだから。ちなみに俺は――」
青年はそこで一度言葉を切った。口元に手を当て、考え込むように眉を寄せる。
「そうだ、
あまりにも不自然な間からして、偽名に思える。朝香が疑いの眼差しを向けたことに気付いたらしく、青年、伯弥は自嘲気味に笑った。
「正真正銘、本名だぜ」
微かに滲むのは悲しみだろうか。彼が自身の何を憐れんだのか、朝香には分からない。知るつもりもない。敵の私生活や心情など知っても、いつか後悔するだけだ。
「花鹿朝香。忘れていいよ」
安っぽい同情や慰めの代わりに名前を告げる。それが正しい距離感だと信じて。
「そうか。多分覚えとくよ、朝香」
伯弥は、躊躇う素振りも悩んだ様子もなく、当たり前のように名前を呼んだ。
「な……は、え……?」
朝香の思考が凍り付く。戦き後ずさろうとして、手を川に突っ込んでしまった。
「よ、呼び捨て……?」
下の名前を呼び捨てにする異性は、家族や身内、あるいは恋人など、ごく親しい間柄の相手に限られる。そんな朝香にとっての常識を、伯弥はあっさりと壊した。
蛍や鴎介に呼ばれるのとは全く違う。あの二人は子供の頃から一緒に居て、他人行儀にされるとむしろ窮屈になる。
性別の話を抜きにしても、大事な前提として、二人は本来、敵対関係にあるのだ。まずは苗字だとか、せめて敬称を付けるだとか、そういった呼び方を想定していたというのに。
まさかいきなり、ここまで距離感を詰められるとは思わなかった。
「そこ気にする? 神徒って結構、お嬢様育ちな訳?」
揶揄するように笑う伯弥に、常識を壊した自覚はないのだろう。恐らく距離感についても、深く考えてはいない。気にしているのは自分だけ。それとも、世間では下の名前を呼び合うのが最先端なのだろうか。
「気楽に行こうぜ。朝香も俺のことは、伯弥って呼んでくれ」
そう言ってのける伯弥の顔からは、はっきりと、この話で遊んでやろうという意思が読み取れた。伯弥、と呼び捨てることに抵抗があると分かっていて、困らせるつもりで言っているのだ。
ここで彼の思惑通り、照れたり焦ったりするのは癪に障る。そんなささやかな対抗心が朝香に芽生えた。
「分かった、伯弥。短い付き合いだけどよろしく」
鼓動が早まるのを感じながら、平静を装って名前を呼ぶ。声が震えないよう、精一杯の虚勢を張って。
伯弥がふっと頬を緩めるのが見えた。穏やかだが裏のありそうなその顔に、朝香の羞恥心は限界を迎える。
「っ、そ、それより、早く行こう。追い付かれる」
予想外に柔らかな眼差しから逃れたくて、そそくさと立ち上がる。伯弥もそれに続いたが、下流へと足を向ける朝香とは反対に、彼は上流へ体を向けた。
「悪いが、それはできない。俺はここであいつらと戦う」
「……本気?」
信じ難い宣言に、朝香は足を止めて目を見開く。悪い冗談かと思ったが、振り向いて視界に捉えた伯弥の表情は真剣だった。
「ああ。その必要があるんだ」
「勝算は?」
「宛が外れて再計算中、ってところだな」
へらりと笑われ、朝香は深く溜め息を吐いた。
「やっぱりそれが目的で私を巻き込んだんだね」
宛というのは朝香のことだろう。戦いのための戦力として期待されていたようだが、生憎朝香には、男たちを蹴散らすほどの力がなかった。だから彼はあの場から逃げ、けれど何か目的があり、結局立ち向かおうとしている。
「肩なんて痛くもないくせに」
橋の上で倒れたままでいたのは、朝香に戦わせるための演技だった。そう考えると腹立たしい。まんまと誘われ、巻き込まれてしまった自分の迂闊さが。
「まあな」
結果として彼は怪我を負い、むしろ戦力は低下してしまった。因果応報というものだろう。軽薄な仕草で肩を竦める彼を、見捨てたって良いのだ。少し前まではそのつもりでいたし、立場としてはそれが正しいに決まっている。
だが今は僅かに、ほんの僅かに、それを躊躇う気持ちが朝香の中に芽生えている。
そしてそれは、伯弥の方も同じらしい。あれほど頑なだった手が、離れている。どういう心境の変化か、朝香を無理やり連れて行くのは辞めたようだ。
悲壮感など欠片もない態度。しかし、輝く銀の瞳の奥に、諦めの色が漂っていることを、朝香は見抜いてしまった。
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