第六章 雪解けの道

 早春の訪れと共に、『花筏』は新たな息吹に満ちていた。朝もやの立ち込めるなか、日菜陽は縁側に座り、山々を見つめていた。残雪は日に日に溶けゆき、その下から新芽が顔を覗かせ始めていた。


 春近し 溶くる氷に 風の音


 冬の間、日菜陽と椿は宿の新しい姿を模索していた。俳句の会は、今では月に二度の開催となり、遠方からも参加者が訪れるようになっていた。


「春風の 運ぶ言の葉 受け止めて 心を磨く 宿となりぬ」


 椿の詠んだ歌に、集まった客たちから感嘆の声が上がった。日菜陽は、誇らしい気持ちで椿を見つめた。


 ある日の夕暮れ時、思いがけない来客があった。玄関に立っていたのは、一人の初老の男性。その佇まいには、ただならぬ風格が漂っていた。


「私の弟子になりませんか?」


 訪れたのは、かつて日菜陽に深い影響を与えた俳人・寒泉子かんざんしその人だった。日菜陽は、息を呑んだ。


「まさか、私ごときが……」


 声が震える。寒泉子の句集『山路』との出会いが、日菜陽を俳句の道へと導いたのだ。その恩人が、今ここに。


「あなたの句には、独特の清澄さがある。それに」


 寒泉子は『花筏』の佇まいを見渡して微笑んだ。庭には梅が咲き始め、その香りが空気を甘く染めていた。


「この宿での営みこそ、現代における俳諧の理想ではありませんか」


 その言葉に込められた深い意味を、日菜陽は心に刻んだ。俳諧とは、単なる言葉の遊びではない。人と人との心の交わり、自然との対話、そして日々の営みの中にある美しさを見出す営み。それこそが、真の俳諧なのだ。


 梅が香や 師の言の葉の しみ入りて


 椿は、そっと日菜陽の袖を引いた。


「お茶を点てましょうか」


 椿の声には、日菜陽の感動を理解した温かみが溢れていた。三人は囲炉裏の間に移り、静かにお茶を飲んだ。寒泉子は、椿の点てた茶の味わいにも感心した様子だった。


「お二人で、素晴らしい空間を作られていますね」


 寒泉子の言葉に、椿は柔らかな表情を浮かべた。


「はい。日菜陽さんのおかげで、この宿も新しい道を歩み始めました」


 椿は、一首の歌を詠んだ。


「春の風 運ぶ言の葉 抱きとめて 二人で紡ぐ 文の道かな」


 寒泉子は深く頷き、日菜陽に向き直った。


「ご指導、よろしくお願いいたします」


 日菜陽が頭を下げると、寒泉子は優しく微笑んだ。


 その夜、日菜陽は長い間、星空を見上げていた。春の星座が、冬の名残の星々と入れ替わりつつある。


 明日から、新しい修行が始まる。しかし、それは決して重荷ではない。椿という伴侶がいて、この宿という居場所があるからこそ、さらなる高みを目指す勇気が湧いてくるのだ。


 春の訪れと共に、宿は新たな段階へと進もうとしていた。日菜陽は椿と二人で、来季からの計画を立て始めていた。茶室を改装して、より本格的な文化サロンにする案も持ち上がっていた。


「俳句と短歌の交流会、素敵だと思います」


 椿の提案に、日菜陽は心から賛同した。二人の芸術が交わることで、新しい文化が生まれる。それは、二人の絆がもたらした奇跡のような結実だった。


 夜も更けた頃、日菜陽は一句を詠んだ。


 春の闇 二人で見たる 星の道


 椿も、それに応えるように歌を詠む。


「春の夜の 星めぐりゆく 空のごと 二人の道も 輝きながら」


 窓の外では、まだ肌寒い風が吹いていた。しかし、その風にも既に、確かな春の温もりが混じっている。日菜陽は、椿の肩に自分の羽織を掛けた。二人は寄り添いながら、夜明けを待った。


 やがて東の空が白み始めた時、日菜陽は最後の句を心に刻んだ。


 明易し 共に歩まむ 春の道

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