さあ、かんぱーい
綿貫のて
さあ、かんぱーい
室内なのに妙に指先が冷える。
今、何度だろう。
沙世は取り出したばかりの時計を見た。時刻の横に、気温が小さく表示されている。
「げ、九度じゃん!さむ!」
先程から寒い寒いと思っていたが、数字として気温を突きつけられると余計に寒く感じる。
沙世は反射的に肩をすくめ、慌てて傍に置いた黒いダウンコートを羽織った。
「っていうか香織はなんでそんな平気な顔して作業してんの」
「セーターの下にヒートテック三枚着てるー」
段ボールから梱包材に包まれた食器類を取り出しながら香織が答えた。
「三枚って多くない?」
「エアコンないって分かってたから着こんできた」
「さすが香織。用意周到」
「でしょー」
笑い合って手を動かし始めれば、部屋には再び静寂が訪れた。
無心で作業を進める。時折これはどこにしまうのかと一言、二言、言葉を交わし、また静かに手を動かす。
そうこうするうちに食器類を片付け終え、協力してダイニングテーブルを設置した。途端にがらんとしていた部屋がだいぶ温かい雰囲気になった。
なんとなくほっとして、沙世は口を開いた。
「ちょっと休憩する?」
「そうだね。さすがに疲れてきた」
朝八時からこまごまと動き回って、もう十一時だ。
三ツ口であることにこだわったガスコンロの一つで湯を沸かす。コンロも流しも明らかに使い古されていることが見て取れるが、きれいだ。
古いけれど清潔で心地よい。まるで自分たちのようだ、と沙世は思った。
人生の大イベントと言われる結婚も出産も経験することなく年齢を重ねてしまったが、それでも誠実に生きて、自分ではそれなりに心地のいい人生を送っている。
「お湯湧いた!緑茶?紅茶?」
ケトルから湯気が上がったのに気付いた香織が嬉しそうに言って立ち上がった。沙世が湯を沸かした代わりにお茶を淹れてくれるつもりらしい。
「緑茶お願いー」
「ほいよ。相変わらず和風がお好きなことで」
そう言う香織は紅茶缶を取り出している。
「そちらは相変わらず洋風だことで」
沙世の返しに、にやりと笑って香織はお茶を淹れ始めた。
その様子をダイニングテーブルとセットになっているチェアに座って眺めていると、ふとあることを思い出した。
「そういえばさー」
湯気の立ち昇るマグカップを受け取りながら、沙世は口を開いた。
「うん?」
「梱包しながら『ずっと前にどこに行ったか分からなくなったものが見つかるかなー』って思ってたんだけど」
「うん」
自分も椅子に腰かけて、香織がさらに相槌を打つ。口に付けたマグカップから立ち昇る湯気で、彼女の眼鏡が曇った。
「結局出てこなかった」
「えー、捨てちゃったんじゃない?」
「捨ててない捨ててない。……まあ、大事にしてたものだし」
「ちなみに何なくしたの?」
「ん?」
なくしたあれこれが脳裏に浮かび、沙世は行ってもいいものか迷った。
なんとなく話し始めてしまったが、これは恥ずかしい話なのではないか。
「いや、何なくしたの」
無言を貫こうとしたが、香織は追及してくる。そうだ、香織は気になったことは突き詰めるタイプなのだった。
「えっとねー。一つは、気に入ってた髪留め。うっかりゴミ箱に落としちゃったかも」
「それは悲しい。他には?」
「え?」
とぼけて聞き返すと、香織は白状しろとばかりに目を細めて見つめてくる。
「あー……、言いにくいんだけどさ」
「うん」
「使い古した下着」
早口でぽそりと告げた瞬間、香織が仰け反った。
「え、待って。待って?それ、なくしたんじゃなくて盗まれたとかじゃない!?」
「やっぱそう思う?」
「思う思う!」
「ええー!下着泥棒かな?それともストーカー?」
「やだ!どっちも怖いやつじゃん」
「そうだよー!何で今まで気付かなかったんだろう!」
言い知れない恐怖感に身が震え始める。いや、寒さのせいかもしれないが。
「やだー!……ん?待って」
一緒になって怖がっていた香織が、ふと冷静になり、首をかしげた。
「沙世、他になくなったものは?」
「えーっと……ない」
「夜道で誰かに付けられたとか」
言われて思い返す。別段何も考えず毎日帰宅し、下着がなくなっても二年も放っておける程度には何もない。
「……ないね」
「無言電話、いたずら電話」
「ないね」
「ってことは、ストーカーの線はないな」
謎が解けて興味を失ったとばかりに香織がそっぽを向いて言った。
「出た!推理小説好き!「線」とか典型的な用語じゃん」
「沙世も読みなよ。面白いから」
「嫌だよ。私は恋愛小説派。それより、泥棒の可能性はあるんじゃない?」
「えー?でもなくなったの一枚だけなんでしょ?しかも使い古しで明らかに年食った女性用」
「年食った言うな。まあ、確かにババア全開の快適さ優先のデザインだったわ」
沙世が諦めたように言うと、香織が何か考えるように腕組みをした。
「そうね、私の読みでは「捨ててないつもりで実は捨ててた、もしくはベランダから落ちてどなたかが処分してくれた」という線が濃厚」
「……そっか。それ、ありそうね」
言われてみれば、そちらの方が現実的な推測だ。
妙に得心して、沙世は紅茶をもう一口、口に含んだ。
