金魚のピヨちゃん
海乃マリー
前編:金魚すくいに翻弄された金魚
暑くもなく寒くもない。心地よい僅かな水圧の中を私は浮遊する。
最初は透明な壁に頭をぶつけたショックで死ぬかと思ったよ。なんて狭い空間なんだろうってね。そのうち、どこもかしこも硬くて透明な壁に囲まれていることに気が付いて、私はその壁を沿うようにグルグル泳ぎ回ることにした。慣れてしまえばなんてこともなかった。滑らかで硬く冷たい質感が身体に触れる感覚を愉しむ余裕すら出てきた。
外から人間の声が聞こえてくる。水中にいると外の言葉ははっきりと聞き取れない。音に感情が乗っていると少しは意味を汲み取りやすいんだけど。
「ピヨちゃん、おはよー」
彼らは私の近くにきてよく『ピヨちゃん』という音を発する。どうやら私の名前は『ピヨちゃん』らしいな。なかなか可愛い音の響きだ。
人の気配が近付いてくると嬉しくなる。いつものようにガサゴソと音を立てて、食べ物を鉢の中に振り入れてくれるんだ。私はずっとお腹がペコペコだった。本当はもっと沢山食べたいけれど、食事は一日二回、朝と夜でだいたいの時間が守られていた。
正直言うと、毎回少し足りないぐらいの量だった。でも、もっと食べたいよと伝える術はない。私が美味しそうに食べてる姿を見て察してもらうしかないだろう。私は精一杯口を大きく開けてパクパクと食べ物を飲み込んでいく。お腹が満たされていく感覚を全力で喜んでいるのが伝わるかな? 食べ物が無くなった後も取りこぼしたモノがないかと、探し回ったりするんだけど、気付いてくれてるかな?
私はこの心地良くて独りきりの安全で守られた世界で生きていければそれでいいと思っている。清潔なお水があって、食べ物があって、時々声をかけてもらえる。これ以上の幸せはない。十分満足している。快適な場所でただただふわふわと生きていければそれでいい。外の世界は怖いからね。
この場所に連れて来られる前、私はとても恐ろしい場所にいた。水色の浅くて大きい水槽の中で、私は仲間達とひしめき合うように泳いでいた。
不思議なことに、沢山の仲間の中でも、同じ親の元から生まれた兄妹達のことを見分けることができた。同じ匂いがするからだろうか。兄妹達とすれ違う度に親愛のサインを送り合った。
この水槽内はいろんな感情が交錯し、充満していて、ほとんどカオスだった。『怖い』『助けて』『嫌だ』などという私達の心の叫びが、常に充満して渦巻いていた。
誰かが「怖い」と叫んだら、その恐怖は水を介してすぐさま、仲間達に伝播するんだ。すると、透明だったはずの水は群青色に変わり私達は恐怖に満たされる。
誰かから「一緒に頑張ろう」と元気で前向きな感情が発された時には、水は明るく優しいサーモンピンク色に変わり気持ちが安らいだりもした。
ただ、この水槽で良い気持ちになれることは本当に少なかったけどね。なぜなら、私達から湧き上がる感情の殆どが恐怖に関連するものばかりだったから。
「お前たち、お祭りは今日で最後だからな。がんばれよ」
私達を上から覗き込みながら人間のおじさんが言った。もうたくさんだよ。これ以上長い時間この状態に
おじさんは沢山のお椀を丁寧に重ねて並べている。そして『ポイ』と呼ばれているプラッチックの枠に白の紙が張られた道具を大量に準備していた。
お察しの通り、ここはお祭りで出店されている金魚すくいという場所だ。主に人間の子ども達が私達、金魚を
『掬う』んじゃなくて『救って』欲しいものだと思う。ちょっと、そこのキミ。金魚がなんで漢字分かるんだよ、なんて意地悪なこと思わないでね。ほら、こうして語れること自体金魚らしくないでしょう。金魚の認識が人間のそれに置き換えられるような便利な道具があるとでも想像してほしい。
