海に沈むジグラート 第75話【未来を灯す】
七海ポルカ
第1話 未来を灯す
「お留守の間にこんなにシャルタナ公にネーリ様を会わせたと知ったらラファエル様がお怒りになるのではないかしらと心配になって参りました」
思い出したようにそんな風に言ったアデライード・ラティヌーに、ネーリは明るい顔で笑った。
「大丈夫だよ。僕が会いたいって言ったんだもの。
ラファエルは僕がしたいと思ったことは尊重してくれる。
アデルさんは僕の願いに付き合ってもらってるだけだよ。貴方は僕を一人にしないようにしてっていうラファエルの言いつけを大切に守ってくれてる。怒る理由がないよ」
少し不安げな表情を見せた令嬢は、ネーリにそう言われると安心したようだった。
「ネーリ様がそうやって『大丈夫』って明るく笑いかけて下さると、なんだかなんでも大丈夫なような気になってくるから不思議ですわ」
アデライードはこういうところが、ネーリから見るとラファエルによく似ていた。
「ネーリ様のことは……王宮では秘密のはずですけれど……」
彼女は少し声を下げて言った。
「シャルタナ公は六大貴族ですから茶会など、かなり格の高いご友人がいらっしゃる可能性があります。その中にもしや、ネーリ様のことを知っておられる方がおられるかもしれないのでしょうか? もし、そういう方がいらして王宮に密告でもされたら困りますわ」
「……王妃が『ジィナイース』の名を、王太子に名乗らせているから、むしろ彼女にとって知られたくないことなんだろうなと思うから、そういう人間は多くはない……とは思うんだけどね……」
ネーリは頬杖をつく。
「六大貴族……【青のスクオーラ】は政にも関わっているというから、注意は必要だと思うんだけど……ただラファエルの話だと、王宮は王妃の許に一枚岩では無い感じだと言っていたから、青のスクオーラの中でも、もしかしたら王妃が信頼する人としない人がいるのかもしれない」
彼は独り言のように小さく呟いた。
「王妃がもっと貴族に影響を与え、信頼を得ているなら……もっと僕の監視が強い気がするんだ。そういう人たちに命じて、それとなく見させればいい」
「前に時折そういう気配を感じられると言っておられましたけど、あれは……」
「僕が全てを把握出来てないだけかもしれないけど、なんか違うんだ。伺ってる気配が、貴族が雇っている人間って感じがしない。言葉に上手く出来ないけど……。
そもそも僕が気付いたのは、尾行する人間に見覚えがあったからなんだ。
ある日気付いて、その後も何人か見かける顔がある。数人だよ。それ以上はいないんだ。
僕と目が合って慌てて去って行ったような人もいる。なんというか……プロっぽくないんだよ。普通尾行に気付かれたら、二度とその人は使わないよね? でもしばらく経つとまた見るんだ。だからそれ以上の人数がいないことを考えると、王妃が、僕の監視を命じられる人間の数はごく限られてるような気がするんだ」
「そうなのですか……危険を感じたことはないのですか?」
これにははっきりとネーリは首を振った。
「それは全く。本当に遠くから見てるだけなんだ。定期的に居場所を確認している感じかなあ。それに……アデルさんはミラーコリ教会に行ったことあるんだよね?」
「はい。ネーリ様のアトリエ、見せていただきました。小さい教会ですけれど、子供達が教会のお手伝いをしながら遊んで、近所の方が神父様とお茶などをして……私はとても素敵な場所だと思いましたわ」
ネーリが微笑んでいる。
「うん。僕もそう思う。ミラーコリ教会はヴェネツィアの北の外れにあるでしょ?」
弓なりの街を形成するヴェネツィアの、確かにミラーコリ教会は北の外れにある。
神聖ローマ帝国の駐屯地はその更に、三日月の先端にあるけれど、市街という意味ではミラーコリ教会がヴェネツィア最北の区域だ。
「あそこは市街の外れだから、人が行き交う場所じゃない。みんな顔見知りで、知らない人が迷い込んだら、それだけですごく目立つんだ」
つまり……、とアデライードは目を瞬かせた。
「僕を監視してる人が、あの教会の近くまで来て通路に潜んで伺ったりしてたら、あの可愛い子達に『何してるのー?』って目を輝かせて聞かれちゃうんだよ」
その光景を想像してから、アデライードは吹き出してしまった。吹き出すなんて、令嬢らしからぬと思って慌てて口元を押さえたが、こみ上げてくる笑いを堪えられず、くすくすと笑っている。
「それは……ホントですわね」
「うん。そうなんだよ。だから僕が大抵視線を感じるのは、もっと市街の方に歩いて行った時なの。街中だよ。少なくともミラーコリ教会の周辺には、彼らも入って来れないんだ。これは神聖ローマ帝国軍の駐屯地も同じ事情だけどね」
ひとしきり笑ってから、アデライードは紫掛かった瞳を細めて微笑った。
「あの教会は……本当にネーリ様の聖域なのですね」
「うん」
