いたいの、いたいの。
亥之子餅。
いたいの、いたいの。(1)
幼い頃の話だ。
私はやんちゃな少年だった。学校から帰るや否や、ランドセルを玄関に放って外に飛び出した。それで公園やら裏山やらを走り回っては、転んで膝を擦り剝いた。強情で見栄っ張りな性格だったから、毎度友人たちの前で泣くのを
***
ある日、例によって膝を擦り剝き、日が傾いた頃に家に帰ると、私はそこにあった光景に違和感を覚えた。
玄関で母が待っていたのだ。いつもだったら台所に立って夕飯を作っているのに、今日はきょろきょろと周りを見渡しながら、私の帰りを待っていた。別に今日に限って帰りが遅くなったというわけでもない。
何かあったのだろうか。首を傾げながら近づくと、母は至っていつも通りの反応で私を迎えた。
「おかえりなさい。……あらあら、また怪我したのね」
「平気だよ、このくらい」
私は捕まえようとしてくる母をすり抜けて中に入る。母も私を追いかけるように戻って玄関の戸を閉めた。
「駄目よ、ちゃんと手当てしないと。ばい菌が入ったらもっと痛いわよ」
「……痛くないし」
強がる私に、母はなぜか嬉しそうな様子で棚に手を伸ばした。
「ほら、こっち来なさい」
母の呼び声に、私はうんざりしながらも振り返った。
そこで私は二度目の違和感を覚えた。いつもだったら、消毒液の匂いが染みついた古びた救急箱の出番だった。しかしその日の母は、にこやかな笑顔で小さな紙箱を手にしていたのだ。私は母の手元をじっと見つめる。
……それは、絆創膏の箱だった。
月に数回ほどおつかいで行く薬局では、一度も見たことのない商品だった。
「お隣さんに貰ったのよ」
嬉しそうな声に、私は首を傾げた。だがよく分からないままに手招きに従って、母の前に座り込む。
まだジンジンと痛む傷口を見せると、母は一段と目を輝かせた。まるでこの瞬間を待っていたかのように、幸せそうな顔をしたのだ。私は眉をひそめる。母はいつもなら、怪我をした私よりも痛そうな顔をして手当てをしてくれる人なのに。
戸惑いを隠せずにいる私には目もくれず、母は例の箱から一枚の絆創膏を引き抜いた。フィルムを剥がし、迷いなく私の膝にあてがう。その絆創膏は普通のものよりも少し大型で、血の滲む擦り傷を完全に覆い隠してしまった。
私はふと、床に置かれた例の箱が目に入って、なんとなく手を伸ばそうとする。
と、その時。
「――――私の目を、見なさい」
母の低い声が響いた。まるで大人の男のような、優しい母の口からは聞いたことのない声だった。思わず肩をすくめて、母の顔を見上げる。
頭の中を覗かれているような、嫌な感じがした。だが一度合わせてしまった視線は、私の瞳を凝視する母の顔から逸らすことができなかった。金縛りのように、身体が硬直して動かない。
やがて、しばらくの沈黙の末に、母の唇がゆっくりと動き出した。
【――――いたいの、いたいの、■■■■■。】
聞き慣れたようで、初めて聞く言葉だった。
それは不思議と、心地よく脳に響いた。身体の芯が
放心していると、母はにこやかに笑って言った。
「絆創膏、剥がしてみなさい」
「……えっ、でも今貼ったばっかりだよ?」
「いいから。ほら、早く」
促されるままに、絆創膏に指を伸ばす。カリカリと爪で引っ搔くと、徐々に端から取れ始める。指先で摘んで、ペリペリと剥がす。
絆創膏が隠していた場所を見たとき、私は驚いて声を上げた。
――――そこに、傷はなかった。
血が止まったどころではなく、傷跡も残さず綺麗に治ってしまっていたのだ。ジンジンとした痛みも、すっかり消えていた。
「な、なんで!?」
奇跡としか思えなかった。一瞬で怪我を治してしまうなんて、魔法の絆創膏、魔法のおまじないだ。
母はまた嬉しそうに、例の箱を握りしめながら語り始めた。
「お母さんもさっきお料理してて怪我しちゃって。絆創膏を切らしてたから、薬局に行こうと思ったの。そしたら、ちょうどその時お隣さんに会って、これを貰ったのよ! お家にあげてもらって手当てしてもらったら、すぐに傷が塞がっちゃうんだもの、なんてすごい絆創膏なのかしら!」
光悦の表情を浮かべる母に、私も無意識に口元が綻ぶ。
母の言う通り、本当にすごい絆創膏だ。こんなにすごいものがあるなら、いくら怪我をしても心配ない。思う存分遊びまわれる。
私は奇跡を目の当たりにした興奮と、その奇跡を手に入れた充足感で、母と顔を見合わせて笑い合った。
<続>
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