第3話 赤は鮮やかに

 嘆きの声を聞いた。


「かえして……かえしなさいよ!」


 力なき人が叫ぶ。無力ゆえに奪われ、なおも無力で居続けた、強き人が。

 魂を削り、喉を裂いて怨嗟を撒き散らす。怒りと憎しみに突き動かされるがまま、慟哭する。


「なにが『神』だ、人殺しのくせに!」


 絶え間なく響く痛々しい咆哮を、幼い朝香はただ受け止めるしかなかった。特別と言われていても、所詮は非力な小娘。暴力から身体を守る力はあったが、理不尽な言葉の刃から心を守る手段は持っていない。

 脆くなっていた内面を更に抉られる。ひび割れた心が砕けそうになる。辛い。苦しい。やめてほしい。そう言いたくて、言えなかった。自分に悲しみを訴える資格はないのだと、子供ながらに理解していた。

 辛いのも、苦しいのも、朝香を殴りながら涙を流す人々の方だ。大切なものを奪われ、抵抗もできずに嘆き続けた彼らは、燻っていた怒りをぶつける先をやっと見つけた。それが彼女だった。

 彼女が奪ったのではないと主張しても、互いにとって救いにならなかっただろう。彼らは、大切な存在を奪われた恨みをぶつけられれば、誰でも良かったのだ。偶然朝香が現れたから、彼女を選んだ。それだけ。


 どれだけの時間そうしていたか、彼女には分からない。ひたすら泣き、許しを乞い、心を襲う痛みに耐えていた。気が付けば、蛍が助けに駆け付けてくれて、全てが終わった。

 彼は、涙のせいで真っ赤に腫れ、熱くなった朝香の目元に触れた。その指先の冷たさに、ひどく安心したのを覚えている。彼女を抱きしめる腕は、嘆く人々と戦ったせいで傷だらけになり、震えていた。

 直接の被害を受けた彼女よりもずっと、ずっと怯えているようで、思わず慰めてしまった。確か、もう大丈夫だよとか、心配しないでだとか、そんなことを言った気がする。


「それは、俺がきみにかけるべき台詞だ」


 掠れた声でそう答えた蛍は、怒っているような、泣いているような、中途半端な顔をしていた。それは、ずっと無表情だった彼が、初めて朝香に見せた表情だった。

 知人だと、同じ家に居ても所詮は赤の他人だと、そう思っていた。けれどこの時、自分のために傷付き、危険に飛び込み、こうして迎えに来てくれた彼を、突き放すことはできなかった。

 独りぼっちになったはずの彼女を、心配してくれる人が居る。傷を埋め、寄り添ってくれる人が居る。それをどれだけ嬉しく思っていたか、やっと気付けた。

 壊れそうな心が壊れなかったのは、蛍のおかげだ。


 嘆きの声は、今でも聞こえる。生涯消えることはないだろう。だが、泣いて耐えるだけだった当時とは違い、今は、力を持っている。

 自分より弱い相手で鬱憤を晴らすしかなかった彼らを、それでも守るための力だ。

 ぶつけられたからこそ、全てを恨む気持ちが分かる。受けた仕打ちに憎しみで答えるつもりはなかった。むしろ、あの日嘆いていた人々が、新しい幸せを見つけ、前に進んでいて欲しいとすら願っている。

 大切な人と笑い合える日常は、何より尊く幸福だ。もうこれ以上、それを奪われ、悲しむ人を増やしたくない。だから、


「……」


 だから、何だというのだろう。全身を覆う気怠さを感じながら、朝香は目を覚ます。夢を見ていた。戦いに駆り出された後に必ず見る、過去を映す夢だ。悪い夢を見たからと泣くような歳は過ぎたが、気分の悪さは残る。

 疲れがまとわりついた重い身体を起こす。障子窓越しに差し込む淡い朝日が、整理整頓された部屋を満たしていた。

 壁際に置いた時計は、八時少し過ぎを示している。普段なら寝過ごしたと焦る時間だが、今日は休日。起床を告げるラッパは吹かれない。

 のんびりと寝間着を脱ぎ、矢絣模様の着物を箪笥から引っ張り出す。合わせるのは落ち着いた色の袴だ。鏡台の前で最低限の身支度を整え、適当に髪を結ってから、朝香は部屋を後にした。


 よく磨かれた木の廊下は、歩くと頼りなさげに軋んだ。その音も、もう随分と耳に馴染んでしまった。敷洲国軍特殊部隊、兵舎。特殊部隊に所属する神の入舎が義務付けられている、四階建ての建物だ。朝香がここで生活を始めてから、九年が経つ。

