肉を食べよう!

うめおかか

今日だけ特別、ステーキの日

 夕方、図書館で勉強を終えた円は、路地裏にある古びた喫茶店に呼び出されていた。大学生になってからよく訪れる喫茶店で、一人で静かに過ごすときに利用している。回数を重ねるうちに喫茶店のマスターと連絡先を交換するほど仲良くなった。たまに新しく考案した料理の味見もしている。

「いらっしゃい、円くん」

 ドアのベルが鳴ったと同時に、円を迎えたのはカウンターで作業をしていた四十代ぐらいの男で喫茶店のマスターだった。古さを感じながらも清潔感が保たれた店内には、客は一人もいなかった。

「こんにちは、今日は定休日だったと思うんですけど」

「そうなんだけどね、ちょっと手伝ってもらおうと思って」

「手伝い?」

 首を傾げながら、円はカウンターに設置されている椅子に座る。なるべく空腹状態で来て欲しい、と連絡を受けていたので、味見だと思い込んでしまっていた。

「味見とかじゃないんですか?」

「味見ではなく、僕がやりたいことかな。種類が多くなるから、できたら人が多いと良かったんだけど、軒並み断られてね」

 困った表情を浮かべるマスターに、円は素早く携帯電話を操作した。

「人が必要なんですよね?」

「いると助かるかな。誰か呼べるのかい?」

「多分、来ると思います」

 自信満々に宣言する円に、マスターは目を丸くするのだった。



「ステーキが食べられると聞いて、やって来ました!」

 堂々とした宣言と共に、喫茶店に到着したのは可憐だった。夕飯をどうするか考えているときに円から連絡を受けたので、迷うことなく喫茶店に急行した。

「お前、堂々としすぎだ」

「だって食べられるんでしょ? あ、はじめまして。円のいとこの可憐です。よろしくお願いします」

 カウンターの裏にあるキッチンで調理をしているマスターに頭を下げてから、円の隣に座った。

「よろしく、今日はたくさん食べていってね」

「はい!」

 目を輝かせる可憐に、これはよく食べる子に違いないと確信を得たマスターは笑顔で返した。この喫茶店は大学から近くて、腹を空かせた学生も多く訪れる。その学生に雰囲気が似た可憐もまた、きっとたくさん食べられることだろう。

「少しは遠慮しろよ」

「わかってるわかってる」

「そんなことは言えなくなるよ」

 ふふふ、と笑いながらマスターは肉を焼き始めた。焼ける音が聞こえてくると、耳から美味しさが伝わってくるかのようだった。肉の焼ける匂いも暴力的で、夕飯前の円と可憐の腹を直撃する。

「ステーキ肉をたくさんもらったんだよ。家族で食べても食べきれなくてね」

「お店で出すとかは?」

 この喫茶店には日替わりランチというのが存在する、そこで限定的にステーキを提供してもいいのではないだろうか。

「ランチに出すほどの量はないんだよ。それなら、と僕が作りたいように作ろうと思って」

「料理に対する探究心ですかね」

「そうそう。お試しで作ってみたい、ってところかな」

「わかるなぁ」

 マスターの気持ちを、円は理解してしまっていた。ほぼ毎日料理をしているせいか、試してみたい料理というのが存在している。

 けれど父親と二人暮らしなので、あまり量を作ることができない。たまにいとこたちを招集して食べてもらうにしても、限度があるので存分に料理をすることはできない。

「わかっちゃうんだ、円」

「毎日作ってるとそうなるんだよ。店ほどではないけど、試しに作ってみたいというか」

「ただ食べる人がいないと、たくさんは作れないからね。今回は円くんたちを呼んだから、存分に料理ができるよ」

「食べるのはお任せ下さい!」

 胸を張る可憐に、マスターは微笑み返した。

「頼もしい言葉だね。さて肉は焼けたから、アルミホイルで包んで休ませて……」

 手際よく料理をする姿を、可憐は目を輝かせて見つめている。円も料理風景をじっくり見る機会がないので、真剣な眼差しを向けていた。

「鉄板はさすがにないから、白い皿になるけど」

「冷めないうちに食べます!」

「ははは、頼もしい言葉だね」

 可憐の元気の良い返事に、マスターはとても楽しそうだった。

「面白い子だね」

「元気すぎるんです」

「元気がないよりはいいと思うよ。円くん、たまに真っ青な顔で店に来るから」

「あれは徹夜の影響です、課題がとにかく多くて……」

 先月の提出用の課題地獄を思い出して、円は眉間に皺を寄せてしまう。講義の種類の関係で、今期は試験よりも提出が多い。それが重なってしまって、終わらせるために眠る時間を削るしかなかった。

 そんな状態で提出してから、寝るよりも腹を満たすために、この店に訪れることも少なくない。疲れ果てていると、料理をする気力も起きないのだ。

「あのときの円は酷かったね」

 いつの間にか円の横に座ったのは、駆けつけてきた龍人だった。マスターに挨拶をしてから、円の顔を覗き込む。

「大学の課題の多さに荒れてたからさ」

「荒れるだろ、あれ」

「俺の課題と比較にならないぐらい多かったから、荒れても不思議じゃなかったよ。むしろよく期間内に終わらせたと思うし」

「そうだよね、あの紙の束は凄かったな。私には絶対できない」

 龍人と可憐に褒められて、円は深々と嘆息する。学生なので課題を仕上げるのは当然だ、そうしなければ単位が取得できなくなってしまう。

「当然だろう、終わらせるのは」

「それができない人もいるからね、はい、どうぞ」

 マスターの笑顔とともに、三人の前にできあがったばかりのステーキが盛られた皿が並べられた。あまりにも美味しそうに焼けた肉の姿に、嬉しさのあまり三人は声を上げてしまう。付け合わせは焼いたじゃがいもと人参のグラッセ、それにパセリが乗せられている。

