第8話

部屋の壁は、夜になるとやけに白く見える。

誰もいない部屋にいるのに、何かに見つめられているような気がする。


ベッドの端に座って、膝を抱える。

暖房はつけてない。暖かさより、冷たさの方がましに感じる夜もある。


 


カレンダーの数字を、指でなぞった。

12月20日。あと少しで年が終わる。


この日が、何かの記念日でも命日でもないことに、ほっとしている自分がいる。


 


音を立てずに立ち上がって、机の引き出しを開ける。

奥にしまったままの、父の置いていった腕時計がある。止まったままだ。


一度だけ、母に訊いたことがあった。


「どうしてこれ、捨てなかったの?」と。


母は少しだけ目を伏せて、「あんたがいつか見るかもって思って」とだけ言った。


 


私はそれを見て、何も言わなかった。

たぶんそのときから、心の中に“見ないフリ”が生まれたんだと思う。


 


あの人は、帰ってこなかった。

理由も説明もなくて、ある日突然、姿を消しただけ。


私は泣かなかった。怒らなかった。

代わりに、言葉をしまいこんだ。誰にも渡さず、どこにも届かないように。


 


──“あかり”って名前が、無意味に思えた時期があった。


どこにも光を灯せないし、自分のことすら照らせなかった。


 


でも。


 


今日の夕方、屋上に立ったとき、

目の前で「澪」が、ちょっとだけ震えた声で「寒いね」と言った。

あれは、たぶんあの子なりの“勇気”だった。


それに応えるように、私は笑った。自然に。

言葉が返せる自分に、少し驚いた。


 


“黒巻くん”も、そこにいた。何も言わず、でも逃げもせず。

あの距離が、心地よかった。


 


私は、いまの自分が壊れてもおかしくないくらい不安定だと思う。

でも、きっとあの子たちも、どこかで似たような傷を持ってる。


もしかしたら、

壊れたままで、並んでいられることって、あるのかもしれない。


 


カーテンを少しだけ開けると、遠くの街灯が瞬いていた。

冷たい光が、部屋の中に細く差し込む。


 


“あかり”って、そういう存在でもいいのかなって。

照らすんじゃなくて、ただ灯っているだけで──


 


私は、もう一度そっとカーテンを閉じた。


そして、今日あったことを反芻するように、布団にもぐりこむ。

胸の奥に、まだ誰にも見せていない温度が少しだけ残っている。


 


──壊れないように、でも壊れてもいいように。


そう願いながら、目を閉じた。

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