第8章: 彩香の葛藤と決断

第9話

彩香は、家の中で何かが壊れていることに気づいていた。表面的には平穏な日常が続いているように見えたが、その裏には、夫・浩一との間に埋められない距離が広がっていた。彼女はその事実に目を背け続けていたが、健太との関係が進むにつれて、もはや無視できなくなっていた。


健太との時間は、彩香にとって現実逃避の場であり、同時に自分の欲望を解放できる唯一の場所だった。夫との間に欠けているものが、健太との関係ではすべて満たされるように感じていた。しかし、その快楽と安らぎの裏に潜む罪悪感が、彼女を次第に追い詰めていった。


ある夜、健太とホテルで会った帰り道、彩香は自宅に戻る途中でふと立ち止まった。彼女の心の中には、健太との関係を続けることの意味を考えざるを得ない瞬間が訪れたのだ。健太との関係が深まるほど、浩一との関係はますます遠のいている。その現実を、彩香はどう処理すればいいのか分からなくなっていた。


自宅に戻ると、浩一はいつものようにリビングでテレビを見ていた。彼の姿を見て、彩香は一瞬、何かを話し合わなければならないという衝動に駆られた。しかし、その言葉が喉まで来たところで、彼女は再び沈黙を選んだ。浩一との関係が冷え切っていることは事実だったが、それをどう打開すればいいのか、彩香には見当がつかなかった。


「おかえり。」浩一が声をかけたが、その声にはいつものように感情がこもっていなかった。彩香は軽く微笑んで「ただいま」とだけ返事をした。二人の間に漂う無言の時間が、ますます息苦しく感じられた。


その夜、彩香はベッドに入ったものの、なかなか眠れなかった。健太との関係をどうすべきか、そして浩一との結婚生活をどう再構築するべきか、頭の中で堂々巡りをしていた。健太との時間は確かに楽しく、彼女にとって特別なものだったが、それが永遠に続くわけではないという現実も理解していた。


「このままじゃ、何も変わらない…」彩香は自分にそう言い聞かせながら、深いため息をついた。彼女は何かを決断しなければならないということを強く感じていた。健太との関係を続けるべきなのか、それとも浩一との関係に戻るための努力をするべきなのか――その答えを見つけるために、彩香は自分と向き合う必要があった。


翌日、彩香は健太に連絡を取った。「今夜、話があるの」と短いメッセージを送り、その返事を待った。健太はすぐに「もちろん、どこで?」と返事をくれた。彩香は、自分が何を言おうとしているのか、その時点ではまだはっきりしていなかった。ただ、今のままではいけないという思いが強くなっていただけだった。


その夜、彩香は健太といつものホテルで会うことにした。彼が部屋に入ってくると、彩香は微笑んで彼を迎えたが、心の中では何かが違うと感じていた。彼との時間が、これまでのように単純に楽しめるものではなくなっていたのだ。


「彩香、どうしたんだ?今日は少し様子が違うね。」健太が心配そうに尋ねた。


彩香は少し間を置いて、ゆっくりと答えた。「健太、私たち、このままじゃいけないと思うの。私たちの関係が、どこに向かっているのか分からなくなってきたの。」


健太は驚いた表情を浮かべながらも、彼女の言葉に真剣に耳を傾けていた。「それは…君が浩一さんとのことを考えているから?」


「そうかもしれない。」彩香はため息をつきながら続けた。「浩一との関係はもう終わっているように感じるけれど、だからって私がこのまま君との関係を続けていいのか分からないの。夫婦としての義務や責任を無視して、逃げているだけなんじゃないかって…」


健太はしばらく黙ったままだったが、やがて静かに口を開いた。「彩香、君の気持ちは分かるよ。君がどう決断しても、僕は君を尊重する。でも、僕は正直言って、君との関係を続けたいと思ってる。君と一緒にいる時間が、僕にとっては本当に大切だから。」


その言葉を聞いて、彩香の胸はさらに締め付けられるような痛みを感じた。彼女も健太との関係が心地よいものであることは否定できなかった。しかし、それが長続きするものではないという現実も同時に突きつけられていた。


「ありがとう、健太。でも、私は一度自分の気持ちを整理しなきゃいけないと思うの。君との関係がどうなるかは、その後で決めたい。」彩香はそう言って、彼の手をそっと握った。


健太は軽く頷き、「分かったよ。無理に答えを出さなくていい。君が考える時間が必要なら、待ってる。」と優しく答えた。


二人はしばらく無言のまま、手を握り合っていた。その時間が、彼らの関係がこれからどうなるのかを示唆しているように感じられた。彩香は心の中で、健太に対する愛情と浩一との結婚生活の重圧との間で揺れ動いていた。


その夜、彩香は自宅に戻り、再び眠れぬ夜を過ごした。健太との関係を終わらせるべきか、続けるべきか。そして、浩一との間に残るわずかな絆をどうすればいいのか。彼女は答えを見つけるまで、長い時間がかかることを理解していた。

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