フィアス・レイヴン

広茂実理

第1話 儚き日常

「あ……」

 瞬く間の出来事は、無音だった。

 一呼吸遅れて、時が動き始める。

 無意識の状況確認。

 日常の一風景が、おれの手を止めた。

 いつものように洗い物をしていただけ。特段に力を入れていたわけでもない。

「気が付かなかったけれど、どこかにヒビでも入っていたのかな……」

 丸い皿が、二つに分離していた。つまりは、割れたのである。

 おれはぼそっと呟きながら、ひりとした痛みに視線を下げた。まるで袈裟斬りにされたかのような傷が、視界に入る。鮮血が、ぷくぷくと小さな丸をいくつも生み出していた。右腕の、手首から下。浅いが、長い。

 原因は一目瞭然。左手側に残された断面が、上下運動の勢いのまま、殺す暇もなく接触したからだ。

 縁を洗っていなければ、こうはならなかっただろう。

「えっと……」

 ふうと肩を下げる。ひとまず手についた泡を洗い流そう。皿だったものは一度横へ置いておく。あいつらが触らないように、気を付けておかないと。

「こんなところを見られたら、騒ぎ立てるだろうな」

 苦笑しながらぼやくと、ガチャリと扉が開いた。流水にさらす手をそのままに、そちらへ視線を巡らせる。少し汗ばんだ、人のいい笑顔がそこにあった。

沙希人さきと、洗い物ありが――って、ううう腕えーっ!」

 腕の様子に気付いたと同時。ぎょっとした顔で叫ぶ、同じ年の少年。

 ああ、そうか。誰よりもこいつが騒ぐかと頭の隅で捉える。

 おれは濡れた手を拭き、驚きに揺れる栗色頭を見た。

 彼の足元には、袋いっぱいの生活必需品が置かれている。

「買い物ありがとう。お疲れ様。重かっただろう?」

「いや、そんなことはなかったよ。――って、だから腕!」

「ああ、うん。ごめん。皿を割ってしまった」

「ああ、うん。じゃないよ! どうして笑っているのかなあ、きみは。とにかく、そこでじっとしていて。すぐに、救急箱を持ってくるから」

「悪いな。頼むよ」

 返事を聞いていたかどうか怪しいスピードでバタバタと駆けていく、栗色の柔らかな毛。彼の背が見えなくなってから、改めて縦に割れた皿を見た。

 まるで、一刀両断にされたかのようだ。

「やけに、綺麗な断面だな」

 美しささえ感じさせるそれに魅了され、誘われるようにそっと指を伸ばす。触れるかどうかというところで、美術品の元使用者が戻ってきた。

「こら、沙希人。不用意に触らないの。指先もくれてやるつもり?」

「そうだな。ごめん」

「もう……水では洗ってあるみたいだね。じゃあほら、こっちに来て」

 キッチンから、隣接しているリビングへ。呼ばれるがまま大人しく従い、彼の隣に座る。向かい合い、躊躇いもなく腕を差し出して傷口を向けた。重力に従って、赤がすっと滑る。