「サーロインのお肉だよ。あと付け合わせは少ないけど、これを」

 もう一つ置かれた皿には、炊けたばかりのご飯が平らに盛り付けられていた。

「ご飯もたくさん炊いてあるからね」

「用意してもらって、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる龍人に、マスターはからからと笑っていた。

「いやいや、呼んだのは僕だからね。たくさん食べて……大切なのを忘れていたね」

 さらにマスターはソースを入れたココット皿を並べた。塩こしょうで食べても十分美味しいけれどソースをかければまた別の美味しさが発見できる。

「醤油ベースのにんにくが入ったソースとか、たまねぎソースもあるからね。他にもトマトソースとか……」

「まずはシンプルにいただきます!」

 ぱんっと手を叩いて最初に食べ始めたのは可憐で、ナイフとフォークで肉を切り分けていく。中はほんのり赤くて、断面を眺めるだけでも唾が溢れかえってくる。

 待ちわびたかのように、ステーキを口に放り込むと、可憐の表情が蕩けた。

「ん~~脂が甘い~」

「うん、柔らかくて脂が甘いし、それに肉の味もしっかりしてる。美味しすぎる」

 塩こしょうだけなのに、十分肉の味が感じられる。蕩ける味わいに、龍人と可憐の顔が幸福に満たされていった。

「そんなに美味しそうに食べてくれるなら、料理人冥利に尽きるね。円くんはどうだい?」

「美味しいです。柔らかいけれど噛み応えがないわけでもないし」

 柔らかくて脂が甘い、けれど数回は噛む必要はある。噛んだ瞬間に、じゅわっと肉汁が口の中で弾ける味わいがたまらなく美味しい。

「厚みがないわけではないからね。他のソースでも試してみてね」

 まだ何かを作っているマスターを横目に、三人は好きなソースを選んでステーキにかけ始めた。

「玉ねぎソースが甘くていい。思ったよりもさっぱりだし」

 野菜の甘さが閉じ込められたソースは、ステーキととてもよく合う。脂の甘さと相まって、これもご飯に合う味だった。できれば家で再現してみたい、と思いながら円はソースとステーキを味わう。

「にんにく醤油もいいよ、にんにくの味がしっかりしてるし、お肉と醤油って合うよね。ご飯ご飯……」

 手を動かし続けている可憐の様子で、どれだけ美味しいかがわかってしまう。盛り付けられたご飯もすぐに消えてしまっていた。空腹なのも相まって、普段よりも食べるのが早い気がする。

「いい食べっぷりだね。龍人くんはどうだい?」

「美味しいです。この酸っぱくてでもコクもあるソースってなんですか?」

 酸味が程よくきいて、けれど深みのあるステーキの味に仕上げているソースの名前がわからない。

「それはね、バルサミコ酢というのを使ったソースなんだ」

「円がたまにサラダとかに使ってるやつ?」

「よく覚えてたな」

「美味しかったし、珍しいから覚えてたよ」

 可憐の食に関する記憶力に感心しながら、円もバルサミコのソースをステーキにかけて食べた。

「いいですね、これ。元気がないときにも良さそうな」

「酢だからね」

 マスターと円の料理談義を聞きながら、龍人はステーキ肉を口に運ぶ。

 適当に料理を作っているとか、必要だからといいながら、円の料理に対する関心はとても高いと思う。真剣でありながら楽しそうにも見える、円なりの新しい料理を作る気がしていた。

「円、楽しそうだよね」

「うん」

 顔を見合わせた可憐と龍人の顔がほころぶ。料理をする人たちの専門的な用語も飛び交っていて、話には全くついていけないけれど、円が楽しそうにしているのは嬉しい。

「うーん、円くんの案を頂いて作ってみようかな。まだ二人は食べられるかい?」

「まだまだ大丈夫です!」

「俺もまだ余裕があります。存分に作ってください、何なら円も一緒に作ったらどうかな?」

 龍人の提案に、円は目を瞬かせる。あくまでこの店に来ている客の一人であって、料理をしにきているわけではない。

「マスターに失礼だろ」

「今日はいいよ、店休日だし。むしろ楽しそうだから作ってみよう。はい、どうぞ」

 店のロゴが入ったエプロンを手渡されて、円は深々とため息をついた。正直、嬉しい申し出ではある。ただ唐突ではないだろうか。

「円の美味しいご飯食べたいな~」

「俺も」

 にこやかに微笑む可憐と龍人、楽しげにしているマスター。

 断る理由はない、龍人の言う通り一緒に料理をしてみたい気持ちがあった。

「仕方ないな、しっかり食べろよ」

『はい!』

 可憐と龍人の返事を合図に、新たなステーキのソースの開発が始まろうとしていた。


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