 神を軍人の枠に押し込め、兵器として運用する。そんな思想の元に、敷洲国軍特殊部隊は設立された。戦闘員は全て神。わざわざ、神徒という呼称と、それなりの質の生活を用意してまで、政府は神を支配下に置きたがった。 

 おかげで、本部内にある兵舎での生活は、快適さが保証されている。その最たるものは食事だ。兵舎の一階には神徒専用の食堂があり、朝から夜まで、調理担当者が待機している。ある程度好きな時間に利用できるように、という配慮だ。

 

 朝香が食堂を覗くと、一人だけ利用者が居た。蛍だ。湯呑みを机に置き、片手には書類。窓際の席で朝の日差しを浴びる彼は、絵画のように人目を惹く。


「蛍、おはよう」


 声をかけると、蛍は書類から目を上げた。相変わらず、機嫌が悪いのかと誤解しそうな、冷たい眼差しだ。


「おはよう朝香。ちゃんと眠れたか?」

「うん、朝までぐっすり」


 蛍の正面の席に腰を下ろし、頷く。夢見は悪かったが、睡眠時間は確保できた。嘘は言っていない。


「それにしては気分が悪そうだな」

 

 だが、朝香の強がりなど、蛍にはすぐ看破されてしまう。悪夢に悩まされていることは、彼にも話していない。心配をかけると分かっているからだ。


「そうかな。多分、疲れてるせいだよ」


 誤魔化しを口にしてみても、見抜かれてしまいそうで怖かった。

 蛍は大人だ。朝香より五つ歳上の、二十四歳になる。年相応の落ち着きと知識を備えた彼と比べると、朝香など幼稚な子供だ。子供の嘘など、大人にはすぐバレてしまう。


「蛍は今日、何か予定ある?」


 追及を避けるため、多少強引に話を変える。隠し通すことも、明かすこともできない。中途半端で我儘で、本当に子供のようだ。


「予定か……始末書だな。昨日の」


 話に乗ってくれたのは、朝香の意思を尊重してのことだろう。げんなりした声で呟くと、蛍は手元の資料を揺らした。

 彼の対応にありがたさと罪悪感を感じながら、さっと資料に目を通す。そこには既に、屋敷の破壊を反省している旨の文章が長々と綴られている。何度も使い回されてきた、定型文通りの内容だ。


「ごめん、私がちゃんと止めれば良かった」

「隊長に言われたことを気にしてるのか? 朝香は何も悪くない。俺の力不足が原因だ」


 ぐしゃぐしゃと、蛍の大きな手のひらが、朝香の頭を不器用に撫でた。

 そこそこ離れた歳の差もあってか、彼は出会った時から、何かと朝香の世話を焼こうとしてくれた。こうして子供のように扱われるのは、その名残だ。

 慣れ親しんだ手のひらに触れられていると、心地良さを感じる。十九歳にもなってこんな扱いを甘受するのは、いささか恥ずかしいのだが。


「それと、始末書のついでに、隊長から書類を頼まれてる」

「押し付けられたの?」

「業務の効率化、だそうだ」


 物は言いようである。鴎介が大人しく机に向かっていられる性分でないのは想像できるが、だからといって蛍にとばっちりが行くのは不当だ。

 憤る朝香の前で、蛍は微かに微笑む。


「この程度、安い物だろう。隊長には色々と恩があるから」

「……まあ、確かに」


 そう言われると、頷くしかなかった。結局はこれだ。叱られても怖くても、仕事を丸投げされても、朝香たちは鴎介を慕って着いて行く。悪い所と同じくらい、良い所も知っているから。


「手伝おうか?」

「いや、いい。朝香の休みまで潰すのはさすがに悪い」


 と言うことは、休みが潰れるほどの量があるのだろうか。本来ならそれを、他の仕事を抱えながら一人で片付けるのだと思うと、鴎介が気の毒になる。

 そんな鴎介から仕事を任されるのだから、裏を返すと、蛍は信頼されているのだ。部下として、軍人として。少しだけ羨ましい。

 

「わかった。じゃあ今日は、出かけてくる」


 止められると分かっていてそう告げたのは、焦りからだった。蛍の相棒でありながら、朝香は彼と対等ではない。

 いつも影に隠されて、守られてばかりだ。だから鴎介に頼られることもないし、蛍からも子供扱いをされる。その事実を改めて思い知らされ、焦燥に駆られた。

 

「一人でか? だったら、少し待っててくれ。時間を作る」


 蛍の顔が曇る。朝香を一人にするのが心配なのだ。目を離せば、その隙にまたどこかへ消えてしまう、とでも思っているのだろうか。彼にそんなことを思わせてしまう自分の過去が、重くて、煩わしい。

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