「あるある。だって私たち五十代よ。いろんなものに気付かず、端から忘れていくのよ」
「わー!言わないでー!!年齢なんてただの数字ただの数字ー!」
「しかしその数字に比例して視力も認知能力も衰えてゆくのです」
香織が祈りを捧げる聖職者のようなポーズで言うので、沙世は思わず吹き出した。
「あは、違いない」
「あ、認めた」
「ほら、俳優の名前思い出せないレベルを超えてさ、ドラマ見ながら、え、前回どういう展開で終わったっけってならない?」
「なる」
「ずーっと連続するドラマより一話完結が見たくならない?」
「なる!」
『いぇーい!』
意見が一致して、古いとは分かりつつもハイファイをする。
「……さ、片付けの続きをしようか」
香織も古いと思ったのだろう。すっと無表情に戻って言った。
わかる。と沙世は心の中で同意した。年を取るとあるのだ。こういう、古臭さに恥ずかしくなる瞬間。
「だね」
沙世も表情を落ち着けて、何事もなかったかのように立ち上がった。
「ふう……」
その後、一時間ほどで一通り自室の片付けを終えた沙世は、ダイニングテーブルに腰かけて一息ついていた。
しばらくのんびりと過ごしていると、香織がダイニングへ姿を現した。
「あー、お腹空いた」
「もう十二時だし、お昼にしよっか」
「いいねー」
買っておいたコンビニの弁当とお酒を二人でいそいそと取り出す。
「もう片付け大体終わった?」
ビールとノンアルコールビールを見比べながら香織が言った。アルコールのあるなしに関わらず飲む気満々のようである。
「うん。あとは段ボール片して外に出せばいいくらい」
「わたしもー。じゃ、飲もっか」
言われて沙世もミネラルウォーターではなくビールを取り出す。
再びダイニングテーブルにつき、弁当を前に手を合わせた直後、香織が唐突に口を開いた。
「じゃあさ、どうしても捨てられなかった物とかある?」
何が「じゃあさ」なのか分からないが、会話の始まりなんて、こんな風に適当なものである。
沙世は視線を宙にやり、少しだけ考える。
「んー、大概捨てられないまま持ってきちゃったなあ」
「代表格は?」
「ぬいぐるみ」
小さい頃に買ったものから、若かりし頃に買ったもの、割と最近気に入って買ってしまったものまで、結構な数になる。
「あー、わかる。私も持ってきた」
弁当の蓋を開けながら香織が言った。
「香織も?意外ー。でもわかる。この年でぬいぐるみ?って思うんだけどさー。捨てられないよね」
「うん。妙な罪悪感と、祟られそうっていう恐怖心も湧いてさ」
「そうそう。祟られそう!で?そっちは?」
「私?そうだなー」
香織が宙を見ながら思考を巡らせる。
「推しのDVD?ライブとか、ドラマとか。結局踏ん切り突かなくて持ってきた」
「それな。私も踏ん切りつかなくてCD持ってきたわ」
「CD!!!どうやって聞くのそれ」
香織は足をばたつかせて大笑いし始めた。
「まだパソコンで聞けるよ」
「まじで?」
まさかの回答だったらしく、香織は急に笑うのをやめ、心底驚いたように聞いてきた。
「うん」
「聞いてる?」
「ふ、聞いてない。むしろストリーミングで聞いてる」
「CD持ってる意味ー」
「歌詞書いてあるジャケットって貴重品じゃん!」
「まあね。でも歌詞覚えてるんでしょ」
「うん」
「CD持ってる意味―」
「ぐうの音も出ないわ。でも捨てない」
「うん。いいと思う。自分の部屋が狭くなるだけだし」
「だよね。自分の部屋が狭くなるけど、思い出のためのスペースよ」
そう。日々、思い出の積み重ね。
新しい生活を始めるにしても、過去は常に引き連れていくのである。
さて、気を取り直して食べよう、と缶ビールを開けた瞬間。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。
「あ、忘れてた。エアコンの業者さん来るんだった」
沙世は慌ててビールの缶をテーブルに置いた。数時間前に電話で連絡をもらっていたのにもう忘れてしまうとは。
「来た来た!お部屋をあったかくしてくれるやつ!」
「私対応するね」
暖房の到着を喜ぶ香織に声を掛けて立ち上がると、「あ、待った待った」と引き留められる。
「ん、何?」
「独身女同士の同居、今日からよろしく」
笑みを浮かべて香織がビールの缶を差し出した。沙世も、一度はテーブルに置いた缶を手に取ると、笑って頷いた。
「よろしく」
『かんぱーい』
互いにビール缶を掲げて乾杯をする。その勢いで体ごと缶を傾け、ごくごくと飲めるだけ胃に流し込む。
「はー!おいし!」
やはり労働の後のビールは格別である。
ピンポーン
もう一度玄関のチャイムが鳴り響いた。
いけない。待たせていることをうっかり忘れてビールを飲み続けそうだった。
沙世は笑いをこらえながら香織を見た。香織の方も忘れていたのか、いたずらがバレた子供のような顔をしていた。
「あは、業者さん待たせちゃってる。いこ」
「はいはーい。今行きまーす!」
二人はくすくすと笑いながら玄関へと向かった。
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