橘未明は魅入られている!
マリエラ・ゴールドバーグ
第一章:稀覯本
第一話 誘い(一)
とにかく金欠だった。
とは言っても浪費癖があるわけではない。長年探し続けていた稀覯本を街の古本屋で見つけて購入しただけだ。週に三冊ペースで。
偶にこういうことが起こる。まったく収穫がない時期があったかと思えば、ここ一か月のように面白い位に目ぼしい本が続々と見つかったりするのである。
その結果としての金欠。
悔いも無ければ反省も無い。なぜならこれは人生における必要経費だからだ。彩のある人生を送る為には必要不可欠なことだからだ。
強がりではない。断じて。断じて!
「でも……給料日まであと十五日かぁ」
そう。僕がどう思おうが、現実に金が無い。
取り敢えず空腹を誤魔化そうと、僕は狭い自室の床に転がって目を瞑った。しかし視覚情報が遮断されたことによって、余計に腹が空いていることに気がいってしまった。
「あーあ、飲食店でバイトすべきだったなぁ。まかない食いてぇよ」
我ながら情けないひとり言だ。こんなの誰にも聞かせられない。
固いフローリングに転がっているので背中が痛くなってきた。僕はもぞもぞと芋虫のように体勢を変え、横を向く。すると積み上げたハードカバーの本達に足がぶつかった。バランスを崩した本達は重力に伴って次々に落ちていく。
「最悪……」
今の僕にそれらを積み直す気力は無かった。どうせこんなボロアパートに訪ねてくる人間なんていない。多少汚れていようと本が散乱していようと何ら問題はないのだ。
もう寝てしまおう。
平日の十四時だが、この状況から逃げるには寝るしかない。言うなればふて寝だ。僕は目を瞑った。実のところ睡魔はもうそこまで来ていたのだ。あと1分もあれば夢の世界にいる。
僕が意識を手放したその時。
「おーい、和泉! 寝てんのか?」
聞き慣れた声と共に玄関ドアがガンガンと殴られる音が耳に入った。現実世界に戻ってきた僕は慌てて身体を起こす。そして床に転がった本と本の間を縫うようにして玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこにいたのは同じ大学に通う同期の山上だった。彼はいつも通りのスウェットパーカーにジーンズ姿で、僕を見るなり「バイトしない?」と何の前置きもなしにそう言ったのだった。
「とりあえず、中入って。お前、声デカいから近所迷惑だよ。ってかなんで僕の住んでる所知ってるんだよ。教えたことあったっけ」
「おーごめんごめん。和泉と同じサークルのやつに聞いたんだよ。それにしても随分とこう……趣のあるアパートに住んでるんだな」
山上は履き古したスニーカーを脱ぎながら言う。一応はオブラートに包んだようだが、意味を成していない。
「で? バイトってどんなヤツ?」
さり気なく散乱した本を部屋の端に積み上げていく。山上はそれを眺めながらローテーブルの前に座った。僕は冷蔵庫にあったなけなしのお茶をグラスに注ぎ、彼の目の前に置いてから床にあぐらをかいた。自分の分は無しだ。節約節約。
「うん。俺の代打って感じなんだけど……平たく言うと引っ越し作業というか、遺品整理というか」
「それって結構違う作業じゃないか?」
彼自身も詳しい内容を把握していないらしく、苦笑いで首を傾げている。
「まぁまぁ、荷物を纏めて運ぶっていう点では一緒だろ。それよりも真っ先に聞くべきことがあると思うんだけど」
山上は苦笑いから含みのある笑顔に変わった。バイトの話で聞くべきことと言えば……。
「確かに。それって幾ら貰えるの?」
僕の問いかけに、山上はドヤ顔で『パー』にした手を掲げた。
「やります」
考える前に口をついて出た。
だって五万円なんて大金、今の僕には喉から手が出るほど欲しいものだ。多少怪しくたってやるに決まっている。それはきっと山上も同じに違いない。だったらどうして僕にこの話を持って来たのか。
「あー気になるよな。でもそんなに深刻な理由でもないんだよ。単に必修科目の中テストとバイトの日が被ったってだけの話。日給五万円はそりゃあ欲しいけど、単位を落とすわけにはいかないからな。仕方がない」
かなり納得のできる理由だった。僕らみたいな普通の大学生にとって大事なのは単位と遊びに使う金だ。それらを天秤にかけると当然ながら単位が勝つ。
「それでバイトっていつ?OKしといてなんだけど、講義に出なきゃいけないのは僕も同じだよ」
「明後日だな。金曜日の……朝七時に登美濃駅集合。他にも何人かバイトがいるらしくって、雇い主が駅まで迎えに来てくれるんだってよ」
それはまた好待遇な。それにしても雇い主は相当なお金持ちなのだろう。五万円の給料を数人に出せるなんて。
「じゃあ、当日は頼んだ!雇い主の方には俺から伝えておくから」
そう言って山上は自分の膝をパンと叩いて立ち上がった。それにつられて僕も立ち上がる。そのまま玄関に向かうかと思ったが、彼は狭い室内をぐるりと見回して言った。
「和泉、お節介かもしれないけどな。ほどほどにしとかないと、しまいには本に殺されるぞ」
否定は出来なかった。
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