話を戻すと、昨日は私達の三分の一ぐらいが掬われてどこかに連れて行かれたんだ。どこに連れて行かれたのか分からない。私の
私が仲良くしていた私とそっくりの妹とも昨日お別れした。彼女は最後に「行きたくない、怖い、あなたと離れたくない」と言って泣いた。勿論、人間のような涙が出るわけじゃないけど、そういう気持ちが伝わってきて私も一緒に泣いた。抗うこともできない悲劇の運命に翻弄されて、結局残るのは諦めだけだった。
一緒に過ごせた時間はとても短かったけど、私はあなたのことを絶対忘れないと思ったよ。一度触れ合えることができたから、私達はどこにいても、いつまででも、ずっと繋がっていられることを私は知っているから。だから大丈夫。もう二度と会えないかもしれない私の可愛い妹。
それにしても、お祭り二日目ともなると身も心も疲れ切ってしまっている。別れが日常茶飯事すぎて、感覚が麻痺してきている。もっと落ち着いている静かな場所にいきたい。
ここでは、逃げ惑うことに疲れて諦めた者達から順に居なくなるのだ。
明るすぎる電球の光が容赦なく水槽を照らして、下から見上げると水面がものすごく眩しいんだ。水が異様に温かくて、少し濁っていて、居心地が悪くて、息苦しいよ。誰も彼も逃げ惑っている。人間の子ども達が楽しそうに追いかけまわしてくる。その楽しそうな感情が時折水に流れてきて楽しいのと怖いのが入り混じって頭がおかしくなりそうだ。
「やったー。捕まえたー」
男の子の甲高い声が空気を震わしながら直接響いてきた。
それは、ほんの一瞬の気の緩みだった。素早い動きで私はポイに絡め取られて、水の入ったお椀にスルリと移されたんだ。逃げる隙も無いくらい一瞬の出来事で何が起きたかも分からないほどだった。
一瞬でも気を抜いてしまった自分への怒りと、こんなことに翻弄される運命への憤りと、遂にやられてしまったという悔しさで胸が苦しい。
それと同時にもう逃げなくていいんだという安堵感と、どんな場所に連れて行かれるんだろうという不安と、ここより良い場所だったらいいなという僅かな期待など、色んな感情が
「わぁーい! 赤い金魚かわいいなー。うちのポンちゃんは黒いから、赤いのが欲しかったんだー」
その男の子はビニール袋に移された私を覗き込み嬉しそうに笑っている。
「智輝、自分でちゃんと持って帰れる? 絶対落としちゃダメよ」
落とす? 縁起でもないことを言わないで欲しい。この高さから落とされたら間違いなく即死だろう。でも水がクッションになるからもしかしたら大丈夫だろうか、などと一瞬のうちに
そんな助言をしているのは智輝の母親みたいだ。あのね一つ言わせてもらうけど『落とす』なんて、恐ろしい言葉使ったら、現実はそっちに引っ張られるものなのよ。もっと、こう『家まで無事に持って帰りなさい』とか穏やかな言葉を選んでもらいたいものだわ。
細かい金魚で悪かったわね。私は何ていうか、とても敏感な金魚なんだ。それに金魚なんてみんなこんなもんだと思うわ。人間の方がちょっと鈍感なんだと思う。
智輝は私の入ったビニール袋の紐をぎゅっと手に絡ませて握りしめた。智輝の緊張が伝わってきた。
ビニール袋の中はとても狭いし、少し息苦しくもあった。それに、智輝が歩くたびに大きく揺れるからさっきとは違う物理的な苦痛があった。でも、仲間の色んな感情が飛んでこないから、幾分心が安らいでいるような気もする。
狂乱の金魚すくいで興奮状態だった時には気付けなかったけれど、静けさの中にいるとどっと疲労感が襲ってきた。もう、どうでもいいわ。とにかくちょっと休みたい。私の運命は全部この男の子、智輝にかかっているんだわ。この子が良い子でありますようにと願うしかない。
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