「それを見越して身を寄せられたのですか?」
ネーリは首を振る。
「ううん。それは本当に偶然なんだ。僕がミラーコリ教会に身を寄せた理由は、天井のステンドグラスなんだよ」
「ステンドグラス? もしかして、この前シャルタナ公に会った時おっしゃっていたものですか?」
「うん。屋根裏にあるの。尖った部分の六面を使って、ステンドグラスで天地創造を描いてあるんだ。僕はヴェネツィアに来る前は周辺の島をウロウロしてたけど、北の外れから小さなボートでヴェネツィアに来た時、夜で、一人で歩いてたら月に照らされて教会の天井が光ってたんだ。あそこはもっと昔は夜中でも火を焚いて扉が開いてたから、勝手に悪いかなと思ったんだけど入って、一晩中見上げてスケッチしたよ。翌朝、鐘を鳴らすためにやって来た神父様が梁の上に乗って絵を描いてた僕に気付いて驚いてた」
まぁ……とアデライードは瞳を優しく輝かせた。
この兄妹が一番似てるなと思うのはこの瞳の輝きだとネーリは思う。
ラファエルもこんな風に自分の話をいつも聞いてくれる。
「そうでしたの……。私もステンドグラスはとても美しくて好きですわ。ミラーコリ教会にそんなステンドグラスがあるなんて気付きませんでした」
「屋根裏にあるから知らない人が多いの。でも……僕はそんな誰も見ないようなところに作られたあのステンドグラスがとても好きなんだ。本当に神様の為だけに作られたように思えるから」
「はい」
「今度案内してあげるよ。一緒に見に行こう」
「はい。ありがとうございます。とても楽しみです」
シャルタナ邸が遠くに見えてきた。
「ネーリ様。私はまだ、貴族の皆さんとお茶会で優雅に話せる自信がありませんわ。
シャルタナ公と、レイファ様にお願いしてみようと思いますの。
あくまでも雰囲気を楽しむ限りにさせていただけたらと。
お二人とも、そんな風に申し上げたら無理に皆様にご挨拶しなくてもいいと仰っていただけると思いますわ。今までも、私の世間知らずは気を遣って下さいましたから……。
私がネーリ様が茶会の方々やシャルタナ邸をスケッチしているのを見ていたいと言ったらお許し下さると思うのですけれど……それでは無礼だと思われるでしょうか?」
実は、アデライードが提案したことは、ネーリがシャルタナに願おうとしていたことと全く同じだった。
自分は貴族の皆さんに挨拶出来るような画家ではないため、あくまでも今回はシャルタナ邸のスケッチをさせてもらおうと。彼は絵を描いてもいいと言っていたから、きっとそういえば好きにして構わないと言ってくれるとは思っていたのだ。
アデライードが茶会を見たければ、レイファに彼女を頼もうと思っていた。
シャルタナ兄妹は非常に仲がいいので、レイファもそんなに信じてはいけないのだろうが、彼女は公の場でアデライードをぞんざいに扱うような女性ではないことだけは分かったからだ。
きっと社交界に慣れていない彼女が気疲れしないようにさせてくれるだろうと思った。
「全然大丈夫だと思う。僕も実は今、茶会ではそうさせてほしいってシャルタナ公にお願いしようかなと思ってたんだ。描きたいのは本当だけど、貴族の人と会わなくてもいいかなって。僕はスケッチしてると本当に何時間も夢中で描いちゃうから、それだとアデルさんはさすがに退屈かなと思って、レイファさんにアデルさんのことをお願いしようかなと思ってたんだ」
ネーリが自分と同じことを考えていたと知って、アデライードはホッとしたようだ。
「それなら私は、ネーリ様のお隣に座ってスケッチを見ていたいですわ。私、修道院でも時間がある時は庭の花や池の魚をずっと眺めているの、とても好きでしたの。お掃除が終わった聖堂で、それこそステンドグラスが日の傾きで輝きが変わっていくのをずっと見るのも大好きでした。退屈なんてとんでもないですわ。幸せな時間です」
それを聞いたネーリは明るく笑って、アデライードの手を優しく握った。
「じゃあ一緒にいようか」
アデライードは一瞬目を瞬かせたが、すぐに嬉しそうに頷く。
「はい」
ラファエルはきっと、この先多くの苦難をネーリとの友情のために背負うことになる。
……そんな予感がネーリにはしていた。
だから、どうしても彼を支えたくて【エデンの園】を彼に贈ったのだ。
アデライードはラファエルの信頼する宝物だが、女性だ。
戦場には連れて行けない。
戦場の孤独は彼女でさえ、癒やすことや理解することは出来ないと思ったから。
(杞憂だったかな)
アデライードの柔らかく温かい手を握ったまま、ネーリは馬車の外を見遣った。
彼女の纏う光は――、
いや。
【色】は、もっと鮮やかで華やかだ。
きっとどこにいようとラファエルの心を彼女は照らしてくれるだろう。
感謝を込めて、ネーリはアデライードの手を握りしめた。
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