第6章: 玲奈の疑念と孤独

第7話

玲奈は、直人との関係にますます距離を感じるようになっていた。彼の帰宅がますます遅くなり、家にいる時間も少なくなっていた。直人が家にいる時でさえ、玲奈に目を合わせようとせず、会話も減っていた。玲奈は、直人が何かを隠していることを感じ取っていたが、それをはっきりと確かめる勇気がなかった。


夜中に目を覚ました玲奈は、隣で寝息を立てる直人を見つめた。彼の寝顔は、昔と変わらない穏やかさを持っていたが、玲奈にはそれが遠い存在のように思えた。彼女はそっとベッドから抜け出し、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、グラスに水を注ぎながら、自分の心の中にある不安と向き合った。


「直人は、何を考えているのだろう…」玲奈は静かに自問自答した。彼女は自分自身が浩一と関係を持っていることに罪悪感を抱きながらも、それが直人との距離を埋めてくれる手段だと信じていた。しかし、それが実際に効果を持っていないことを、玲奈は痛感していた。


スマートフォンを手に取り、何気なく直人のメッセージを確認しようとした。彼の携帯にはロックがかかっていたが、玲奈は以前から知っていた直人のパスコードを使い、画面を解放した。心のどこかでは、確認するべきではないという思いがあったが、彼女の好奇心と不安が勝ってしまった。


メッセージアプリを開くと、そこには美奈とのやりとりが並んでいた。「また今夜会える?」という直人のメッセージと、「もちろん、楽しみにしてるわ」という美奈からの返信。玲奈はその一連のメッセージを見た瞬間、胸が強く締め付けられるような痛みを感じた。


「やっぱり…浮気してたんだ…」玲奈はスマートフォンを握りしめ、体が震えるのを感じた。彼女自身も不貞を働いているとはいえ、直人が他の女性と親密な関係を持っていることが、何よりも衝撃的だった。彼女はその場に立ち尽くし、どうすればいいのか分からなかった。


一度確信を持ってしまうと、すべてがクリアに見えるようになった。直人の冷たい態度や、家にいない時間の増加が、すべて浮気の証拠だと玲奈は理解した。彼が彼女を裏切っている現実を目の当たりにし、玲奈の心には怒りと悲しみが交錯した。


キッチンのカウンターに両手をつき、玲奈は深く息をついた。怒りに駆られ、直人を起こして問い詰めたい気持ちがこみ上げたが、彼女はそれをぐっと抑えた。今、感情的になっても、彼の裏切りが消えるわけではない。彼女はどうすべきかを冷静に考え始めた。


「私も浩一と関係を持っているのに、直人を責める資格なんてあるの?」玲奈は自分にそう問いかけた。だが、彼女が感じている痛みと怒りは、理屈では片付けられないものだった。裏切られたという感覚が、彼女の中で強く根付いていた。


その夜、玲奈はベッドに戻ることができなかった。リビングのソファに座り、直人とのこれまでの生活を振り返っていた。二人は結婚してから何年も平穏な生活を送ってきた。確かに、最近は関係が冷え込んでいたが、それでも直人に裏切られるとは思っていなかった。


「どうして、こうなったんだろう…」玲奈は小さな声でつぶやいた。彼女が抱いていた理想の夫婦関係は、いつの間にか壊れてしまったのだ。直人に対する愛情が完全に消え去ったわけではなかったが、裏切られたという事実が彼女の心に深い傷を残していた。


朝になり、直人が起きてきた。彼は玲奈がソファで眠っているのを見て、少し驚いた様子だったが、特に何も言わずにキッチンへ向かった。玲奈は彼の姿を横目で見ながら、どう接するべきか悩んでいた。


「おはよう、玲奈。昨夜はここで寝ちゃったのか?」直人が軽く声をかけたが、その言葉には特別な意味は感じられなかった。玲奈はゆっくりと頷いた。


「うん、少し寝苦しくてね。」玲奈は平静を装いながら答えたが、心の中では激しい感情が渦巻いていた。彼が自分に何も気づいていない様子を見て、玲奈はかえって悲しさを感じた。


直人はそのまま何事もなかったかのように朝食を取り、出かける準備を始めた。玲奈は彼が玄関に向かう姿を見つめながら、問い詰めるべきか迷っていた。しかし、彼が出て行ってしまう前に、何も言わないままでいる自分が腹立たしかった。


「直人、待って。」玲奈は静かに彼を呼び止めた。直人は少し驚いた様子で振り返り、玲奈の顔を見た。


「何だ?」


玲奈は少し間を置いて、深く息を吸った。「最近、何か変だって思ってる。あなた、何か隠してるんじゃない?」その言葉は、自分自身のために発したものだった。玲奈は、直人の口から何らかの言い訳を聞くことで、自分の心の整理をしたかったのだ。


直人は一瞬目を見開き、何を答えるべきかを考えている様子だったが、すぐに冷静さを取り戻した。「何も隠してないよ。ただ、仕事が忙しくて、少し疲れてるだけだ。」


その言葉を聞いた瞬間、玲奈の胸に再び怒りがこみ上げてきた。彼の嘘があまりにも簡単で、何の罪悪感も感じていないように見えたからだ。


「本当に?」玲奈は彼の目を見つめながら問いかけたが、直人は目を逸らした。


「もちろんだよ。君には心配かけたくないから…」


玲奈はそれ以上問い詰めることができなかった。彼が自分に真実を話すつもりはないことを感じ取ったからだ。直人はそのまま何事もなかったかのように玄関を出て行ったが、玲奈の心には深い亀裂が入っていた。


「私はどうすればいいの…?」玲奈はソファに座り込んで、頭を抱えた。彼女の心は、裏切られたことへの怒りと、自分も不貞を犯しているという自己嫌悪で揺れ動いていた。直人に浮気されている現実にどう向き合えばいいのか、玲奈はまだ答えを見つけられずにいた。


その日の夕方、玲奈は浩一に連絡を取った。彼に会いたいという気持ちが強くなっていたからだ。裏切られたことで孤独感が一層深まり、浩一との時間が彼女にとって唯一の逃げ場となりつつあった。


「今夜、時間ある?」という玲奈のメッセージに、すぐに「もちろん。いつでもいいよ。」という浩一からの返事が返ってきた。その短いやり取りが、玲奈の胸に少しだけ安らぎをもたらした。


彼女は、浩一との関係が自分を救うものであるかのように感じ始めていたが、それがまた新たな問題を引き起こすことになることを、まだ理解していなかった。

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