 優しい目元が、泣きそうになった。

「痛そう……平気な顔をしているけれど、痛くないの?」

 傷口周りの水分や血液を拭き取りながら、問われる。手つきはそっと優しいもので、ふわふわとした心地。まるで、壊れ物でも扱うかのようだ。

「見た目ほどじゃない。浅いから、大丈夫だ」

「ちっとも大丈夫じゃありません!」

 きぱっと両断され、互角の切れ味に目を丸くする。瞠目しているおれのことなどお構いなしに、てきぱきと動く彼の手が消毒薬を掴んだ。黙って眺めていると、鋭い痛みが走る。

「痛っ!」

「動かないで」

「いっ、たい! いった! 痛い、痛いよ!」

「浅いから大丈夫だって言っていたのは、どこの誰ですかー? ほら、我慢して。お兄ちゃんでしょ?」

「うっ……おれは、おまえの兄ちゃんじゃない……」

 ここでその言葉は、ずるいというものだ。

 思わず目を逸らす。長い付き合いの彼には、適当に流されてしまった。

「はいはい、痛いね。すぐ終わるから、じっとしていて」

「ぐ……」

 まだ血は滲み出ていたものの、長時間にも感じた消毒薬責めが終わり、おれは詰めていた息を吐き出す。大きめの絆創膏二枚を使用して、ようやく解放された。

「はい、おしまい。もういいよ」

「ありがとう」

 琥珀色の瞳をまっすぐに見て、お礼を言う。向こうも微笑み、軽く頷いた。

 しかし、刹那。眉尻を吊り上げ、表情を変える。

「どうして、きみは怪我をしたというのに、そうやって笑っているのかなあ?」

 不可解なのだろう。不審なものでも見るかのような視線だ。

 おれは、自身の唇が弧を描いていると自覚しながらも、問い掛ける。

「おれ、笑っている?」

「どこか嬉しそうにすら見えるよ」

「そうか。やっぱりおれは、笑っているのか」

「何なの? 血を見て、おかしくなったの?」

「おまえは、おれのことを何だと思っている」

 苦笑しながら尋ねると、至って真面目な顔つきで、彼は口を開けた。

「何って、相模さがみ沙希人、十三歳。正義感に溢れていて、優しくて、弟や妹たちの良いお兄ちゃんで、頼りになる、ちょっとおかしなぼくの大親友で、家族だよ」

「なんだよ、それ。真面目な顔で褒めるなんて、恥ずかしいことを……」

 不意打ちとは卑怯な。思わず面食らってしまった。

 しかし、揶揄も冗談もない。こいつは、そういう人間だ。

「きみが聞いたから、ぼくは答えたまでだよ。それよりも、もっと気にするところがあったと思うのだけれど?」

「そうか……ありがとう。嬉しいよ」

「沙希人……ちゃんと、ぼくの話を聞いていた?」

 呆れたように、一つ息を吐く友人。疲れているように見えるけれど、何かあったのだろうか。おれは小首を傾げる。

「今の言葉だろう? 聞いていたよ」

「本当に?」

「ああ。おまえが、おれのことを大親友で家族だと言ってくれた。そういう話だろう?」

 にこりと笑って言えば、更に肩を落とす彼。何やら、ぶつぶつと呟いていた。

「そうだね。それでこそ、沙希人だよ」

「そうか。ありがとう」

 お礼を言えば、諦めたような顔で苦笑して。それから、友人は表情を固くした。その様子に当てられて、気が引き締まる。

「沙希人。大事なぼくの親友」

 絆創膏の上から、そっと手を当てる同居人。彼の体温が温かくて、とても心地がよかった。

「大事なきみの体。もっと大切にしてあげてほしい。きみは、すぐに無茶をするから心配だ」

「ごめん」

「本当に悪いと思っているの? だったら、どうしてずっと笑っているのか、答えてみせて」

 おれは、空いている左の人差し指で、頬をぽりぽりと掻いた。やや困りつつも、まっすぐな琥珀の瞳には、逆らえない。

「おまえが、おれのことを思って感情を向けてくれているのが嬉しくて、つい」

「う、嬉しくて? それで、笑っているの?」

 きょとんとした顔に頷くと、みるみる頬を赤らめて、ぎこちない笑みを浮かべる彼。どうやら嬉しいが、表情に出ないよう堪えているらしかった。

「も、もう……沙希人は、仕方ないな」

 口ではそう言いつつも、声が弾んでいた。

 穏やかで優しい、平和主義の親友。彼の前でだけは、甘えてしまうおれがいた。

「さ、沙希人?」

 隣の肩に、ことんと頭を乗せる。最初は驚いていたものの、すぐに微笑んで力を抜いていた。

「どうしたの? お休みモード?」

「重いか?」

「ううん、平気。気にせず、休むと良いよ」

「ありがとう、凪逢ゆなた

「どういたしまして」

 心地よい声に、そっと目を閉じた。確かな温もりに、何でもない時間がかけがえのないものになっていく。

 人の面倒を見るのが趣味であるかのような親友と、今日まで兄弟のように育ってきた。幼くして孤児になってしまった彼を、両親が引き取ったのだ。

 同じ年で、同じ性別。こんな世の中だ。おれたちは、すぐに仲良くなった。

 父は既に亡くしてしまったけれど、凪逢がいてくれたから、母を支え、幼い三人の妹や弟たちに対して、良いお兄ちゃんでいられる。

 彼には、凪逢には、感謝してもしきれない。

 凪逢は、家族だ。親友で、大事なおれの家族。血の繋がりなんて関係ない。

 絶対に失いたくない。心の底から、そう思う。

「そういえば、割れたお皿そのままじゃない?」

「あ……」

「大変。あの子たちが戻る前に、片付けておかないと」

「そうだな」

 彼の言うとおりだ。おれは急いで立ち上がる。すると、隣の男の手で両肩を下に押された。ぽすんと、おれの体が椅子に収まる。

 突然のことに、おれは瞳を瞬かせた。

「何をする」

「いいから。沙希人は座っていて。せめて今日一日くらいは、安静にしておくこと」

「これくらい、平気――」

「じゃ、ありません」

 またもや、きっぱりと断言される。あまり食い下がっても不毛なので、おれは折れることにした。

「じゃあ、悪いな。頼むよ。気を付けて」

「わかった。任せておいて」

 ひらひらと手を振り、扉の向こうへと消える凪逢。自身よりも少し高い背を見送って、おれは手当てしてもらった腕にそっと触れた。

「早く治さないと。そうでなくとも、あいつは過保護だ」

 優しさを思い、くすりと笑みを零す。そうしておれは、目を閉じた。ささやかな安穏が、ずっと続くことを祈って。


 だが、この時のおれは、考えもしていなかった。

 腕の傷とは比べ物にならない痛みが、この先で待ち受けていることを――

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