第二章 春霞の誘い

 それから一月が過ぎた頃、日菜陽は再び『花筏』を訪れていた。今度は意図して足を向けたのだ。山を下りる道すがら、日菜陽は何度も立ち止まっては句を詠んだ。


 春霞 宿の灯見ゆる 山の端に


 玄関で下駄を脱ぐと、懐かしい檜の香りが鼻をくすぐった。


「お帰りなさい」


 椿の声には、まるで昔からの知己を迎えるような温かみがあった。


「ただいま」


 思わずそう返事をしてしまい、日菜陽は我に返って頬を赤らめた。しかし椿は嬉しそうに微笑んで、案内の手を差し伸べた。


 この日以来、日菜陽は定期的に『花筏』に立ち寄るようになった。椿との時間は、旅の疲れを癒すだけでなく、新たな詩心を呼び覚ますものでもあった。


 ある夜、椿は日菜陽に茶道を教え始めた。


「お茶は、一期一会の心で……」


 夕暮れ時の茶室は、闇と光が綾なす不思議な空間だった。障子越しに差し込む柔らかな光は、椿の横顔を淡く縁取っている。


 茶筅を手に取る指先の しなやかさに、日菜陽は思わず息を呑んだ。白い腕が袂から覗き、その素肌は薄明かりに真珠のような光沢を帯びていた。


「お点前、始めさせていただきます」


 椿の囁くような声が、静寂を優しく破る。


 茶碗を清める水の音が、泉のように清らかに響く。その音色は、まるで水面に落ちる月光のように、澄み切って美しい。椿の一挙一動には、茶の湯の精神が宿っているかのようだった。


 茶筅を洗う仕草には、禊ぎの儀式を思わせる厳かさがある。竹の軋みが、かすかな調べとなって茶室に満ちていく。


 着物の裾が畳を滑るたび、微かな音が立つ。それは、夜露が葉を伝う音にも似ていた。椿の動きには、まるで舞を舞うような優美さがあった。


 茶碗を回す手つきには、月が雲間を巡るような緩やかな律動があった。茶碗の釉薬に映る光が、ふと椿の瞳に宿る。


 抹茶の香りが立ち昇る。新緑の匂いを含んだその香気は、遠い山里の記憶を呼び覚ますようだった。


 椿が茶筅を立てる音は、深い森で木霊する鳥の羽音のよう。泡立つ抹茶は、春の霞のように柔らかく立ち昇っていく。


「お盆を回させていただきます」


 その仕草には、花が風に靡くような自然な美しさがあった。椿の袖が僅かに揺れ、畳に落ちる影も揺らめく。


 日菜陽は、目の前で紡がれる詩のような時間に、言葉を失っていた。茶の湯は、確かに一期一会の芸術だった。しかし、それ以上に日菜陽の心を打ったのは、所作の中に垣間見える椿という人そのものの美しさだった。


 その瞬間、日菜陽の中で一句が生まれた。


 茶の湯や 袖の緑に 春宿る


 椿はその句を聞いて、かすかに微笑んだ。その表情は、夕暮れの茶室に差し込む最後の光のように、儚く、そして心に染みるものだった。


「茶の湯は、心を映す鏡のようなものかもしれません」


 椿の言葉に、日菜陽は深く頷いた。この一時が、永遠の時のように感じられた。茶室の静寂の中で、二人の心は確かに通じ合っていた。


「私の母も、茶道を嗜んでいました」


 ふと、日菜陽は懐かしい記憶を語り始めた。


「母は、父と違って、私の選んだ道を静かに認めてくれました。『自分の心に正直に生きなさい』って……」


 椿は黙って頷き、日菜陽の手の上に、そっと自分の手を重ねた。温かい。その一言で表現できる、けれどもっと深い何かがある温もりだった。


 春の終わりが近づく頃、椿は日菜陽に一枚の短冊を渡した。


「山深き 宿に灯りを 守りをり 君の帰りを 待つ心から」


 日菜陽は自分の句帳から、返歌を認めて渡す。


「寄り添いし 二人の影や 春の雪」


 山間の小径で、二人の指が重なった。その瞬間、散り行く山桜が、二人を祝福するように舞い落ちた。

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