第3話 事件
玄関からリビングまでの廊下の右手には、独立洗面所に続く扉がある。その向こうから、微かに水音が聞こえてきた。
「水、出しっぱなしで外に出たんですか?」
心なしか奥田君の声は震えていた。
「まさか」私の声も震えている。うまく喋ることができない。「アイツ、シャワーなんて浴びているのかしら? し、信じらんない。どういう神経――」
「上がってもいいですか?」
奥田君が小声で尋ねる。私は何度も小刻みに頷いた。彼がついて来てくれて本当に良かった。
彼は音を立てないように靴を脱いだ。
この部屋のカギは複製不可能なディンプルキーである。カギを所持しているのは私を除けばさっきぶん殴った元カレ(厳密には別れ話はしていないが)だけである。ということは、バスルームの音の主は間違いなく元カレであるということになる。寒気がする。本当に上がり込んでいやがったのか。
「開けますよ」
奥田君は緊張した声で洗面所の引き戸に手を掛けた。私は彼の後ろにぴったりついて洗面所の中を覗き込む。
電気がついていた。バスルームからシャワーの音が断続的に聞こえている。そしてそのバスルームの中には、確かに、うずくまるような黒い人影があった。
「ヤダ」私はあまりのショックに涙目になっていた。「絶対いるじゃん」
「妙ですね……」奥田君は先ほどよりも冷静に言った。「動いてますか、あの影」
言われてみればそうだ。バスルームの中の人影は、ピクリとも動いていないようだ。シャワーの音も単調で、動きもなく床に水を叩きつける音しか聞こえてこない。
「すいません。どなたかいらっしゃるんですか」
奥田君が意外に低めの声で中に問いかけた。が、反応はない。
やっぱり変だ。
奥田君は間を置いて深呼吸をした。
「開けますよ」
彼が、バスルームの、入り口を開く。
※ ※ ※
私は、イチジクの実を思い出していた。暗い色の皮に覆われた果実を割ると、中には真っ赤な果肉がぎっしり詰まっている。あの甘さが好きで、幼い頃はよく好んで買ってもらったものだ。
しかしもう、しばらくは食べようとは思えないだろうな——私は妙に冷静にそんなことを考えていた。
シャワーの水に打ち付けられていたのはバスルームの床ではなく、かつて人間だった黒い塊であった。
見覚えのある服――全身にシャワーを浴びてびしょ濡れだ。うつぶせに床に横たわり、右手が水栓金具のレバーを下に押した状態で止まっている。間違いない。この服は元カレだ。
その浮気男がなぜ、私の部屋のバスルームで服を着たままびしょ濡れになっているのか。答えは明白だった。
「死んでるの、それ」
元カレの後頭部は、叩き潰されたスイカのように、果実の割れたイチジクのように、真っ赤な液体で汚れていた。彼から流れ出たと思われる血液が、シャワーの水と混ざり合い、バスルームの床を薄ピンクに染めている。「死んでるの」と聞いてはみたが、聞くまでもなかった。
バスタブのへりの部分には血が飛び散ったような跡がこびりついている。
頭の中が真っ白になる。
奥田君は素早くソレの近くにしゃがみ込み、手首を取って首筋にも手を当てた。
彼の表情は恐怖のあまり真っ青になっていたが、しっかりとこっちを見て彼は頷いた。アア……私は膝から崩れ落ちそうになった。何が起こっているのかは分からない。ただ漠然と絶望感がそこにあった。今の状態を冷静に受け入れることは困難だった。
「うそでしょ……」
私はようやく声を振り絞った。そう呟くのがやっとだった。
「あッ」サッと奥田君の顔つきが鬼のようにこわばった。「だめです! ここにいたら!」
急に立ち上がって死体から離れた彼は、私を洗面所から強制退出をさせてから慌てた声で言った。
「僕から離れないでください」
そう言って躊躇なく奥のリビングルームの扉を開ける。そして寝室、トイレなどの扉を片っ端から開いていく。
「え、あ、ど、どうしたの」
生活空間が暴かれていく羞恥心を感じる余裕などなかった。突然の変貌に何が起こっているのかさっぱりわからないままおろおろとしていると、奥田君は急に申し訳なさそうな八の字眉になって言った。
「ご、ごめんなさい、いきなり」困った顔のまま、彼は部屋中をきょろきょろと警戒するように見回した。「でも、今さっきまで玄関のドアが閉まっていたということは——」
私はまだどういうことかよく飲み込めていない。
「彼氏さんは後頭部に強い打撃を受けて亡くなっていました。もしも――もしもですよ。彼氏さんが何者かに故意に殴られたのだとすれば——」
ここでようやく意味が分かるとともに、叫び出したい気持ちになった。
「アイツを殺した犯人が、まだ部屋の中にいるかもしれないってこと——?」
「あくまで仮定です」
玄関のドアのカギは間違いなく施錠されていた。スペアキーを持っているのはバスルームで倒れている元カレだけ。もしアレが他殺体だとしたら……
「ちょ、ちょっと待って、部屋のカギを犯人が奪って、自分でカギを閉めていったってことも考えられるんじゃない?」
「わざわざそんなことをする理由ってありますか?」
「それは——」確かに思いつかない。「えっと」
「僕もパッと思いつきません。だから、とにかく探しましょう!」
私は奥田君の傍から離れないように周囲を警戒しながら部屋中を探した。クローゼットやカーテンの裏まで調べたが、どうやら誰も潜んではいないようだった。
「アレ?」最後にベランダを調べようとしたとき、奥田君は小さく声を上げた。「カギがあいています」
「え。うそ、締め忘れたかな」
もしくは『犯人』がベランダに逃げたのか。
「開けます」
「うん」
私は奥田君の服の裾をぎゅっとつかんだ。ガラッ、と音がしてベランダへの窓が開く。
「誰も——いない?」
「ええ、そのようですね——」
奥田君は、ようやく気の抜けた声を出した。
その言葉で緊張の糸が切れたのか、私も急に足の力が抜けていき、へなへなと座り込んでしまった。一方で、頭の方は徐々に現実を受け入れ始めた。
あのどうしようもない浮気男が、死んだ。
クズでカスでどうしようもない男だったが、それでも二年付き合ってきた男である。
悲しみとも恐怖ともつかない、喪失感に近い感情が胸の底のほうからじわじわと湧き上がってくる。
アア、そうか、私は——
少しだけ鼻の奥がツンと痛くなった。
「ここから逃げたのかな」
「でもここは二階ですし、ベランダの下はコンクリートですよ」
「そうよね、やっぱり——」
きっと先日洗濯物を取り込むときに締め忘れたのだろう。私はそう考えることにした。
一方の奥田君は何かをぶつぶつ呟きながらまた少し考えるような表情をした後でこう言った。
「すぐに警察を呼びましょう」
「あ。電話は……」今頃神田川の川の底である。「落としちゃったから——」
奥田君はアア、と思い出した顔で「僕がすぐにかけます。とりあえず一度、部屋の外に出ませんか? やっぱりここにいるのは、ちょっと気味が悪いですよね」
確かに、すぐ目の前のバスルームに死体が転がっている状況で、落ち着いて警察を待つことなんて私にはできそうもなかった。私は想像以上に頼もしい奥田君の目を見ながら、こくりと一回頷いた。
これ以上声を出せば、嗚咽になってしまいそうだった。
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