第三話 怪(一)
***
「いやぁ悪いね。こんなに頼んじゃってさぁ!」
テーブルを挟んで向かい側のソファに腰を掛けた橘さんは喜色満面にそう言った。右手には小さなワイングラスを持っている。さも機嫌が良いという風にその手を軽く左右に振って中の液体を揺らして見せた。
駅前のファミレス。十六時という微妙な時間帯ということもあり、店内には僕たちの他に二組しか客がいなかった。
「別にいいよ。っていうか、このくらいしないとバチが当たりそうだし」
昼休憩を挟んで作業を再開した後、三時間ほどで一段落した。それからは雇い主である蓮田さんの号令でアルバイト一同は現地解散となったのだが、そのまま橘さんとも別れてしまうのは味気ない気がしたし、彼女の分のバイト代をちゃっかり受け取っておいて「はいさよなら」というのにもなんだか罪悪感もあったので食事に誘うことにしたのだ。
それから僕と橘さんは黙々と各自食事に没頭した。終始無言ではあったが、なぜだか気まずさはなかった。いや、むしろ懐かしさを感じている部分もある。不思議だ。
小さなワイングラスを傾けつつ、器用にカルボナーラをフォークで巻き取り口へ運ぶ橘さん。彼女を見ているとやっぱりなんだか……一言では言い表せないような感覚に陥る。
なんだろう。
悶々と考え込んでいるとこちらの視線に気が付いた彼女は少しはにかんで「なんだよ」と呟いた。どうやら照れているらしい。
可愛いところもあるじゃないか。
「そういえばさ、さっき貰ってた本ってなに? えらく喜んでたけど」
照れ隠しなのか、橘さんは手を止めて僕にそう問いかけた。
「あぁ、ずっと読みたくて探してた本なんだけど、絶版になってたからなかなか手に入らなかったんだよね。もう半分諦めてたからラッキーだったよ、ほんと」
僕は手荷物を入れておく為のカゴの中に目線をやった。そこには先ほど蓮田さんから貰った本が入っている。大掃除の最中になぜかコンロ下の収納スペースから発見されたのだ。そんな所にあったものだから状態はお世辞にもいいとは言えなかったが、ただ読むのにはなんら支障はなさそうだったので、蓮田さんに断って持って帰ることにしたのである。
「ふーん、いわゆる稀覯本ってやつね。なるほどなるほど。いいじゃん」
やっぱりただの照れ隠しの為の質問だったらしく、訊いておいてあまり興味のなさそうな反応だ。別に今更傷つくことでもないが、もう少し取り繕ってくれてもいいのではないかとは思ってしまう。
ちょっといたたまれない気持ちになった僕は手元にあったお冷をグッと飲み干した。それから別の話を切り出す。
「えーと、そうだ。橘さん、次の日曜日って予定ある?」
「ん? んー、あるっちゃあるけどないっちゃない。なんで?」
要するに僕がこれから話す内容次第ということだろう。
「実は蓮田さんから伝言を頼まれたんだよ。仕上げの拭き掃除に来てくれないかって。追加でバイト代も出してくれるらしいよ。僕ら二人でやってほしいんだってさ」
「それは……なんで?」
橘さんはまるで二歳児のように「なんで?」と繰り返し言った。確かになぜ僕たち二人なのかという点に疑問はあるが、僕としては追加でバイト代を貰えるのなら理由はどうだっていい。守銭奴と思われようが今の僕はお金が貰えればそれでいいのだ。
「うーん、ちょっと考えたい……かな。明日には結論を出すよ。それでいい?」
やけに慎重だ。いや、慎重というよりは訝しげという方が正確かもしれない。蓮田さんが何か企んでいるとでも言いたいのだろうか。
「あぁ、いいよ。僕はどっちにしても行こうと思ってるから」
そしてまた各々の食事を始める。今度はなんだか気まずい。特におかしなことを言ったつもりはないが、橘さんは明らかに気分を害したようだった。眉間にしわを寄せ、左手の人差し指で机をタンタンと叩いている。
僕はオムライスの最後の一口を飲み込んでからコップを持って席を立った。このファミレスは給水もセルフサービスなのだ。
「僕、水をいれてくるけどいる?」
一応のマナーとして訊いておく。しかし無情にも無言で断られてしまった。ちょっとショックだ。
無駄にのんびりした足取りでドリンクバーコーナーへと向かう。歩数にしてたったの十歩。持参した空のコップに氷を三つ放り入れ、『水』という無味乾燥なテプラが貼られた給水機のボタンを軽く押した。どうやら古い機械のようでちょろちょろとしか出てこない。
せっかちな質ではないが、少し癪に障る。ほんとに少しだけ。
なんの意味もないのに『はやく溜まれ』と念を込めながら流れる水を見つめていると背後で何かが落ちる音がした。反射的に振りかえるとそこにはなぜかあの稀覯本があった。
「んん?」
状況が飲み込めず、僕はなんとも間抜けな声を出してしまった。さっきの橘さんではないが「なんで?」と言いたくなる事態だ。だってこの本は確かに足元のカゴに入れておいたはずなのに。
僕はよくわからないままにひとまず本を拾い上げた。うん、どこからどう見ても確かに蓮田さんから貰ったあの本だ。中身もきっと……。
「うわっ! なん、だこれ」
表紙を捲った僕の目に飛び込んできたのは無数の長い髪の毛だった。
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