Viridian

祐里

1.「童貞だからダメ」

 私、セックス大好きなんだ、と彼女は言った。

「え……、それって、誰とでもヤっちゃう……?」

「そこまでは。下手な人とはしたくないから」

 他に誰もいない小さな店ではエアコンが時折ゴオオと冷風を吹き出し、その存在を主張している。

「下手って、しないとわからないですよね?」

 彼女は「わかるよ」と笑ってから狭いカウンターの中で身を翻し、戸棚のグラスを手に取った。水族館の水槽を泳ぐ魚を連想させる仕草を、つい目で追ってしまう。

「例えば、夏休みに海辺の町にリゾートバイトで来ている地味な男子大学生は童貞だからダメ、とか」

「リゾートバイトというか、親戚の民宿手伝ってるだけですよ」

 自分のことを言われているとわかり、とっさにあまり意味のない否定をする。このバーカウンター越しに、彼女はいつもゆらゆらと泳ぐように客の相手をしている。二十歳になったばかりの童貞の相手も。

「それ、自分が童貞だって白状してるよ」

「う……」

 グラスに氷を入れながらクスクスと笑う彼女に仕返ししたくて「明菜あきなさん」と呼んでみたが、返事はない。夕方から降っている雨は静かで、氷がグラスにぶつかる音を邪魔しない。

「明菜さん」もう一度呼ぶと、「やめてよ」と彼女の眉間にしわが寄った。

「何で嫌なんですか?」

「昔のアイドルみたいじゃん。アキって呼んでってこの間言ったでしょ」

「……じゃあ、アキさん」

 僕の言葉にわざとらしくニヤッと笑みを作る。僕は初めて会ったときからアキさんを気に入っているというのに、いつもこんな調子で主導権を握れないでいる。

「もう帰んな。おばさん心配してるよ」

 BGMもない店で、尻の下のカウンタースツールをキュッと回して壁の時計を見ると、カチッと小さな音を立てて短針が「11」に届いた。

「朝早いんでしょ?」

「ええ、まあ」

 ボディバッグを手に取ると会計を済ませてスツールを立ち、他に客がいない店をあとにする。

「また来てね」

 傘を開く音の上を通り過ぎた明るい声が、なぜだか気に障った。


 ◇


「あっ、ひー坊、悪いんだけど魚佐次うおさじにケース持ってってよ。今日は三つでそんなに重くないからさ」

「ご命令とあらば」

「何だ、大げさだねぇ。全くひー坊は」

 笑う叔母に笑顔を返し、僕は民宿の前の砂利を踏みながら裏に回った。昨夜の雨がまだ乾ききっていない日陰に置かれている木のケース三段を、腕を広げていっぺんに持ち上げる。からだから軽いけれど、顎を使って上段を押さえていないと強い海風に煽られてしまう。


 徒歩で三分のはずの魚佐次に二倍くらいの時間をかけて行き、ビニールのエプロンをつけたおじさんに「こんにちは」と声をかけると、「お、悪いな! そこ置いといてくれ!」と元気のいい声が返ってきた。

「ここでいいかな……よいしょ、っと」

「あっはっは、ひー坊は細いからなあ、大変だっただろ」

「重くはないけど、風が強くてふらふらしちゃいましたよ」

「ここは南西から風が来るから……っと、そうだ、シアンに持っていってほしいものが……」

『シアン』はアキさんの店のことだ。突然出てきた店名に僕の心が喜ぶ。

「釜揚げしらすなんだが、ちょっと待ってな」

 おじさんは長靴の足でびたびたと歩き、店頭の冷蔵ケースから釜揚げしらすのパックを三つ取り出した。

「支払いは月末でいいからって言っておいてくれないか」

「わかりました」

「すまんな。じゃ、頼んだよ」

 カラカラと冷蔵ケースを閉める音を聞きながら軽く会釈をして魚佐次を出ると、海からの風がびゅうっと吹き抜けた。

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