第2話 バード卿
「私のことは、そうですね、バード卿、とお呼びください」
「バード卿……?」
玄関先で迎えてくれた、背の高い、髪の長い男性。
セシルは首をかしげた。
(……お名前に覚えはないわ。以前お会いしたことはないようね)
バードはセシルの反応を気にすることなく、屋敷の中をさっさと進み、お茶の支度が整ったサロンへとセシルを連れてきた。
「あなたの父君の知り合いです。いや、いいタイミングでしたよ」
「いいタイミング……?」
セシルはソファに座り、正面の椅子に腰を下ろしたバードをじっと見つめる。
明らかに年上。
物腰は柔らかいが、どこかうさんくさく感じてしまう。
(お顔だちは、とても整った方ですけれど)
セシルは警戒しながら、バードを観察する。
艶やかな濃い茶色の髪は長く、背中でひとつにまとめている。
白いシャツとパンツの、ラフな服装。
貴族令息なのだろうが、外見からだと、何者なのだかよくわからない。
ただ、この瞳———。
セシルはバードの鮮やかな青い瞳を驚きをもって見つめた。
まるで青い鳥の羽のような、この青い瞳。
どこか、懐かしいような気が、した。
***
「何ですって!?」
サロンにセシルの令嬢らしからぬ大声が響いた。
「わ、わたくしにあなたの恋人のふりをしろと!? わたくし、婚約者がおりますのよ!? それに、恋人のふりって。失礼ですけど、あなた、一体おいくつですの!? わたくしよりはるかに———」
「その婚約も雲行きが怪しいのでしょう。だからこそ、こんな田舎までいらしたわけです。それに、ひどいなぁ。まだ二十八歳ですよ? 十歳年上なだけです。それに、私の妹は、ちょうどあなたと同い年で」
「バ、バード卿……」
「血のつながらない妹なのです。とてもいい子で。彼女にとてもよい縁談が持ち上がったのですが、独身の兄を心配して、乗り気ではないのです。来週、お相手が妹に会いに来るのですが、その時に私にも恋人がいると紹介して、妹を安心させたいと思って」
セシルはふう、と深いため息をついた。
一人で心ゆくまでのんびりする夢は消えた。
しかし、湖畔の別荘での保護者なし生活は手放すまい。
「じゃあ、こうしよう。私を助けてくれたら、私もあなたのお願いをひとつ、叶えよう」
「……詳しいお話を伺いましょうか?」
***
「
「えっ! でも、セシル嬢、あなたの手を握っただけではありませんか!? 恋人なら、それくらいは———」
セシルはぺしっ、と手に持っていた扇でバードの手を軽く叩いた。
「先ほど決めましたでしょう? わたくしが嫌なことはしない、と。扇をこうすれば」
セシルは扇でそっと口元を隠す。
「これは
扇をひらりと裏に返す。
「これは
「しかし、セシル嬢……」
「それができないのなら、このお話はなかったことに」
「わ〜、わかりました! では、続きを練習しましょう」
バードはセシルをエスコートして庭園を散歩し、ガゼボに作られたお茶の席に案内する。
手に持ったハンカチで座席をさっとぬぐって、セシルを座らせる。
「もう少し間を詰めて座ったほうが恋人らしく見えるかと思いますが」
バードはそう言いつつ、性懲りもなくセシルの手を取り、そっとその甲をなでる。
「バード卿!!」
セシルは真っ赤になって叫んだ。
「セシル嬢、だめですよ。ちゃんと『
バードがまじめくさった顔で指摘する。
二人は、人前で恋人のふりをするに当たって、約束事を決めた。
セシルが嫌なことはしないと。
もし人前で、セシルがこれは嫌だと思った場合には、相手に気づかれないように、小声で、しかも外国語で、二人で決めた『
「たしかに、いいアイデアだとは思いますが、なんだか犬になったような気がします」
バードがぼやいた。
「あなたがどこまでなら許されるのか学習すれば、『
「その『学習』も、なんだか犬のようですね」
「まあ。わたくし、こんな大きいワンちゃんは、今まで飼ったことはありませんわ」
セシルはくすくすと笑った。
たしかに、バードはかなり背が高かったのだ。
「セシル嬢。でもね、ひとつ覚えておいてください。私はあなたより十歳年上の、二十八歳の男です。一人前の男としては、手を撫でただけで叱られるというのは……」
そう言って、バードは流れるような動作で、セシルの
「!?」
セシルは突然、目の前に迫ってきたバードの顔に、真っ赤になる。
バードがくすり、と笑う。
「真っ赤になっちゃって、可愛い。……キスされると、思いましたか?」
次の瞬間、セシルは叫んだ。
「ハウス!! ハウス!! もう、あなたのお家に入りなさい!!」
しかし、そう叫ぶと、セシルの方が真っ赤な顔のまま立ち上がり、すごい勢いで庭を横切り、屋敷の中に戻っていく。
バードはぽかんとした表情で、セシルの後ろ姿を見ていたが、やがて、こらえきれないように笑い出した。
「セシル嬢……あなたがハウス、って命令したのに、自分がお家に入っちゃった!!」
笑いすぎて、バードの鮮やかな青い瞳に涙が浮かんだ。
「セシル嬢……君は変わっていないねぇ」
セシルはパタパタとレディらしくなく屋敷内を駆けると、二階に用意された彼女の部屋に飛び込んだ。
ドアに背中を預け、両手で真っ赤な頬を押さえる。
「バード卿ったら……!」
セシルは、きゃ〜!! とばかりに頭を抱えた。
しかし、次の瞬間に、「ハウス!」と叫んだ時の、目をまん丸にしたバードの顔を思い出して、セシルはぷっと吹き出した。
「まあ、あのお顔は、見ものでしたわね……二十八歳の立派な紳士が、まるで本物のワンちゃんのようで。ちょっと大きすぎるし、言うことは聞かないけれど———」
セシルははっとした。
苦しそうに、右手で胸を押さえる。
「わたくし、笑っているわ……」
義妹アナの告白から始まった騒動。
セシルはまだ、ルイとの婚約をどうするか、決めていない。
そんな状況でも、まだ笑える、ということが、とても嬉しく感じられた。
「本でも読みましょうか」
セシルは赤い顔のまま、お気に入りの本を取り出し、窓際に向かった。
窓辺の椅子に腰かけて、本を読み始める。
セシルの右手が、しおり代わりに使っている、青い鳥の羽を持ち上げた。
その時、バードは庭から彼女の部屋の窓を見つめていて、セシルの指先に、青い羽を見た。
バードはとても優しい表情を浮かべたのだった。
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